限界社会人から幸せニート、それを乗り越え普通の清掃員。
限界社会人だった頃のお話
4年前の冬。
鉛色と白色の雲が空を覆い、吹きすさぶ強風に煽られた街路樹が靡いている中、私は地面を見ながら歩いていた。
地面を見ていた理由は非常に簡単。
それは、足元が悪いわけでも靴ひもが気になっていたわけでもない。
単純に顔を上げられるほどの元気がないから。
きっと、遠くから見ても「あの人は元気がない」とわかるほど、当時の私は元気がなかった。
そんな時にまずやるべきこと。
何よりも優先すべきは、元気を出すための行動。
普通の人は、それなりの年月生きていていれば元気がない時にする行動を経験や知識から学ぶ。
つまり元気のない状態の対処法だ。
ある人にとっては歌を歌ったり、ある人は酒を飲んだり、ある人は恋人に慰めてもらう、とか。
対処法と言えば聞こえはいいけど、要は依存先。
依存先は、自分が正常でいられなくなった時に、正常に戻す効果を与えてくれる”何か”が対象となる。
そういう、対処法をたくさん持っている人を本当の意味での「強い人」と言うと、誰かが記事で書いていた。
その記事が真実だとしたら、当時の私は本当に弱い人でした。
元気もなく、歌も嫌い、酒も飲めない、恋人もいない。
そもそも依存する対象が見当たらない。
依存先すら見つからないほどの疲労。
一刻も早く解決すべき悩み、だけどそれ以上に悩みのタネを私は持っていました。
私は自分の職場が嫌いになっていたのです。
私は大学卒業後、新卒で入った職場に4年勤務していました。
ただ、正社員採用される前にすでにそこでアルバイトをしていたので、その時期も含めれば、年齢にしては相当の年数そこで仕事をしていて、当時の私にとっての社会とは職場内だけのことを指すほど。
そして従業している年月が増えるごとに、世間知らずの新人からいっぱしの社会人へと育ち……。
ついには、後輩の新人教育などの新しい仕事を任されるほどに成長!!
雨後の竹の子と職場で冗談半分にいわれるほどでした。
楽しかった。
本当に職場を愛していた。
だが、その愛は永遠のものではない。
当時の私は、職場を愛するどころか嫌悪感を抱き始めている始末。
私が職場に嫌悪感を抱いている理由は、環境を改善しない上層部に対しての感情。
とにかく職場に誰も入りたがらない、入っても試用期間中にやめていく。
若い人、つまりは二十代の人間なら将来性を考えてやめていくのも分かるが、その業界でかなり長いことやっている人ですら職場を辞めるほど環境が悪化していたという状況がありました。
なのにも関わらず、職場の上層部はその環境を改善するどころか放置。
その期間、なんと一年以上!
その一年間、決して暇がなかったわけじゃないんですよ。
おやつを食べたり、おしゃべりしたりする時間は週に何回かあるほど、暇があったはず。
もちろん上層部だけの話。
どうして放置するのか?
理由が分からなかった。
もちろん現場の人間は声を上げて意見書まで提出。
しかし、何も変わらない。
そうなると現場の雰囲気は最悪。
誰も真面目にやらない、給料が上がるわけでもなく環境が改善されるわけでもない。
とはいえ、仕事が減るわけじゃない。
結果として、皆が仕事をだれかに押し付けると言った状況に。
当時の私は仕事を押し付けられる役目だった。
押し付けられた結果、仕事量は他の人の二倍!
ここまで読んでくださった優しい方は疑問に思うはず。
「どうして給料も上がらないのにそこまで頑張れていたのか?」
答えは「改善の為」。
環境がすぐに変わらないことは、ぼんくらタンナでもわかります。
何を変えるにしてもその日一日でガラッと変わることはない。
時間をかけて影響が出ないように、雨水が岩を侵食するように。
ゆっくりゆっくり変わる。
今はその過渡期にあって辛いだけ。
私が頑張れば、私が我慢すれば。
いつかきっと……。
当時の私はそう思っていました。
同時に「これは成長のための試練」だと捉えて、精力的にお手伝いをしていました。
予想外だったのはこれから。
最初は月に数回だけだった先輩たちのお手伝いが週に一回するようになり、気が付けば毎日。
最終的には自分の分の仕事だけをやる日を休憩の日と言われる始末。
お手伝いは私以外にやる人はいなかった、ばかばかしいから。
でも私はやめなかった、理由は前述のとおり。
過酷な自己犠牲は、改善のためのいけにえでありその経験は成長につながると。
とは言っても、私自身の体調は最悪。
お手伝いを始めた春は左目の痙攣、それに慣れ始めた夏は油物を食べていないのに吹き出物頻発、季節が秋になるころには不眠や悪夢の連続。
なにより、春から秋にかけて日常的に持続する動悸。
口では勇ましいことを言いつつ、心の中では一刻も早く辞職したい・とにかく少し休みたい。
挙句の果てには、休むためなら大病を患いたいとさえ思う始末。
でも、そんなことをすれば現場に迷惑が掛かる。
その結果、酷い自己嫌悪と自画自賛に襲われることになった。
普段の仕事をサボることさえできずに毎日働いている状態が本当に嫌で、本当に腹が立っていて、それでも逃げない自分をこの世の誰よりも愛していて誇りに思っていた。
この相反する思考が私の体の中で同居している状態が体に良いわけがなく、ついに冬になるころには過食嘔吐が発生し、睡眠を取るには薬のお世話にならないといけなくなるまで追い込まれた。
そんな状況から逃げるかのように私は書籍や動画を見漁った。
とにかく不調を回復させるための知識を求めた。
その結果、日ごろの運動不足が子の体調の原因だと結論付けた。
依存先のない私の依存先が散歩というわけだ。
だから私は冬に出歩いていた。
ただ効果は薄く、結果として頭を垂れて歩いていた。
これだけ見ると、この依存先は効果的ではない思われるかもしれない。
だが、私にとっては夜の闇に見えた北極星のように見えた。
しかし、所詮はその場しのぎの対処。
結果は何も変わらない。
季節が春になっても私は職場が嫌いのままだった。
もちろん、頭は垂れたまま。
変化のない苦境に涙を流すことが増えた春本番。
私をさらに打ちのめす出来事が起こってしまうのでした。
明日の午後五時にまた投稿しますので、よろしければまた見てくださいね🫏
#転職してよかったこと