50歳の誕生日に、人生初のフルマラソンを走る " 旅先で『日常』を走る ~spin-off⑮~ "
2023年4月16日。
ここは加賀市陸上競技場。私は、陸上トラック内に3,000人ほどのランナーによって作られている列の最後方に位置する、「H」と書かれた一群の中に立っていた。今から、我が人生で初のフルマラソン『加賀温泉郷マラソン2023』にたった一人で挑むのだ。
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45歳の秋にABCマートの店先に陳列されていたランニングシューズを衝動買いしてから4年余り、運動とはまったく縁のない生活を脱却して私は日常的にランニングを楽しむようになった。最初はひとりで家の近所を走っていたが、そのうちにマンネリ化する。やがてランニングのコミュニティに参加し、コロナ禍でなかなか集まることができない状況でも数々のオンラインランを楽しんだ。そして行動制限が緩むと、皇居などでランオフを開いたり、旅先で地方在住のメンバーと落ち会って一緒に走ったりもした。
そのうちにこの数年間開催を見合わせていたマラソン大会も再開し、去年からはハーフマラソンやリレーの大会に参加するようになった。
そろそろ、フルマラソンにも挑戦してみたい。私は、去年の10月に開催された『金沢マラソン2022』に、ランニング部の仲間10名ほどと共に申し込んだ。しかしこのレースは競争率が高く、抽選となった結果なんと私一人だけ落選してしまった。「なんとか別のレースを探して、フルマラソンを走りたい。」 RUNNETを血眼になって検索し、見つけたのがこのレースだった。金沢と同じ石川県で開催されるレースで、しかも開催日は私の50歳の誕生日だ。11月の上旬にはこの春先のレースにエントリーし、指折り数えて待ち構えていた。
フルマラソンを走ると決まれば、しっかりと走りこんで準備をしなければならない。しかし、当時私は長野で暮らしており、冬場は積雪や路面の凍結があって走れる時期が限定される。結果として、この半年間はほとんど走ることができなかった。コンディションに不安を抱えたままで、本番を迎えることになる。まずは完走を目的としよう。このレースの制限時間である、6時間以内で走ることができればよい。そうしようと私は考えていた。つい最近までは。
ところが、この半年間でランニング部の仲間の一人が飛躍的な成長を遂げていた。彼はフルマラソンに何回も挑戦し、ついにはもう少しで5時間を切るまでにタイムが向上していたのだ。なんの準備もしていないくせに「負けたくない。」、私の心に火がついてしまった。目標を5時間以内での完走に切り替えた。前半を6分半/km・後半を7分/kmのペースに目標を定めた。これなら4時間45分弱で完走できる。
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スタートを待ちながら、このように今日に至る経緯を思い返していると、周囲のランナーたちの会話が耳に入ってきた。「お前さ、フルマラソン3回目でこのコースを走るとか無理ゲーだよ 笑。」
なに? たしかにアップダウンが激しいコースだとは聞いていたが、そんなにも難コースだったのか?? 思惑通りに完走を果たせるのだろうか。一抹どころではない不安が脳裏をよぎった。
スタートラインでは ”女子マラソン界のレジェンド” 増田明美がマイクを持ち、ランナーたちにハッパを掛けている。集団の先頭には馳浩石川県知事が陣取り、我々と一緒に完走を目指して走る準備は万端のようだ。
時刻は9時を回り、スタートの号砲が場内に鳴り響いた。
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渋滞するランナーの流れに身を任せてトラックを半周し、2分ほどでスタートラインを越えた。ここが本当のスタートだ。競技場を出ると、すぐに長い下り坂がある。相変わらず列が渋滞しているので、ゆっくりと慎重に進んでいく。周囲を見回すとポンチョやレインコートを身に着けているランナーも多い。曇天模様だが今のところ降雨はなく、天気予報にもこの後は好天に向かうと書かれれていたはずだ。
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私が本格的なレースに参加するのは今日が2度目だ。1回目は去年の7月に長野県で開催された、『第19回 小布施見にマラソン』。小布施に暮らす方々が総出でランナーをおもてなししてくれることが特徴の、アットホームな大会だ。なにしろ、ハーフマラソンなのに制限時間が6時間もある。沿道たちからの声援や演奏やダンスなどは尽きず、エイドで出てくる飲み物や食べ物も多種多様だ。ランナーたちもコスプレに趣向を凝らし、その中でもクオリティの高いものは表彰される。
