見出し画像

離島で『夕暮れ』を走る " 旅先で『日常』を走る ~spin-of㉕~ "

【前回のあらすじ】
水俣で『屍』を走る " 旅先で『日常』を走る ~spin-of㉔~ "
" 一歩一歩踏みしめているこの足元には、メチル水銀にまみれた土壌やヘドロと魚たち。そしておそらく踊りながら海に落ちた猫たちの骨も山ほど混ざっているのだろう "


2024年8月24日。土曜日。

いよいよ本日の夕方に迫ったハーフマラソン大会に備え、私は前泊地の熊本市内から長崎五島列島へと向かっている。

まずは熊本駅から九州新幹線で新鳥栖駅へ。ここで西九州新幹線に乗り換えたいところだが、佐賀県内では開通どころかまだ走行ルートすら確定していない。今のところ西九州新幹線の始発駅となっている武雄温泉駅までは、在来線特急の『リレーかもめ』での移動となる。

新鳥栖駅の在来線ホームに入線してきた特急車両は787系。30年近く前に私が熊本に住んでいた頃、通勤で毎日のように乗車していた車両だ。目の当たりにすると、懐かしい思い出が脳裏にあれこれと思い浮かんでくる。乗り込んでみると、シートも内装もすべて懐かしさに溢れている。西九州新幹線が全面開通した暁には、この車両もお払い箱になってしまうのだろうか? そんなことを考えているうちに、リレーかもめは佐賀県内の区間を走り抜け、武雄温泉駅に到着した。

ここからはいよいよ西九州新幹線に乗り換える。まだ開業して2年足らずで、ホームも車両も真新しい。乗客の数は休日の昼頃にしてはあまり多くない。自由席に腰を落ち着けて、長崎までリッチなひと時を過ごしていこう。と、車窓を眺めながら物思いに耽っていると、「まもなく終点、長崎です」と車内アナウンスが。なんと、乗車してから30分で長崎駅に到着してしまった。さすがは新幹線!

長崎駅の改札を出ると、駅前も数年前とはすっかり様変わりしている。新たにできた駅ビルでランチを摂ろうかと中に入ったが、レストラン街はどこも満席で行列ができている。ここでのランチはあきらめ、10分ほど歩いて長崎港に移動した。

長崎港には、西日本では大手のショッピングセンター『ゆめタウン』がターミナルに隣接している。ここのレストラン街のパスタ屋でランチを摂り、港から高速船に乗って五島列島の福江島に向かう。港のターミナルにはハーフマラソン参加者向けに船の切符を取り置きしてくれている旅行代理店の方々がブースを設けており、私もそこで受付を済ませて切符を手に入れた。

ちょうど、これから私が乗る予定の高速船の入船受付がはじまったので、乗り込んで島へ向かうことにする。

福江港に到着したのは16時頃だった。
降船すると、ターミナルビルでそのまま出走手続きを行う手はずになっている。この日は島外から1,000人以上が来訪しているとのことで、ビルも大混雑している。

人混みをかき分けて2階にある受付カウンターで手続きをし、ゼッケンなど一式を受け取る。更衣室など用意されていないので、男子トイレでランニングウェアに着替え、佐川急便が臨時出店している手荷物預かり所に500円支払ってスーツケースを預けた。

港からは目と鼻の先の、スタート地点に向かう。

『五島列島夕焼けマラソン』は、今回で38回目を迎えるとのこと。ゲストはオリンピック金メダリストの野口みずきだ。ゴール後には五島牛と五島美豚の試食会もある。

夕方とはいえまだ8月で、ここは九州だ。この時刻でも気温は優に30℃を超えている。無理せずにマイペースで完走して、お肉の塊にむしゃぶりつこう。我ながら、完璧なプランニングだ。

スタート地点の後方、港に面した道路に移動する。ここでスタートの号砲を待つ。五島列島を訪れるのは今日がはじめてだ。島の風景をたのしみながら行こう。

--

号砲が鳴り、レースは開始した。私も中団後方からゆっくりとスタートする。スタート地点のゲート横で野口みずきを見かけた。

まずは商店街を進んでいく。地元の方から応援の声がそこかしこから飛び交っている。ランナーの多くをこの島民が占めているようだ。特に学生を中心とした若者たちの姿が目立っている。

商店街を抜けると緩やかな坂に入る。ここからしばらくは上りが続く。直射日光を浴びているわけではないが、蒸し暑さがジリジリと私のスタミナを奪っていく。すでに汗だくで、全身がびしょ濡れだ。

