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勝手にじどり屋VOL3:250126
人生の再設定、リセットタロットについて
生きる動機の源を、ワクワクの種に持ち替える事
ワクワクの種とは、自他の「うれしい、たのしい、ありがとう」につながる
内面から湧き上がる、感覚的動機。
内側から湧き上がるから、自家発電で他者から貰わなくていい。
例えば自分に対する他者からの承認欲求が不足していて潜在意識が
「無価値感」で支配されている時、対人関係でどのような人を求めてしまうだろうか?
自分のできる範囲の事で事足る対象(例えば、弱者や子供)であるなら、その願望を
叶えてやることで、感謝され、承認欲求が満たされ無価値感を感じずに済むであろう。
また、相手の願望レベルが高過ぎて、自分のできる範囲でない場合は「できない」わけ
だから、無能感、無力感に対峙することになり、出来ない自分を責めたりモヤモヤしたり
するだろう。
例えば、出産時付き添いの、男性のように、母親となる女性は命がけの戦いの中に
あるが男性は、励ますくらいしか何もできない。替わってやることはできない。
そんな時男性の無力感は大きくなる。まさに、神に祈るのみ。
関わるグループの中で、自分だけができない場合、周りに助けを求めある種の
「借り」を創ることになると、その「借り」を返せない場合、負債の気持ちが大きく
「すまない」状態で心がいっぱいになり、自分を責めたり、しまいには周りの弱者を
「無理やり評価的に下げて」自分の劣等感や無価値感、罪悪感から目を背けるようになる。
この貸し借りが均衡に円滑に行われる関係性の場合は、信頼関係が結ばれ
飲み屋の長期的な「貸し=つけ」が許される関係になる。つまり、相手は一緒に生きる
コミュニティの定住者であり、仲間と認められ「居場所」ができる。
この貸し借りについては、その関係性において「甘えや依存、期待」などという言葉で
表されることもある。
世間学という学問があるのをご存じであろうか?ググればネットでもある程度内容はわかりますが
「暴走する世間」佐藤直樹著によれば、日本には個人も社会もない。世間の本質は
「義理・人情」と「贈与・互酬」の関係らしい。確かに人に何かをもらったら「ご返礼」はつきもの
それをしなかった場合は、村八分にあい、仲間の助け合いの輪に入れてもらえない。
この誰も口にしない暗黙のルールを知らなければ「世間知らず」と陰でののしられること
間違いない。
佐藤直樹さん曰く「世間とは、日本人が集団になった時に発生する集団幻想(空気)による力学」で
西洋と異なり日本には個人が無い以上、「自己責任、強い個人になれ」というのはあきらかに
矛盾であり、「強い個人になる必要はない」と気が付いた時、それまでの生き方がコペルニクス的
転回となり、個人を空気の幻想から解放すると。
社会も個人もなければ、法律も権利もお飾りですべて仲間内の都合の良いように取り扱われる
これが、今問題になっている○○党の裏金問題や、Fテレビ問題の本質である。
さらに、山本七平氏の著書によれば「空気とは、前提となっている刷り込み」であると。
多数派の思い込み(共同幻想)と言ってもいい。
また、中島義道氏著の「対話のない社会」の中で、氏は論じる。
この日本社会において、一番損する生き方は「悪い噂を流される事」だと
対立は醜いものであるという刷り込まれた前提に立って、是が非でも表面上の対立は
避けようとする。
なぜかと言えば、それがうまく責任を回避する方法であり一種のサバイバル戦略だから。
「和の精神」とは、風見鶏的に状況を判断し「勝ち馬に乗る」責任回避の手段であり
状況功利主義が和の精神の本質であると。
他者承認に自分の存在価値を依存することとは、まさにこの「状況功利主義」の根っこの
部分であり、日本人の「世間」が何に依存しているか?がわかる。
日本人に物を売るなら「みんなやってますよ」というのが正解。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」法律なんて既得権側の都合でいかようにも捻じ曲げることができる
多数派(=強者)の論理で、「みんなやってる」が正解だから。
だから、多数派の長は責任なんてとらない。いつもトカゲのしっぽ切。法律なんか関係ない。
誤情報やデマ、でっち上げで戦争終わらせない大本営。
真実の情報は絶対出さない。表面上、お詫び申し上げるだけで幕引きの茶番劇スタイル。
結果、どうなるか?既得権益側の上層部は無茶苦茶やっても責任取らなくていいシステムだから
「みんながやってるからやっただけ、私には責任が無い」と
まさに、村社会システムの一部となった、操り人形であり部品。
対話が無いところに他者はいない。他者がいないところに自己は無い。
自分が何を求めているのか、何がしたくてどう感じているのか?わからないはずと中島義道氏。
確かに、I首相も「国民が何を考えてるのかわからない」と言っていた。
つまり、みんなやってるからやっただけ。「私には罪の意識も責任もない」と。
そうやって、長年続いた長期の貸し借りシステムは、「自分らだけの大きな利権村社会」を創り
責任だけは、村社会の外に放り出して、自己中の複数形の「自分ら中」となり
村民以外に大きな負債を抱えさせる。
西洋社会では、中世にキリスト教の影響で「周りの人との関係」より「神との関係」が個人を創り
死後に神に祝福される思想的なものにより、「死の恐怖を超越」より「個人」が強くなった。
中国においてもよくは知らないが、「中華思想」なるものが、世界の中心は自分みたいな考えらしい。
自分だけが正しいを主張する「自我拡大モンスター」が増えると対立ばかりの北斗の拳みたいな
世界に突入するのではないかと心配しているのだが、日本人ももう少し、自分を生きることが
できるようになるには、お金と他者承認の欠如から出る必要があると思われる。
その為に、動機にフォーカスする必要がある。(人生を動かす原動力の再設定)
動機がお金や他者承認でなく自己の内面から沸き起こる「ワクワクの情熱」湧き上がるから
他者から貰わなくていい。自家発電。
相手の期待に100%答えなくていい。なんの役になっていなくてもいい。
世の中に何の価値提供していなくてもいい
それでも生きていていい。その場合は、一時的に孤独になるらしい。
そらそうやわな、「贈与・互酬」の関係の「世間」から出たらそうなるわ。
でもね、他者からの承認をもらうがために、ありがとうって言ってほしいから
わざわざ「したくないこと」やらなくていい。
もちろんしたいならやったらいい。
お金は、最低限生きていけるだけ確保する必要があるが、今までみたいに
週5日、正社員でとかでなくても、すでに誰も大して給料上がらないのに
出世なんか目指していない。
残された人生の時間(=命)を何に使えば、納得した人生になるか?
それを自分が決められるような状況、それこそが一番の幸せかもしれない。
一人で生まれてきて、一人で死んでゆく。
そんな現実に納得しながら、死の恐怖を乗り越えた先に
本当の心の静寂や「生きてる感じ」が来るのかもしれない。
ハブられる恐怖は、「赤ちゃんが母親に見捨てられる恐怖」つまり死の恐怖だ。
村八分になったら、昔は生きて行けなかった。
しかしながら、現在は転職も一般的になって、一生同じ会社に勤めるという
生き方以外も選択肢が広まった、自由度が上がった。
人間関係が流動的になる中で、皆さんは何を大事に生きますか?
人生の生きる動機の再設定、必要ではありませんか?
答えは他者との対話の中に、自分を発見することかも。
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