【「学びを変える」を仕事にする/川辺洋平】あえてビジネスを経験してから、教育NPOをつくった
小学校教員の資格を持ちながら、教育学部卒業後は広告会社や出版社に就職し、ビジネスマンとして働いてきた川辺洋平さん。
会社員をしながら子どもに関わる活動を続け、2014年に哲学対話を社会に広く提供するNPO法人「こども哲学 おとな哲学 アーダコーダ」を設立し独立。このコロナ禍では、年齢や地域を越えて同じ関心を持つ仲間と専門家から楽しく学べる対話型オンラインサービス「おうちチャンネル」をスタートさせました。
子どもに関わる仕事が自分のライフワークだと確信しながら、まずはビジネスで成果を上げてからだと考えた川辺さん。会社員からどのような経緯で独立し、ビジネス経験を活かしてきたのでしょうか。
未来の子どもに託さなくても、大人も社会を変えられる
── 川辺さんは、いつ頃から教育分野に関心を持たれていたのですか?
高校2年生の頃です。僕には10歳年下の妹がいて、教育に興味があったというよりは子どもから出てくる疑問がおもしろいなと高校生の頃から思っていました。話していると、こんなこと考えたことがなかったと思わされることばかりで。
── 教育学部を選ばれたのは、やはり将来は先生になりたいと思われていたからでしょうか。
先生になりたいというよりは、子どもに関わる仕事がしたい、という感じでした。教育学部じゃなくて、医学部を目指して小児科医になるということにも興味があったのですが、浪人時代に出会った医学部の学生から、病気になった子どもを治すのが医療、病気にかからないようにするのが教育だと言われて、納得して教育学を学びました。医学部に行きたいと思っていたのは、両親の期待に答えたいという理由以外にはなかったと、父親を亡くしたあとで思いきれるようになりました。
── 新卒で教育とは無関係の会社に入社を決めた背景には、どのような経験があったのでしょう。
大学のサークルで、途上国支援として学校建設のボランティアをしていたのですが、そのときに内戦や紛争の合った地域で小学校を建てている社会人と触れ合って、自分が“大人が社会を変える可能性”を諦めていたこと、に気づいた経験がありました。
その経験をきっかけに、海外青年海外協力隊を知り、青年海外協力隊に参加するためには、美術や音楽の教員資格があると有利、と当時きいたんです。それならば、ということで美術の教員免許を取るために作品作りをしているうちに、教育ではなく、広告やものづくりの世界に興味が広がっていき、気がつけば会社員になる道を選んでいました。
29歳で退職。一度は独立しようとするも、再就職することに
── 実際にビジネスの世界に入ってみて、どんな感想を抱きましたか?
まず強烈な違和感があったのは、お金を稼いでいない人間に発言権がなく、稼ぐ人間が方向性を決められるという会議や組織のあり方でした。あとはそんな会社の中にも、社会的な価値や意義に関心を持っている社員さんがいるということも意外でした。
また、受け手の多様性を考えながら企画できる人がいて、儲かればいい・目立てばいいということだけを考えている人の集団ではないと知ることができたのは勉強になりました。
── 子どもたちに関わっていないことへの焦りなどはありませんでしたか?
就職した企業には申し訳ないですが、会社人間に染まらないぞ、というような焦りはありました。学生時代に自分がボランティアで建設したインドの小学校で認知獲得のためのアートフェスティバルを企画したり、保育士の資格を独学で取得したり。
── 会社を辞めるタイミングはどう決められたのでしょうか。
最初の会社はとてもおもしろい労働環境だったので、30歳までには辞めないと楽しくて辞められなくなるだろうなぁというぼんやりしたイメージが入社したときからありました。29歳のときに受け持ちのプロジェクトが偶然立て続けに一段落した日があって、朝起きたら空が青くて、「今日だ!」と思って朝コンビニで便箋を買って、そのまま退職願を書いて提出しました。
── そのときは次に何をしようか決められていたんですか?