坂を上りきった先は、しばらく高台を進んでいく。海を臨む方角に、ゆっくりと日が落ちていく。

ここで一旦足を止めて、写真を撮りながらしばし眼前の風景を瞳に焼き付ける。まだスタートしてから10kmにも満たないが、スタミナをかなり消耗してしまった。

ふたたび走りはじめたが、この先のアップダウンが続く道を軽快に走り抜けることは無理だった。上り坂は歩き、下りになると走り出すパターンを繰り返し、とにかく完走だけを目標に進み続けた。

通常のエイドとは別に、沿道で応援する人たちがペットボトルのドリンクなどを用意している光景がそこかしこに見受けられる。しかし、それらが私に振る舞われることは一度もなかった。なぜなら、あくまでも彼らは自分の家族や友人たちを応援するために、暑い中沿道に陣取って声援を送っているのだ。

すっかり日が暮れて、街灯もまばらな道をひたすらゴールめがけて進んでいく。フルマラソンを完走したことが何度かあるが、その時よりも体内に披露が蓄積されている。

スタートから2時間44分。私は這々の体で、ハーフマラソン自己ワーストタイムでゴールした。1年前に記録した自己ベストよりも、50分も遅いタイムだ…… 

--

私はゴールした途端に芝生に倒れ込み、そのたま40分ほど立ち上がることができなかった。この暑さとコースのアップダウンに、体力を芯から削り取られてしまったようだ。「あっ!」と気付いたその時にはすでに手遅れで、五島牛と五島美豚の振る舞いは終了していた。なんてこった…… 

沈んだままの気分と思い身体を引きずってなんとか着替えを済ませると、21:30発のバスに乗り込んだ。これから、今日の宿に向かうのだ。じつは、このレースの申込み受付初日のお昼頃に島内の宿を予約しようとしたのだが、すべての宿泊施設がすべて満室となっていた。

普段この数の旅人が一挙に襲来することはないのだろうから仕方ないのだが、いくら真夏とはいえ屋根のあるところで寝泊まりしたい。結局、五島市の仲介で農家宿泊体験プログラムのような形式を取ってもらって、なんとか泊まる場所を確保できた。

バスの終点で降車すると、手にプラカードを持った爺さんが立っていた。そこに、私を含め3名の名が書いてある。今晩はこの爺さんのお宅にお邪魔するのだ。

爺さんの運転で宿に向かう。カーステレオからは懐かしのラッツ&スター、いやシャネルズ時代の曲が流れている。私が小学生の頃に流行っていた曲たちだ。ちなみに当時メンバーだった田代まさしは私と地元が近く、大学時代にバイトしていた飲食店の常連客だった。などと記憶の扉が開いている間に、車は今日の宿となる古民家に到着した。

宿のホストである爺さんは福江島生まれ。大阪で長年中華料理店を営んでいたが、高齢のため店を人に譲って数年前にUターンしてきたとのこと。奥さんは大阪で知り合いの喫茶店を手伝うために、大阪で娘さんと同居していて、福江島にはたまにしか顔を出さないらしい。 

普段爺さんと暮らしているのは犬が一匹。客人の我々、その中でも特にきれいなおっさんである私にやたらとちょっかいを掛けてくる。これもすべて私が美しいから起こること、甘んじて受け入れよう。なにしろ私は今晩と似たシチュエーションでペットのハリネズミと添い寝したことがあるくらいなのだ。

そして、今晩同室になる私ほどきれいではないおっさんは、一人が少年時代に福江島で暮らしたことがあるという高知在住の公務員の方(以下「高知」) 。もう一人が、広島在住の大手通信関連企業のお偉いさん(以下「広島」) だ。

五島市からの案内文書には「軽食しか出ない」「アルコールの提供はない」と書いてあったので、風呂に入ってすぐ寝る流れかなと思っていた。ところが、広島がゴール地点近くのドラッグストアで缶ビールを6本もゲットしてきており、我々もお裾分けいただいた。

乾杯を済ませて人や犬と歓談していると、爺さんが料理を次々と運び出した。タイの刺身やさらだに、コロッケや青椒肉絲的な炒め物など、3人でも食べ切れないほどのボリュームだ。しかも、よく見ると茶の間のテーブルが中華料理ようの回転式のものではないか! 聞くと、「福江島に戻る際に自分の店から一台持ってきた」ということだ。