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などと小布施のことを思い出しているうちに、坂道を下り切って視界が一気に開けてきた。道幅も広くなり、これでスピードを上げられる。沿道には近所の人たちが立ち、その中でも多くの人は分け隔てなくすべてのランナーに声援をくれる。加賀の人たちも小布施の人たちに負けないくらい熱心だ。
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小布施に行った7月に続き、翌月の8月にもお盆休みを利用して長野県に立ち寄った。白馬や松本の宿に泊まり、途中で富山県の黒部ダムにも寄って、諏訪湖の周囲をぐるりと一周走ったりもした。
間を置かず長野県に再来したのには理由がある。じつはその頃、国立大学が主導するプロジェクトで諏訪に本社がある企業とマッチングする案件が浮上していたのだ。それは、大学を出てから飲食業ひとすじで四半世紀ほど過ごし50代を迎えるにあたりキャリアチェンジを試みていた私には、うってつけのチャンスだった。
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沿道から民家が消え、周囲は雑木林に囲まれる。逆の車線からは、この先から折り返してきたトップグループが近づき、すれ違って行った。緑に囲まれた道を進んでいく。丘を上り、また下る。まだ序盤なので快調に進んでいくが、逆にオーバーペースにならないように気を付け、慎重に進んでいく。
片山津温泉でUターンし、今来た丘を戻っていくかたちになる。今度は、逆の車線を走る最後尾のランナーとすれ違う。この時点でも、まだスタートから10kmにも達していない。まだまだ先は長い。
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せっかくのチャンスであったが、諏訪の企業とプロジェクトを行う話は折り合いがつかず不成立となってしまった。しかし、せっかく目の前に現れたチャンスをみすみす逃すわけにはいかないのだった。私は、プロジェクトにエントリーしている企業に一通り目を通した。その中から、長野市を本拠にしている観光関連の企業に目が止まった。観光施設には飲食部門が付き物であり、そこでなにか役に立てるかもしれない。
私はすぐに事務局に連絡し、企業とのオンライン面談をセッティングしてもらった。すると幸運にも、すぐにマッチングが成立した。100名近い応募者から4人しかマッチングが成立しなかった、狭き関門を突破したのだ。いわゆる「産学連携」のプロジェクトに応募してくる人の多くは、私とは違って錚々たる学歴や職歴を誇っている。その中で選ばれた要因は、幸運以外に思いつくものはなかった。
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10km地点では、増田明美がランナーたちに手を差し伸べながら檄を飛ばし続けている。私も、すれ違いざまに彼女とハイタッチする。なおもしばらく進んでいく。空が掻き曇り、雨が降りだした。体を冷やさないようにペースを上げる。緩やかなアップダウンを繰り返しながら進んでいくうちに、雨はやんだ。
天候が崩れても、沿道の応援は途切れない。エイドも2〜3kmごとに用意されており、補給食もある。私も自前でも補給食とドリンクをリュックに入れてきたが、これは助かる。14km地点のエイドでトイレを借り、ふたたび進んでいく。最後尾のHからスタートしたのだが、いつのまにかだいぶ前方に出てきたようだ。周囲にはC・D・Eのゼッケンを背負ったランナーが多い。
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私に幸運を招いたものについては、心当たりがあった。
お盆旅で長野県に寄る前に、山形県と新潟県を経由して行った。旅の初日は鶴岡に泊まり、翌朝に羽黒山をノルディックウォークで登って出羽三山神社に参拝した。参拝した後に、社務所で縁紐を2本買った。健康運を上げる緑色と、生業運を上げる白色の縁紐だ。本来はこれを注連に結んで石段を登ると願いが叶うというシステムのようだが、すでに登って来たので右足首に巻いて石段を下ることにした。
羽黒山を下り鶴岡駅前に戻った私は、バスセンターのコインロッカーに荷物を詰め込み、周囲を走ることにした。近くには慶應大学の研究所があり、数年前にランニング部の部長がシンポジウムに参加してこの辺りを走っていたのを思い出したのだ。じつは、部長は病に倒れて前年にお亡くなりになってしまった。せっかくだから、彼が好きだったマイケルジャクソンをBGMにして、弔いのランを行うことにしたのだった。
