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鹿児島で『海上』を走る " 旅先で『日常』を走る ~episode26~ 鹿児島編 "
前回のあらすじ
~ 昇仙峡で『紅葉』を走る ~
" ただ走るだけではなく、景色を楽しむために足を止めたり、寄り道したり立ち止まったり。いつでも走れる準備を整えた上で、いろいろな楽しみ方ができる。走る以外の選択肢を持って気の向くままに進むのも、楽しいものである。”
鹿児島で『海の道』を走る
20代半ばの頃、転勤で熊本に住んでいたことがある。熊本は大好きな場所になり、事あるごとに理由をつけては足を運んでいる。
それからほどなくして、福岡にも住んでいたことがある。福岡も大好きな場所になった。今の会社に転職した理由の3割くらいは『福岡市天神に出店計画がある』からだ。(ちなみに2割くらいは『社長が同じ苗字だったから』である。)
こんなに九州愛に満ち溢れた私だが、じつは鹿児島県には近年まで一度も赴いたことがなかった。行こうという気になったこともなかった。そもそも九州第二の地を我が熊本軍と競い合う『敵』であると、無意識下に刷り込まれていたのかもしれない。
鹿児島と聞いて連想するものは「西郷どん」「桜島」「黒豚」「長渕剛」「ボンタンアメ」くらい、あとはAKBの柏木由紀とIZONEの宮脇咲良くらいだ。そんな私が初めて鹿児島の地に足を踏み入れたのは、今から2年半ほど前のことだった。
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2018年4月16日、45歳の誕生日に私は旅に出た。縁あって新しい会社でやりがいのある業務に就けることが決まり、前職を辞して有給休暇を消化していた。その最中に7泊8日という長旅を計画して、決行した。
東京から夜行バスに11時間揺られて出雲に行き、松江→鳥取→岡山→高知→四万十→八幡浜からフェリーで別府へ。ここから九州7県を巡る行程だ。
この旅の4泊目が鹿児島だった。宮崎から特急に乗って鹿児島中央駅に到着した時、時刻は21時を回っていた。人生初の鹿児島滞在となった。
いつの間に西鹿児島駅が鹿児島中央駅に変わったのかすら知らなかった。ブルートレイン世代で、鹿児島に対する予備知識が少ない私。駅ビルがこんなにも立派だとは想像だにしなかった。熊本駅とは比較にならない。なにしろでっかい観覧車まで装備されているのだ。
観覧車は目立つが、そういえば西郷どんの銅像が見当たらない。我が地元東京にすらあるのに。これはいったいどういうことなのだ? もしかして、鹿児島民は西郷どんをあまりリスペクトしていないのだろうか?
そんな疑問はさておき、今日のところは路面電車に乗り宿にチェックインして移動の疲れを癒やすことにした。謎の解明は翌日行うことにしよう。
翌朝、ホテルをチェックアウトして、まずは県内最大の繁華街『天文館』を散策した。
鹿児島最大の繁華街・天文館通りの名は、ヨーロッパ文明を進んで取り入れた島津重豪公が、1779年に天文観測や暦の作成などを行う施設「明時館(別名天文館)」を建てた場所にちなんでいます。
アーケードが縦横無尽に広がり、結構な規模である。午前中だからか、まだあまり人通りはない。前日に滞在していた大分の駅前アーケードをそのまま広げたような印象だ。
鹿児島市街地の規模感は、関東に例えると宇都宮クラスだろうか。市場としてはそこそこ大きく、街の規模も大きい。ただ同規模の地方都市と比べて、市街地のさびれ方がより大きいように感じた。若者たちやファミリー層は、郊外のイオンモールなどに流出するのだろうか?