しかも、爺さんは我々の酒が切れたことを察すると、冷蔵庫から発砲酒のロング缶を3〜4本取り出してきた。普段は修学旅行の高校生たちを泊めるばかりらしく、たまには客人たちと坏を交わしたかったのだろう。ありがたい。

結局、日付をまたぐまで4人と一匹の楽しい宴は続いたのであった。

翌朝は6:30から豪勢なブレックファーストを摂り、その後は爺さんに福江港まで車で送っていただいた。とても贅沢な一宿一飯(ニ飯)だった。もはや、五島牛と五島美豚のことなど記憶の彼方まで飛んでいってしまった。

他のおっさん二人は観光バスで島内を巡るツアーに申し込んでいるとのことで、ここからはまた個人行動に戻る。8:00発のフェリーに乗り、4時間弱の船旅を、屋外デッキで見渡す限りの海原を眺めながら、ゆっくりと過ごした。

長崎港に戻ってきたのは、正午前。

さて、ここからは市内観光をしていく予定になっている。じつは、今から20年以上前に父の還暦祝いの家族旅行で長崎まで来て、観光タクシーで市内各所を巡ったことがある。しかし、当時の私は大手とんかつチェーンで商品開発リーダーという重責を担っていて、過労と過剰なストレスによって心身ともに壊れかけていたのだ。その影響で、その時どこを巡ったのかほとんど記憶に残っていない。

その後、数年前に島原と軍艦島、そして去年に佐世保と松浦を訪れたが、この機会に長崎市内のことにも理解を深められればと期待している。

まずは、グラバー園から。

期間限定でキティちゃんコラボをが開催されている。「ご当地キティ」とか「地元ポッキー」とか、全国ありとあらゆる観光地で見かけるが、これは多様性の発露なのか、それとも一元化なのか? グローバル化によって世界が一色に塗りつぶされていく流れの中では、特定のキャラクターやプラットフォームの中に各地固有の文化や地域特性を生きながらえさせるしか、策はないのだろうか?

などと小難しいことに思いを馳せながら、エスカレーターを乗り継ぎ、坂を上り、園内に残されている建築物を眺め、往時に思いを馳せる。

グラバー邸は、イメージしていたよりもアジアンリゾート味が感じられる開放的な建築物だった。

次の目的地は、長崎新地中華街。

ここで、やや遅めのランチを摂る目論見なのだ。お目当ては、京華園で食べるご当地グルメ『長崎ちゃんぽん』だ。

私が若い頃暮らしていた熊本では、ちゃんぽんといえば濃厚な豚骨スープがベースとなっていたが、本家の長崎ではあっさり味だ。主役は野菜と魚介がたっぷり乗った具材の方になる。

じつは、今私が長野で開発している商品は、このちゃんぽんをベンチマークしてコンセプトを作ったのだ。「なんでもぶっこむ、具たくさん」、そしてローカルになりすぎなずブランドイメージも高い地名「長崎」。ご当地グルメなのに『リンガーハット』のような全国チェーンまである。長崎ちゃんぽんは、地域食の代表的な成功例なのだ。

飯を食いながらウンチクを垂れていたら、時刻は15時近くになってしまった。先を急ごう。

路面電車に乗り、長崎駅を通過して、平和公園まで足を伸ばした。平和の泉に立ち上がる噴水の前に、碑文がある。

喉が渇いて仕方なかったが、水面には一面に油のようなものが浮いていて、それでも我慢できずにその油ごと水を飲んだ。という内容が書かれている。

平和祈念像の前で手を合わせる。キリスト教の祈りとは流儀が違うのだが、ここは教会ではないから問題ないかな。

「怒りの広島 祈りの長崎」とよく称されるように、広島に比べると声高に反戦や反核を叫んでいる印象はなく、忘れられがちである。広島の方が先に原爆を投下されたこともあるだろうが、やはりこの地に根付いているキリスト教の影響が強いのだろう。

長崎は日本が鎖国状態の中でも唯一海外との交易が認められていて、キリスト教も早い時期から布教されていた。そして布教の歴史は弾圧の歴史とほぼ重なっていたわけで、どんな迫害にあっても水面下で信教を続け、祈りを続けてきた。

" 原爆の廃墟は平和のためというより、無残な過去の思い出につながり過ぎる。憎悪をかきたてるだけのああいう建物は一日も早く取りこわした方がいい "

長崎原爆の爪痕を残していた浦上天主堂。解体されて「幻の世界遺産」になった理由は?

