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なんの練習もせずにトレランに挑戦する51歳の夏

2024年7月5日、金曜日。

長野市内での仕事を終えた私は、今日の宿に向けて車を走らせていた。明日の午前中に志賀高原で開催されるトレイルランニング大会に出場するため、近隣の宿に前泊するのだ。

雨模様の中を小一時間進み、目的地である渋温泉に到着した。宿のフロントに顔を出し駐車場の場所を尋ねると、ご主人に駐車場まで案内していただけた。温泉街の東端、南北に流れる川沿いの坂道に駐車スペースとおぼしき白線が等間隔で引かれている。そのうちの一区画が、この旅館に割り当てられているようだ。

私はタイヤがスリップして車ごと川にダイブしてしまわないよう細心の注意を払い、車を停めた。運転歴が短く、特に駐車は苦手なのだ。

その後無事にチェックインを済ませるとさっそく、当温泉街に投宿した者だけが鍵を借りることができるという、渋温泉の外湯めぐりに繰り出した。せっかくなので、浴衣に着替えて。

" 源泉の数がとにかく多いのが特徴の渋温泉。
源泉数は大分県・別府温泉に次いで2番目に多いと言われています。(中略) 渋温泉の名物といえば、「外湯めぐり」です。9つの外湯をめぐるのが有名で、地元住民や宿泊客が楽しめるものでしたが、2006年に一箇所のみ日帰り温泉客にも開放するようになりました。"

ニフティ温泉」より

宿から近い外湯から順に攻めて行くことにした。

宿で借りたカギを男湯の入口のカギ穴に差し込んで、カギをひねり引き戸を開けると、半畳ほどの玄関と三畳ほどの脱衣所があらわれた。

浴衣を脱いで室内の引き戸を開けると、大人が3〜4人浸かれば一杯になってしまうくらいの大きさの浴槽がひとつだけ、9割方地中に埋まった状態で存在している。洗い場すらない、シンプルな設えだ。

浴槽の外に置いてあった手桶で身体を流し、入浴する。なかなか熱い……  以前入ったことがある野沢温泉の外湯よりはマシではあるが、1分と入っていられない。どうやら、自分の周囲が適温になるまで水で薄めながら入っても差し支えないようなので、蛇口をひねり水を浴槽内に流しながら肩まで浸かった。

「いやぁ、いい湯だった」 
すっかり満足して外湯を後にする。額にうっすらと汗をかいている。少し歩みを進めると、右手にまた外湯があらわれた。 

「せっかくだから、入っていこうかな」
宿で借りたカギを男湯の入口のカギ穴に(以下繰り返し…… )

「いやぁ、いい湯だった…… 」 
少し歩みを進めると、右手にまた外湯があらわれた。 

しかし、ひとまず外湯巡りは一旦中止し、近場の飲食店に入ってディナーを摂ることにした。なにしろ、すでに身体が温まりすぎて、これ以上入浴を続けると湯あたりしてしまいそうなのだ。

温泉街のメインストリートに伸びる坂道を下っていく。映画『千と千尋の神隠し』に出てくる旅館油屋のモデルになったとの説もある金具屋旅館の前を通って、なおも進んでいく。

金曜日の夜だというのに、さほどの賑わいは感じられない。インバウンドの旅行客と国内からのカップルが少し目につくくらいだ。

温泉街の外れまで下ってから、来た道をまた上がっていく。道中で見かけた飲食店は数軒の居酒屋とラーメン屋くらいだった。スマホを手に取りGoogleで口コミを調べたところ、ラーメン屋のスコアが高かった。よし、ここにしよう。

入口の引き戸を開ける。店員はいない。小上がりで中華丼を食べているご婦人と不意に目が合い、会釈をする。店員はどこだ? 私は厨房の中を覗き込んだ。

正方形に近い形状の厨房はこの規模の飲食店には似つかわしくないほど大きいサイズだ。この大きさを持て余すかのように、厨房内では老女がひとりでオペレーションをしている。遠目には、映画『千と千尋の神隠し』に登場する湯婆婆を彷彿とさせる雰囲気だ。何度か声を掛けたのだが聞こえていないようなので、おとなしく席に着いてしばし待機することにした。

3分ほど経っただろうか。湯婆婆が餃子が載せられた皿をその手に携えて、客席にあらわれた。ご婦人がオーダーしたメニューのようだ。湯婆婆はここでようやく私の存在を認識し、お冷を運んできた。

「瓶ビールと餃子、それにラーメンも」
私はなんとかオーダーを完遂できたことに安堵する。料理は思いのほか早く提供され、良くも悪くも当初の想像をほぼ裏切らない味のラーメンと餃子に舌鼓を打った。

気づけばご婦人はもう帰られて、店内には私と湯婆婆のふたりきりになっていた。「私はここで豚にされてしまうのだろうか?」 一抹の不安を覚えた。背中に冷や汗が垂れる。

湯婆婆は私の隣のテーブルに腰掛けて話しはじめた。冬場はスノーモンキーを見たりウインタースポーツを目的にインバウンドの観光客がひっきりなしに訪れるのだが、夏場は商売上がったりだと。世間話で油断させようとしても、その手には乗らないぞ。私は身構えていたのだが、その後も何ごとも起こらず、無事に会計を済ませて店を出た。