5kmほど走った後に宿まで移動し風呂に入ろうとした時に、ふと足元を見やるとさっき付けたばかりの縁紐がなくなっていた。その時は「ちゃんと紐を結んでいなかったから外れてしまったのかな」と思っていた。しかしその後にわが身に起こったこと思うに、これは50代を前に出羽三山から生まれ変わりのご利益をいただいたのか、それとも志半ばで亡くなった部長が今生で使いきれなかった運を私に分け与えてくれたのか、どちらにしても身に余る幸運をいただいたのだと信じている。
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20㎞地点の手前、山中温泉にたどり着いた。宿の仲居さん達が総出で、ランナーたちに声援をくれる。その先の広場一帯に広がるエイドも豪華だ。ミニおにぎりや梨ゼリー、まんじゅうなどもある。広場をぐるりと一周しながらひと通りいただいて、後半を持ちこたえるようにカロリーを補給しよう。
中間地点を過ぎ、その先は緩やかな上りが続く。
全部で18ある上り坂のうち、過半数は後半に集中している。気を引き締めて進もう。前半が想定より15秒/kmほどオーバーペースだったこともあり、少し速度を緩めて進んでいく。なにしろ、この先は未知の領域なのだ。
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10月から長野に転居して、新しい生活が始まった。大きな環境の変化ではあるが、自分で望んで獲得した環境だ。私はやる気と希望に満ち溢れていた。しかし、思うようには事はなかなか進んで行かない。山間地にある施設での業務も発生するため、車での移動が必須になる。運転免許こそ持っているがペーパードライバー歴四半世紀の私には、実務にたどり着く以前の段階でハードルが立ちはだかった。教習所で講習を受けるなどして、なんとか運転をできるようにはなった。山道や雪道の走行も、貸与された社用車がしっかりと対応していることもあって、なんとかこなすことができた。
しかし、本当に大変なのはここから先だった。
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コースは25km地点を過ぎ、山中温泉で折り返す。周囲には足を引きずったり、足が止まっているランナーの姿が目につくようになった。沿道からの声援はスタートから変わらず、というかますます激しくなっていく。28km過ぎ、左手にこのコース最高勾配の上り坂が現れた。まだスタミナに不安は感じていなかったが、ここは無理をせずに歩いて上がることにした。
上り切ったところからは緩やかな下りが続く。30kmを越えたあたりから、トンネル内を進みながら3kmほどの上りが続いていく。このあたり、突然に両足が上がらなくなってきた。左右の股関節が悲鳴を上げている。歩幅が短くなり、思うように前に進めない。ここまで足が痛むのは、私がランニングを趣味にしてからはじめての事だった。
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実務に入るにしたがい地方特有の問題が次々と出現し、その壁に阻まれなかなか思うようにはことが進んでいかない。それは時間に対する意識の欠如だったり、既存の人間関係によって物事が動いていく習慣だったり、比較対象が少ないことによる現状維持バイアスだったり、様々なかたちを取って目の前に現れた。
プロジェクトを指揮する立場の大学に助けを求めようとしても、彼らは研究活動の援助はできても実務までは介入できない。そもそもこのプロジェクト自体がまだ5期目で、試行錯誤を繰り返しながら仕組みを作っている段階だった。
また私が余所者である立場上情報が十分に入ってこず、日に日にフラストレーションが溜まっていく。一方で先方からすれば身内ではない私をどう扱って良いのか分からずに、ミッションが不明瞭なまま時間だけが過ぎていく。元々、半年のプロジェクトを終えたら東京に戻ることに決めていたが、長野とのつながり自体もこの半年で絶たれてしまったとしても仕方ない、と思うようになっていった。
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トンネルを出たところで、一旦歩くことにした。激痛が走る足を引きづりながら歩みを進めていく。後方のランナーたちに続々と追い抜かれていく。しまいには、縁石に座り込んでしまった。もはやここまでか?