そこから、海に向かって進む。道路沿いに廃墟的な建物がポツポツと現れ出した。
以前はこの辺りも栄えていたのだろうが、街の中心が駅ビルとロードサイドに二極分化されつつあるようだ。繁華街という概念が数十年掛けて衰退していく様を地元でも体感していたが、旅先で目の当たりにするとより一層身につまされるものがある。
ひとつ救いがあるとすれば、この廃墟めいた建物の一角に恐らくは廃墟化した後にオープンしたとおぼしきスペイン料理やギャラリーが存在していることだ。サブカルっぽい若者たちが中心になって『アフター廃墟』のカルチャーを作り上げる契機になっているのかもしれない。
盛者必衰。砂上の楼閣めいたショッピングモールやバベルの塔を思い起こさせるフォルムの駅ビルも、あと10年もすれば廃墟化するのかもしれないのだ。
そのまま15分ほど歩くと鹿児島港に到着した。
ここから桜島行きのフェリーが出ている。年中無休、24時間営業で鹿児島港と桜島港を15〜20分の所要時間で結んでいる。日中は1時間に3〜4本も出航しており、桜島住民の貴重な足となっている。
今日は一日に一便だけ出ている『よりみちクルーズ』に乗って桜島へ向かうことにした。
錦江湾を50分かけて周遊し桜島に至る航路で、条件が整えば霧島が眺望でき、なんとイルカに出会えるかも? という、お得感満載のクルーズだ。
乗り込む前から、対岸に見える桜島の存在感に圧倒される。
乗り込んでみると、船内の設備がかなり充実している。しかし、デッキに陣取ることにした。こんなにいい天気なのだ。外でこのクルーズを楽しむ以外の選択肢は、私にはなかった。
クルーズ船が出航した。
真上から差してくる陽射しと若干強めの浜風を身体全体で浴びながら、桜島の勇姿や、湾内を行き交う船をの動きを見ているだけで、全身に充実感がみなぎる。鹿児島まで足を伸ばして良かった。50分のクルーズはあっという間だった。
残念なことにイルカに遭遇することはなかったが、慌ただしい旅程の中、否応なく心身ともに一服できる、贅沢なひとときであった。
フェリーは無事桜島港に到着した。時間の都合で滞在1時間となっている。桜島に何があるかというと、雄大な自然以外のものはほぼない。限られた滞在時間でこの島の魅力を堪能することは早々に諦めた。
まず桜島ビジターセンターでこの島に関する知識を深め、それから海岸に設置されていた足湯に浸かって時間を潰した。
そして、ふたたびフェリーに乗り鹿児島港にもどった。やはり対岸から望む桜島は美しい。
まだ、新幹線の時間まで2時間ちょっとある。鹿児島城址を散策することにした。思ったよりも規模が小さい。
いた! 西郷どん。我が故郷東京は上野と同じく、公園にその銅像は存在していた。やはり西郷どんは鹿児島民の心の拠り所だったのだ(個人の感想です)。ところで、長渕剛の銅像はどこにあるのだろうか? もしかして、鹿児島民は長渕のこと(以下略)…
城の周りをあてもなく散策していると、そこかしこに今どきの小洒落たカフェなどが点在している。そのうちの一軒に立ち寄って、テイクアウトでソフトクリームを購入した。
10月とは思えない好天で、冷たいものを摂取したくなったのだ。
路面電車に乗り、鹿児島中央駅に戻った。ランチは駅ビル内のとんかつ屋で黒豚をいただいた。なかなかの美味。
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ここまでつらつらと書きつらねたのであるが、実は私はまだ、鹿児島を走っていないのである。なにしろ、当時はまだ走ることを習慣化していなかったからだ。機会があれば再度鹿児島に上陸し、今度こそは走ろうと思いながら時は流れた。
2020年7月の終わり、コロナ禍に日本全体が自粛で対抗していた頃、福岡に所用があり九州に上陸した。せっかくなので、この機会に鹿児島にも訪れて走ってみようと試みた。
どこを走ってみようか? 桜島? いや、桜島を堪能するには30kmを越える外周を走る必要がある。島のサイズ感やアップダウンを体感しないと、ただの田舎町を走るに過ぎないのだ。
