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シティポップが映し出す普遍的価値 〜「間」と心の余白が生む豊かさ〜

   技術の進化によって、私たちの生活は劇的に変わりました。AIが文章を書き、音楽を作り、会話すら交わせる時代になっています。しかし、そんな変化の中でも、人間が本質的に求めるものには変わらないものがあるのではないでしょうか。

    たとえば、音楽に心を震わせる瞬間や、詩の余韻に浸る時間。それは、ただの情報やデータのやり取りではなく、「心が動く」体験です。では、なぜ私たちはそうしたものに惹かれるのでしょうか? そこには、人間ならではの「間」や「余白」の感性が深く関わっているように思います。


世界が求めるシティポップの魅力

   近年、1980年代に生まれたシティポップが世界的に再評価されています。竹内まりやの「プラスティック・ラブ」や、大瀧詠一の「君は天然色」がYouTubeやストリーミングで世界中のリスナーに親しまれているのは興味深い現象です。

  たとえば、「プラスティック・ラブ」の歌詞には、こんなフレーズがあります。

「ふいに気づけば夜の端に 独り残されて」

   恋の余韻が静かに心に染み込むような表現ですが、ここには説明しすぎない美しさがあります。ただ「寂しい」と言葉にするのではなく、情景の中に感情を溶かし込むことで、聴き手がそれぞれの想いを重ねることができる。これこそが、シティポップの持つ「余白の美しさ」です。

   また、大瀧詠一の「君は天然色」には、こんな一節があります。

「めぐり逢えた瞬間から 魔法が解けない」

  ここには直接的な「愛してる」や「好き」という言葉はありません。しかし、この短いフレーズの中に、時間の流れや、言葉にしきれない感情が感じられる。「説明しすぎないからこそ、想像の余地がある」——これが、日本の美意識に根付く「間(ま)」の概念と深く結びついているのではないでしょうか。

「間」が生み出す普遍的価値

   一方、現代のSNS時代は、短く刺激的な言葉が飛び交う世界です。即座に反応し、強いメッセージを発信することが求められる中、言葉の余韻や、深く考える時間が失われつつあります。

   しかし、そのような社会の中だからこそ、「間」や「余白」の価値が、今まで以上に大切になっているのではないでしょうか。

  「間」とは、単なる空白ではありません。それは、相手の気持ちを思いやる沈黙であり、想像力を働かせる余地であり、言葉や音楽の奥行きを生み出すものです。SNSでは即時的なコミュニケーションが主流ですが、私たちは本当の意味で「心が通い合う」対話をしているでしょうか?

   シティポップが再評価されているのも、単なる懐古ではなく、こうした「間」や「余白」を持つ音楽が、デジタル化された社会の中で「人間らしさ」を取り戻す手がかりとなるからかもしれません。

世界が求める「余白」と「間」

  シティポップが日本国内だけでなく、海外でも愛されているという事実は、日本独自の美意識が、決して特殊なものではなく、「人類が求めている本質的なもの」であることを示しているのかもしれません。

  米津玄師が「Lemon」の歌詞で描いた、「戻らない幸せがあることを 最後にあなたが教えてくれた」 という表現が海外のファンにも深く響いたように、日本の音楽は言葉の奥にある「余韻」や「間」で、説明しきれない感情を伝える力を持っています。

   時代が進むにつれ、技術も文化も変化していきます。しかし、その中でも、人が本当に求めるものは、意外なほど変わらないのかもしれません。

 人は、情報の多さではなく、「心が動く」瞬間を求めている。

  人は、即座の反応ではなく、「余韻に浸る」時間を大切にしたいと思っている。

  人は、効率ではなく、「心の豊かさ」を感じられるものに惹かれる。

 こうした「変わらない価値」を見つめ直すことが、これからの時代をより豊かに生きるためのヒントになるのではないでしょうか。

  今、シティポップや日本の美意識が再び注目されているのは、単なる流行ではなく、普遍的な人間の本質を思い出させるものだからこそなのかもしれません。

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TANOTIN
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