爆心地からわずか500mほどの場所にある浦上天主堂を、広島の原爆ドームのように保存しなかったのも大きいだろう。市議会は保存決議をしていたが、教会の意向に加えてアメリカからの働き掛けもあったのではないかといわれている。

平和公園から坂を下り、その浦上天主堂へ。

再建された天主堂内を見学した後、敷地内にある旧鐘楼へ。

天主堂の左右の塔に吊るされていた鐘は原爆の爆風により吹き飛ばされた。だが幸いにも南側の鐘だけは瓦礫の中からほぼ無傷で発見され、再建された天主堂に吊るされることができた。それからずっと片方の鐘だけが鳴っていたのだが、なんとこのたびアメリカの大学教授やカトリック信者有志によって北側の塔に吊るす鐘が寄贈される運びとなったのだ。

なんと、この教授の祖父は原爆開発の「マンハッタン計画」に参加した医師で、原爆投下の翌月には調査団の一員として広島、長崎を訪れたこともあるとのこと。

次の目的地へと歩いている途上、『浦上キリシタン資料館』という建物を見つけた。商店街にある、入場無料の小さなスペースだ。立ち寄ってみる。この地におけるキリシタンの歴史だけではなく、原爆に関する展示もある。その中でも、当時長崎医科大学助教授だった永井隆氏によって原爆投下以後の記録が書かれた書籍『長崎の鐘』の紹介が目を引き、売店で購入した。

その後は、原子爆弾落下中心地と、

長崎原爆資料館、

国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館を巡った。

日曜日の午後なのに、駅前や路面電車の混雑とどのスポットとは一転して、どのスポットも人気がまばらで寂しかった。

平和祈念館を出ると、すっかり日が傾いていた。

長崎の市街地は周囲を山に囲まれており、少し移動するだけでもアップダウンが激しくて体力を消耗する。なにしろ長崎市内の人たちは自転車に乗る習慣がないため、自転車に乗れない人も多いというくらいだ。

そして、そんな特殊な地形ゆえに原爆の被害が山を越えることは少なく、また爆心地付近では山肌にぶつかってから戻ってきた爆風によって、より大きな被害が出たそうだ。

” こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に はかなく生きる野の花よ
なぐさめはげまし長崎のああ 長崎の鐘が鳴る "

『長崎の鐘』作詞:サトーハチロー

永井隆氏が書いた『長崎の鐘』はGHQによる検閲を受けながらも昭和24年に発売され、ベストセラーとなる。その後、この内容を基にした曲や映画が製作され、こちらもともに大ヒットすることになった。

原爆のこともキリシタンのこともあまり予備知識なく訪れた長崎市であったが、元々疲れていた身体が半日の散策でより疲れきっている一方で、心には元気を分けてもらったような気がする。

生きていれば様々なことに巻き込まれ、ひどい目に遭うこともある。それでも自分の魂は誰にも売り渡さずに、また生活を粛々と立て直していく。心の中で鐘を鳴らし、自らを鼓舞しながら。

そういえば、20年以上前に巡った場所の記憶は戻らなかったが、当時自分が置かれていた状況は図らずもフラッシュバックしてきた。商品開発リーダーをしていた私は、現場の状況を無視したマーケティング戦略に反発し部長と衝突した挙句、任を解かれて新業態の部署に異動となったのだ。その異動のタイミングで4連休を取ってここに来たのだ。

ちょうど2年ほど前、高田馬場でとんかつを食べている時に当時の部長の訃報が入った。もうすぐ三回忌になる。最後に部長と連絡を取ったのは、彼が亡くなる半月ほど前。私が長野に移住して飲食の産学連携事業に携わるという報告をFacebookで投稿した時、「頑張って!」とコメントをいただいた。じつは、前職で私が飲食施設を立ち上げた時も、わざわざ店まで来て激励してくれたのだった。

身の回りには色々なことが起こるが、この2本の足さえあればどこにだって行けるし、どこでだって勝手に走れるのだ。もう少し頑張ってみよう。


【追記】

五島列島で食べそびれた五島うどんを、長崎空港で離陸が遅れている飛行機の搭乗を待つ間に注文し、舌鼓を打った。麺にコシがあって美味。


いただいたサポートは旅先で散財する資金にします👟 私の血になり肉になり記事にも反映されることでしょう😃