ふたたび坂道を上がっていく。外湯の中で唯一一般客が利用できる九番湯『大湯』の前を通りかかった。

だいぶ汗も引いてきたので、ここに入ってから宿に戻るとしよう。

他の外湯よりも全体的にひと回り大きく、内装も真新しく感じた。

浴槽も大きめだ。そして、浴場の他にスチームサウナのような蒸し風呂もあった。

渋温泉をすっかり堪能した後は、明日のレースに備えて宿で早めに身体を休めることにしよう。

一夜明け、レース当日。

曇天模様だが、雨は降っていない。宿をチェックアウトして30分ほど車で山道を上がっていく。道端に5〜6匹のサルがあらわれ、目の前を横切っていく。その先すぐ、ホテルやお店がいくつか密集している場所に行き着いた。ここが今回のレース『志賀高原100』のスタート会場だ。

このレースのメインは100kmを走破するコースであるが、私が参加するのは21km部門だ。なにしろ、私はトレランを走るのは生まれてはじめてなのだ。

出走受付を済ませゼッケンなどを受取り、車の中で着替える。山道を走るので、普段街中を歩く時に使っているノルディックポールも持参することにした。準備万端な私。

スタート位置に並ぶように促され待機していると、10時ちょうどに号砲が鳴った。

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小高い丘を一つ越えると、しばらくは公道を緩やかに下っていく。快調だ。3km地点を越えたあたりで左手に伸びる細い登山道のような道に入った。

ごく普通のハイキングコースのような、両側に木々が鬱蒼と生い茂っているデコボコ道を、ノルディックポールを突きながら上がっていく。1kmほど上がると突然視界がひらける。

「だいぶ上ってきたな」
周囲は見渡す限り山々が林立している。進行方向に目をやると、延々と果てしない上り。視界がひらけているだけに、どこまで上がればよいのか見当もつかない。

気を取り直して上っていくが途中で息が切れ、休憩することにした。道の脇の芝生に寝転がる。空が広い。空気が美味い。気分がよい。このままここでひと眠りして、誰かに車で迎えに来てもらいたい気分だ。何を隠そう、このレースに向けての準備などまったくといいほど行っておらず、あろうことか体重もここ最近で3kgほど増量しているのだ。湯婆婆に豚にされたわけでもないのに。

と、追い抜いていくランナーたちから労いの声を掛けられて、我に返った。ふたたび上っていこう。

最初のうちは走っていたがだんだんキツくなり、歩くことにした。何度か休憩を挟みながら、ようやく頂上に到達した。ここからは平坦な道がしばらく続く。

道端にゴンドラやリフトの乗降場があらわれるようになった。冬場はこの一帯はスキー場なのだろう。リフトはこれ以上上には伸びていない。よし!  この先は下りが続くに違いない。

私の思惑通り、8kmを過ぎたあたりからは下りが続く。私はふたたび快調なペースで走り出した。リフト一区画分を下ったところで、1回休憩を取る。

吹き付ける風が肌に心地よい。7月というのに走りやすい気候だ。よし、引き続き快調に進んでいこう。

12km地点にエイドを見つけた。手持ちの補給食はなく、ドリンクも尽きていたので、とても助かる。ここぞとばかりに麦茶とコーラで水分補給し、きゅうりやら稲荷寿司やらを手当たり次第に取りむしゃぶりついた。なにしろ、この先にはもうエイドはないということなのだ。

すっかりリフレッシュして、先を急ぐ。1kmほど車道を快調に下ると、交差点を右折するように指示を受けた。曲がった先、すぐに建物の敷地内に誘導される。その先には登山道が伸びていた。また上りの坂道だ……

すっかり心が折れた私は走ることを諦め、ここからはハイキングのように歩いて進むことにした。3kmほど上り続け、一旦公道をはさんでから平坦な山道をさらに進む。下り道になったら走ろうと思っているのだが、一向に下りがやってこない。

ふたたび公道に出る。少し進んだ先の、右手の階段を下りった先に、やっと下り道を発見した。階段の手前に立っていた係員の方に「あと何kmですか?」と訊くと、「2kmくらいですね」との返答だった。やった!!

待ちに待った下り道を駆け抜けていく。あと2kmだ。やがて道は平坦になる。歩いて進む。さすがにもう2kmくらい過ぎたかなという頃に、一転上り坂になった。嘘だろ。急坂を上りきった後、目の前にあらわれた丘をさらに上っていく。果てしない。係員にウソをつかれたのか、それとも体力の限界を迎えていた私が聴いた幻聴だったのか。

丘の中腹、道の脇の芝生に大の字になる。どんどんと追い抜かれていくが、すでに順位もタイムもどうでもよくなっていた私は10分ほど休憩を取り、とりあえず完走だけはしようと、ふたたび歩き出した。

なんとか丘を上りきり、久々にあらわれた下り坂を早足くらいのスピードで下りきったあたりに案内板が立っていた。「あと1km 」 今さら恨みごとを並べてもしかたない。私は粛々とゴールに向かって一歩、また一歩と歩みを進めていった。

スタートから4時間26分後、出場した男性の中で後ろから5番目という散々なタイムでゴールラインを通過した。

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ほとんど歩いてばかりの、人生初のトレランはこうして幕を閉じた。

車に戻ると、ちょうどそのタイミングで雨が降り出した。一気に雨脚が強くなる。びしょ濡れにならなかっただけマシだっかもな。ひとまずは温泉で汗を流したい。

私は、今朝上ってきた道をそのまま引き返し、日帰り入浴施設に向かった。

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蒲公英
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