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青切りのみかんの季節
「おかあさん、大丈夫?」
太郎が心配そうな顔で私に聞く。
このところかなり苦しい日々が続いていた。
お腹はそんなに大きくなっていないけど気持ちの悪さはひどくなるばかりで普通の生活ができない。
つわりというものがこんなにつらいものだとは実際に経験してみるまで知らなかった。
太郎の時はこんなことはなかったのにどうして今回これほどむごいことになってしまったのか私にはわからない。
起き上がることもできないくらい私のつわりはひどかった。
・・・この苦しみから逃れられるならどんなことでもするのに……。と思うくらいものすごいものになってしまった。
本当になにもできない。
周りの人たちには申し訳ない気持ちだけでいっぱいで、悲しい気持ちになってしまう。
。。。
「本当に大丈夫なのか?」
何回も聞かれたのだけれど、答えることができなくて。
・・・ごめんね、こんな私になってしまって。
本当は実家に帰って頼れたらみんなにこんなに心配かけたり迷惑をかけなくても済んでいたと思うのに。
そんなふうに思ってもどうしようもなくて。
私の実家の事情のことは何も聴かないでいてくれる、優しい人たち。
だから私はここが好き。
こんなふうに暮らせることがどんなにしあわせなことなのかここに来るまで知らなかった。
きっと実家の人たちは私を馬鹿だと思ってる。
でも、私はこれでよかったと今のところは思っているの。
しあわせよ。
どんな向きで寝ていても、どんなふうにしていても、たまらなく苦しくて、きっと私の表情はものすごくひどいものなのだろう。
つらいな。
。。。
保育園の帰りに近所の八百屋に寄った。
プラスティックのブルーのカゴに青切りのみかんが山に盛られたものが店頭に並んでいた。
太郎がそれを見つけて僕に言った。
「おとうさん、これならおかあさんも食べられるかもしれないよ」
保育園の給食についていたデザートの同じようなみかんの味を覚えていたという。
つわりがひどくて起き上がることができなくなってしまった妻に何か少しでもいいからちゃんと食べさせてあげたくて工夫してきたけれど、なかなかうまくいかなくて僕たちは困っていた。
妻も言っていたのだけれど、自分でもどうしたらいいのかわからないことに直面してしまってものすごく困っている。
つらそうな妻を見ていると苦しくてやりきれない気持になってしまうのだ。
無理を聞いてもらってこの家に戻ってきた。 彼女は何も言わないでついてきてくれて、毎日精いっぱい頑張ってきてくれた。 本当に感謝している。
全部僕のわがままなのに。
本当に。
「ねえ、おとうさん」
太郎が僕をを見上げて言った。
「おかあさんにこれ、買ってあげたいな」
つやつやとした緑色と黄色の混ざった色の皮は季節の変わり目を僕に教えてくれていて少しクラっとした。
時間は過ぎていくのだ。
ときどき考える。僕は本当にこれでよかったのだろうか?と。
仕事をやめて実家に戻ると決めたとき迷いの気持ちはみじんもなかった。
父の痩せていく様子、母の突然の死。 そして今まで当たり前にあった実家がなくなってしまうことへのどうしてもぬぐえない抵抗感。
けれどもこうして落ち着いてみると、僕の心はやめてしまった仕事への未練を強く引きづっていたことに気づかずにいられなくて、チリチリとした後悔に責められてしまうのだ。
このミカンが店頭に並ぶ時期に僕は仕事をやめている。
みかんには何の罪もないのだけれど、つらいからあれから一度も食べてなかった。
思い出すのはいやなのだ。
「おとうさん」
太郎が僕を見上げている。
僕は店の人に頼んでみかんを一かご買うことにした。
「太郎ちゃん、いいのえらんで」
店の気のいいおばちゃんが太郎にみかんを選ばせている間に、僕はほかの野菜をいくつか置いてあったレジかごに入れて、みかんと一緒に買うことにした。
「大変だね。でももう少しの辛抱だから、がんばってね」
おばちゃんは優しく言っておまけのお菓子を太郎に一つ渡してくれた。
太郎の顔があかるくなる。
「太郎ちゃん、いい子だね。おばちゃん応援してるから。いつでもおいでね、待ってるからね」
おばちゃんは太郎にそう言って太郎の頭を優しくなでた。
太郎は嬉しそうにしている。
「僕ね、おにいちゃんになるんだよ。 だからがんばるの」
可愛い顔で話している。
青切りのみかんだけを入れた袋を手に持って、お菓子を食べて胸を張る。
この時間にこの子のそばにこんなふうにしていられることも、自分にとってのしあわせなのだ。
そんなふうに思えたから、もうこのミカンを食べることを自分に許してしまっても苦しまないで済むのではないかと思えて、僕の心は救われた。
。。。
このお話は『花ちゃんち』の続きです。
よかったら続けて読んでみてください。
読んでくださってありがとうございました。
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