【読書メモ】 『日本のふしぎな夫婦同姓』 中井治郎
・それぞれの文化をもとに制定されている、それぞれの国や地域の「結婚と姓」をめぐる制度はさまざまである。たとえば夫婦それぞれの父の姓を名乗る父系制の伝統がある中国・韓国・台湾は夫婦別姓の伝統を持つ。このような文化では、生まれた子供は父親の姓を引きずることが多く、母親と子供の姓は異なる。一方、日本の婚姻制度は「夫婦同氏制」と呼ばれるものである。アメリカやドイツが選択的夫婦別姓に法改正したため、なんと現在夫婦同氏制を採用しているのは世界中で日本だけになってしまった。
・日本の戸籍制度は明治4年に制定された。近代的な国民国家として、それまで多様であった家族の関係性を規格化し画一的な近代家族を基礎単位として管理するようになった。当時としては、とても効率的な方法だったのかもしれない。明治民法は家族内での序列を事細かに制度化した。そして、その家の主たる戸主は家族を管理掌握する権限を持った。一方で、戸主はその家族それぞれの人生に対する重い社会的責任も課されたのである。
・新憲法の下、1947年の民法改正によって個人を縛り付ける家制度は廃止された。しかし戸主権は廃止されたものの、同一視の者のみを二代に限り記載するものとして、法的制度が存続されることとなる。これによって、婚姻届によって夫婦が同一氏になり2人で新しく1つの戸籍を作ることが、この国における新たな結婚となった。そして、男女2人が結婚して新しい戸籍を作る際に、氏を変えないものが戸籍筆頭者となるよう定められた。
・しかし、外国籍の者は戸籍に入れないため、国際結婚する日本人が作る新しい戸籍には、ひとりしか登録されないのだ。結果として、国際結婚に限り夫婦別姓が法的に可能となる。一方で、世帯と言う住民登録も存在する。同じ住所で同居する世帯ごとに世帯主が定められ、市区町村が個人を単位として作成する住民票に記載される。他人であっても同一の世帯に入ることができる。このため、夫婦で暮らしている世帯の世帯主と戸籍筆頭者が別人である、と言うことが当たり前に起こっている。
・現在では結婚するカップルの96%が妻の姓を捨てると言う選択をしている。しかし、土地や家業を受けついていくことが何より重要であった時代には、苗字を変える男は例外でも何でもなく当たり前に存在していた。家長の下家族ぐるみで営む農家や商家などの自営業が中心だった時代は、彼らにとって家を継ぐことは極めて差し迫ったリアルな経営的問題だった。才覚を認められた次男三男、そして苗字を変えて家の外からやってきた養子や娘婿が家を継ぐことも珍しいことではなかった。
・近年の工業化や経済の近代化に伴って、都市中間層において職住分離の「夫は外に勤めに行き、妻は専業主婦」と言う新しい家族モデルが普及した。経済的に家を継ぐ事が必須でなくなった代わりに、家族内における唯一の稼ぎ手となった男性のアイデンティティーを保持するために、男の苗字を残すことが重視されるようになっていった。かくして、結婚に際して苗字を残すことは「男らしさ」の問題に変貌していった。しかしこのような「男稼ぎ」型の核家族を可能にしたボーナスタイムは、高度成長期からバブルまでの30年ほどに過ぎなかった。それでも多くの男性たちは、女性たちから期待されている以上に一家の「稼ぎ手」としての役割を内面化している。
・この国では女の子がいつか自分の苗字が好きな人の苗字変わるのだろうかと考えながら育ち、男の子は自分の苗字が変わることなんて思いもしないまま育つ。結婚とは男性にとっては通過点であり、女性にとっては生まれ変わりである。多くの女性にとって「結婚を機に自分のキャリアをあきらめる」リスクが生じている。「ガラスの天井」と言う言葉があるが、その背景には職場において女性が添え物以上の存在になることを許さない男性中心の組織文化がある。男たちが今でも抱え続けている変わることへの恐れと歪な頑固さは、懐かしんでばかりで「男の沽券」を立て直すこともなく、ただ「男らしくない」権利の数々を奪われたまま日々をやり過ごしてきたことのツケのようなものなのだろう。
・著者(男性)が結婚で苗字を変える際に、反発が大きかったのは身内の女性たちだった。それは、「女三界家なし」という寄る辺ない人生の中で、自分とずっと同じ苗字でいてくれる存在は息子だけだと期待している彼女たちの心理に起因している。逆に娘たちには「女の子はそういうものだと最初からあきらめがついている」からと、何世代も受け継いできたあきらめの鎖を「あなたは女の子だから仕方ない」と諭しながら首にかけようとしている。著者の妻は三姉妹のひとりとして生まれてきた。その出自によってなにかをあきらめなければならないようなことを何ひとつ許すわけにはいかない、という怒りにも似た衝動によって彼は妻の姓を選ぶことにした。
・人の名前はその人の身分や立場、誰かとの関係性を示す、とても社会的なものである。実際に、妻が改姓したことによって男性が彼女が自分のものになったと言う所有意識を持ち、そこから暴力をふるい始めると言うケースが多いことも指摘されている。また、選択的夫婦別姓は賛同できないと言う人々の理由も「夫婦同姓と言う名前をめぐる制度の変更によって、彼らの理想とする家族や男女の関係性を壊しかねない」と言う危惧からである。通称や旧姓で活動する女性を黙らせたいと言う時に、彼女を配偶者の姓で呼ぶという嫌がらせは、しばしば目撃される。自分がどんな名前で呼ばれるかを自分で決める権利は、その個人が誰にも支配されない存在であることの証であり、そこでただひとつ訴えられている願いとは、つまり「誰かの添え物ではない自分の人生を生きたい」という切実な願いなのだ。
・選択的夫婦別姓と言うと「夫婦別姓」のところが注目されがちだが、むしろ「選択的」ということが大事である。現在の「強制的」夫婦同性に賛成か反対かということが、真の問題なのだ。目指すべきゴールは、あくまでそれぞれの家族がそれぞれの事情に合わせて家族の形を選択できる社会である。結婚すること、家族を作ること、子供を持つこと。かつては当たり前とされてきたことの多くが人生において必須のものではなくなり、今はそれぞれが自分がどう生きたいかを考えた上で、「あえて選びとること」に変わりつつある。