それならば、桜島を走るよりも桜島を眺めながら走った方が楽しいのではないか? 富士山で走るのと富士山を眺めながら走るのとどちらがよいか、想像すれば一目瞭然ではないか。そう思い、桜島を眺めるのに最適なルートを夜な夜なひたすら探索した。
その結果見つけたルートを、これから紹介しよう。
7月の最終日曜日、朝10時前に鹿児島中央駅に到着した。
天気予報は雨だが、まだ降り始めていない。急いで駅前のトイレで身支度を整え、コインロッカーに荷物を押し込んでから、コンビニでレインコートを購入して雨降りに備える。
駅コンコースから下ってくるエスカレーターの下、駅前広場的なスペースで準備体操を済ませ、いざ出発。
駅前を左右に走る道を左に進む。しばらく路面電車と並走する。
左手に観覧車を眺めながら進む。甲突川に当たったところで右に曲がる。しばらく川沿いに進む。左手に川を眺めながら進む。遊歩道になっており、走りやすい。犬の散歩をしている地元の人たちとすれ違いながら進む。
道なりに緩やかに右折する。遊歩道が途切れ、広場的な場所を走る。通行量が減ってきた。ロードサイド的な商業施設が散見される。交通量も増えてきた。
川沿いを走り続けていたが、いよいよ川筋も終焉を迎え、東シナ海にその流れを注ぐ地点にたどり着いた。
さあ、ここからが本番だ。
これから走る場所は『与次郎ヶ浜長水路』。長さ1.6kmの一直線の水路だ。
江戸時代には塩田だったとのこと。今では埋立てられているのだが、一本道が残っている。海上を走る気分に浸りながら、左手に桜島を臨んで走るのも一興ではないか。
ひたすらまっすぐに伸びる海上の一本道を進む。体育会の学生とおぼしき若者たちがジャージ姿で走っている。かなり強い浜風に吹かれながら、走り続ける。
左手には桜島。悠然とその姿を現している。
海上には船がぽつりぽつりと浮かんでいる。波は穏やかで、平穏な空気感だ。初めのうちは視界の隅で桜島を眺めていたが、そのうちに海上に視線が移動していった。のどかで穏やかな日曜日の朝を身体全体で受け止めて走り続ける。
まっすぐな道ではついついスピード過多になり、息が上がってきた。そのタイミングと時を同じくして、この一本道は左に大きくカーブを描いた。突き当たりの眼前には、海上の『海釣り公園』が左右に広がっていた。
カーブを曲り、水路の突端に至った。ここでランは終え、駅に戻るとしよう。
最寄りの電停を探し歩くが、意外にも距離があり10分以上歩いてしまった。日曜日だからだろうか? オフィス街であるこの一帯には人影がほとんど見当たらない。
ようやく見つけた電停で路面電車に乗り、鹿児島中央駅に戻る。ここから乗る予定の特急電車の時間まであと10分強だった。急いで着替え、改札前の売店で鹿児島黒豚の駅弁と『しろくま』を購入して、電車に飛び乗った。
結局、雨は降らなかった。
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林芙美子の小説で、後に成瀬巳喜男監督で映画化された『浮雲』では、鹿児島は最果ての地として扱われていた。当時沖縄はアメリカだったのだ。この作品のヒロインは惚れた男を追いかけ、屋久島でその命を落とす(ネタバレすみません)。鹿児島とは、東京で生まれ育った私にとっては、熊本に住んでいた時でさえ、その遠さのイメージゆえに距離感を感じていた土地である。
走ってみて気づいたのは、鹿児島が接している海についてのことだ。太平洋でも日本海でもなく、東シナ海に接している。海の先は奄美諸島。奄美も鹿児島の一部である。
鹿児島の人たちが心理的に連帯しているのは日本の中央よりも、海の先にある奄美の方ではないのだるうか? 私が鹿児島に感じていた距離感の正体はここにあるのかもしれない。
幕末から明治維新にかけて、憂国の志士として活躍した人たちは辺境の地に生まれ育った者が多い。薩摩しかり、土佐や長州しかり。彼らは海を眺めながら何を思っていたのだろうか?
次回予告
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