スマホに視線を落とし、ペースを確認する。どうやら、ここからすべて歩き通しても6時間の制限時間にはなんとか間に合いそうだ。
ここまでがオーバーペースだった分、ここでリタイアするのはもったいないペースだ。とにかく行けるところまで行こう。足が前に進む限り。
ややペースを上げて、また走りはじめる。アップダウンを繰り返しながら折り返し、ふたたびアップダウンを繰り返す。果てしない。このアップダウンはいつまで続くのだろうか。35km地点を越えたところで、また雨が降ってきた。今度は、けっこう本降りになっている。我が両足は相変わらずろくに上がらない。いっそ、また歩いてしまおうかとも考えたが、このまま雨に打たれ続けてもスタミナを消耗するばかりで、ゴールまで持つか不安を感じる。
この時、脳裏に誰かのの声が響いた。
「大丈夫。まだいけますよ」
あわてて、残りの距離と時間を計算する。どうやら、あと7kmの道のりをここから8分30秒/kmのペースで進めば、なんとか5時間の壁を突破することができる。
いつの間にか雨もやみ、薄っすらと日が刺してきた。私は腹をくくり、最後の力を振り絞ることにした。
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しかし、せっかく長野まで来たのに何も爪痕を残せないのも不服である。なんとかこの状況に、一矢報いたい。私は戦略を転換することにした。
地方に巣食う文化や環境をすぐに変革する事は非常に困難である。ならば違う角度から攻略しよう。私は腹を括り、この会社に生じている固有の問題点にメスを入れることにした。一代で財を成したオーナー企業によくある成長の壁が、そこには存在していた。
私はさっそく資料を整えて、社長に対して「個人事業の延長線上で組織を動かすには、会社が大きくなり過ぎている。仕組み化が早急に必要だ」と訴えた。いきなりそんな主張をされても、青天の霹靂だったのだろう。社長の反応は曖昧だった。しかしダメとは言われなかったので、この取り組みは粛々と進めていった。
同時にプロジェクトでの研究テーマとして「食を通した地域ブランディング」を合意し、現地でのフィールドワークも進めていった。今まで忌避していた地域の文化やコミュニティに、一転して入り込むことにしたのだ。
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トンネルの手前を左に折れる。その先は視線の先まで、ほぼまっすぐな道が続く。ひたすら道なりに進んでいく。
レースも後半になると、坂道が増える代わりにエイドも増えている。1kmちょっと進むごとにエイドが現れ、そのたびに疲労困憊な心身を立て直す。差し出される和菓子などはもう口に入れる気もせず、水とポカリスウェットだけを受け取り、喉を潤す。
ようやく40km地点を通過した。ますます足は上がらなくなって、コースの端をびっこを引きながら進んでいく。他のランナーから「足が攣りましたか?」と声を掛けられる。サプリメントを渡されそうになるが丁重に固辞し、無心で進んでいく。あと少しの辛抱だ。
そこで、目の前に急な上り坂が現れた。スタート直後に下ってきた坂だ。ということは、この坂を上り切った先にゴールとなる競技場があるのだ。しかし、この急坂を走って上がることは到底無理だ。諦めて歩いて上がっていく。私の横を「5:00」と書かれたゼッケンを背負ったペースメーカーが、励ましながら追い抜いていく。「がんばったが、もはやここまでか」 不思議と、未練や無念さは感じなかった。
坂を上り切ったところで、縁石に腰掛けて休憩を取る。
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3月に入り今後の付き合い方について話し合うタイミングで、ちょうど「東京のレストラン事業の責任者に欠員ができた。」という話が先方から舞い込んできた。その事業自体のテコ入れが必要だったこともあり、私に白羽の矢が立ったようだ。これで、私と長野の間に首の皮が一枚繋がった。
その後、大学で私は「食と地域」についての研究の成果発表を行った。すると後日、その発表を見た社長から「食を通した地域ブランディングを一緒に進めたい」と打診があった。かくして、今後も東京で仕事をしながら長野の地域活性化にも関わるという当初の目論見は達成された。
私に降りかかった幸運は、まだ尽きていなかったのだ。
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スマホに視線を落とし、時間を確認する。
まさか?
もう一回走り出せば、ギリギリ5時間以内に収まりそうだ。仕方がない。やれるところまでやろう。足の痛みに耐えながら走り出し、脳内では無心に歩数をカウントしていく。しばらくして、いよいよ競技場に入る。ゴール前では、増田明美がマイクでハッパをかけている。一体、この人のバイタリティはどこから生まれるのだろうか?
はたから見ればずいぶんみっともない走り方だろう。それでも諦めずに進み続ける。同じように足をひきづっているランナーたちと抜きつ抜かれつしながら、私はようやくゴールラインを通り抜けた。
4時間54分55秒。
フルマラソン完走おめでとう。
そして、50歳の誕生日おめでとう、俺。
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完走のご褒美と誕生日祝いを兼ねて、当日は片山津温泉の旅館に宿泊した。
しかし完走の代償は大きく、この後3日間は足の激痛と闘い続ける作業だけで終わってしまった。
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最後に余談。
長野の企業とは契約を継続し、私は普段は東京で暮らしながら月に1回ほど出張する生活を送っている。ゴールデンウィーク明けに長野に出向くと、なぜだか社長がスーツにランニングシューズという出立ちで現れた。なんでも、私とその企業の公認会計士の先生が偶然同じシューズを履いていたので、仕事着としてのランニングシューズに興味を持ったらしい。
違う文化を持つ者同士で反発しあうこともあったが、なんだかんだで良いと思ったところは互いに受け入れるのであった。