実はその時期、EdTech(エドテック)という言葉が全盛期で、子ども向けに英語のオンラインサービスを始めようと考えていたんです。ただ辞表を出したものの、その分野では、すでに多くの企業がすでに大きなサービスを運営していて、全く自分がやりぬく勇気が持てなかったんです。それで、転がり込むようにベンチャー出版社に転職してそこで1年半、ビジネスをゼロから立ち上げるベンチャーのあり方を教えていただきました。
NPO法人設立のスタート地点にあったのは、娘とのこども哲学の時間
── 2014年には「こども哲学 おとな哲学 アーダコーダ(以下、アーダコーダ )」を設立し独立されていますね。それまでの間に何があったのでしょうか。
転職したベンチャー出版社では、子ども向けのアプリ開発やキャラクター開発、知財ビジネスなどを企画していたのですが、会社の方針が電子書籍に特化するという方針になり、担当業務がその路線から外れてしまったんです。それが2013年の夏でした。自分自身の身の振り方を今後どうするか悩み始めたタイミングで、こども哲学という活動が外国にあるのを知って、日本でそうした活動をするNPO法人を作ろうと決めました。
日本には2013年当時すでにこども哲学の活動を歴史をもって続けている方がたくさんいて、NPO法人をつくるという話も、私以外の方が同様に検討していたみたいなんです。なので、自分が代表にならなくても、広報が担当できたりするかなぁと考えていたのですが、周囲に勧められて代表をすることになり、流れに押されてベンチャー出版社から、仕事をまるごともらい受けるようにして個人としても独立しました。
── こども哲学でNPO法人を作ろうと決めた理由は何だったのでしょうか。
自分の娘と1対1で始めてみて、僕も楽しめたし、娘が楽しそうにしてくれたことです。こんな保護者と子どもの関係が広がるのはいいなぁと思えたし、参加者となる子どもが楽しんでいるということが、その効果がどうであれ勇気を持って広げたいと思えた最大の理由です。
── 具体的にどのようなステップで進んでいったのでしょうか。
まず、こども哲学に詳しそうな人をネットで調べて、突撃メールを送って会いに行き、話を聞いて勉強しました。同時に、こども哲学をやってみたいと思ってくれる場所、ニーズのありそうな場所を考えたと思います。
私立中学や高校でのロジカルシンキング、塾での小論文対策、親子関係の研修などにファシリテーターを派遣するビジネスなら成立するかな、と考えてみたり。ファシリテーターの派遣ビジネスだと、労働集約型になってしまって、広がりがないから研修制度を作ったらどうかなとか。
事業づくりは、「おもしろい」と心底思えないと飽きてしまう
── そのとき「学びを変える」意識はなかったのですね。
学びを変えたい。というほどの壮大なイメージは、当時も今も持っていないと思います。子どもの楽しめること、保護者も楽しめることなら、学校でも楽しい時間を作れるはずだし、学びのために哲学をすることだけが哲学の楽しさではないよな、と思っていました。今も、そう思っている気がします。
── とはいえ、様々なしがらみがあったかと思います。学校の中に新しい取り組みを伝えていくのに、何か工夫されたことはありますか?
実は、私の個人的な関心とはうらはらに、もともとこども哲学は、発祥であるアメリカに論理的思考力や心理的安全性の獲得を目的とした明確なカリキュラムが存在しているものなのです。そういう意味では、すでにあった価値が伝わっていなかっただけでした。
なので、哲学するということは楽しい活動でもあり、実は役に立つ活動でもあるということを人に伝わる名前にしたり、すでに熱心に活動している方に教えを請うたりして、団体にしたりすればよかったんです。
これを個人的には「組織化」とよんでいるのですが、名前をつけるほどでもないかもしれません。工夫したというとおこがましいですが、そんなふうにNPO法人を立ち上げました。
── 川辺さんの事業づくりにおいて、「組織化」以外のステップはどんなものがあるのでしょうか。
大学時代のサークルもアーダコーダもだいたい同じで、基本的なフレームは「おもしろそう→調べる→出会う→組織化→仕組み化(マネタイズ)→人に任せる」です。自分が得意だと思うのは組織化で、仕組み化できて事業フレームの大枠が見えたら自分の限界を感じます。
多様な人が関わるからこそ組織は拡張したり強固になっていくので、できるだけビジョンを共有できる人にその後の運営はお任せするようにしています。
異業種・会社員からの挑戦の鍵は、練習期間を設けること
── NPO法人の運営にあたって、ビジネスでの経験はどう役に立ちましたか?
広告会社の中でも、企画を考える部署にいたので、資料を作ると上司から「君はこれをおもしろいと思ってるの?」と必ず聞かれるんです。この経験は今の働き方やビジネスの種を見つけるときのポイントになっていると思います。
また何かのアイデアをおもしろいと思う時点で、顧客がいるかを考えています。マーケティング意識が染み付いているという意味では、これも自分のビジネス経験が生きていると感じるところです。自分がオモシロイと思っても、それって自分以外の人もある程度おもしろいと思うかな?ということは常に意識しています。
── 異業種だったからこそぶつかった壁はありますか?
事業を立ち上げる前に、子どもに関わる社会的な活動をしている人たちを追ったインタビュー記事をブログにまとめていたのですが、そのときに一番壁を感じました(※当時の記事はHUFFPOSTに掲載されています)。
自分がBtoBの仕事をしていたので、企業の看板を背負わずに個人名で誰かに出会うことに緊張感があったのを覚えています。
── そのとき川辺さんは、自分のことをどう説明されたのでしょうか。
前職の会社名や経験をフル活用して、今はこういったメディアを開発していて、将来的にはこんなサービスを立ち上げられたらいいと思っている模索中の人であると説明しました。
最初は看板がなくなれば自分には何もないと感じたのですが、実際に始めてみて、過去にその看板の中で自分がやってきたことしか評価されないということに気づいてからは、特にフル活用するようになりました。
回を重ねるごとに緊張感は薄らいでいったので、何かに所属している自分ではなく、自分ひとりで仕事をすることの練習期間みたいなものが人生には必要なんだなと今は思います。
── その他にも、練習期間を設けてよかったと感じていることはありますか?
多様な人やケースに出会うことで、その分野のフレームワークを獲得できました。たとえばプロボノでもいいので、何かしらのプロジェクトに関われば業界や事業の骨組みがつかめると思います。
もう一つは、その分野で一定の実績を作っておいた方が、いざ独立したときにそれがエビデンスになって応援してもらいやすくなると感じています。
今取り組んでいる仕事で結果が出ていない人が、自分探しで新しいことを始めても、新たに信用を得るのは難しい気がします。
── 川辺さんが考えるベストな練習方法はどのようなものでしょう。
最も人に分かってもらいやすいのは、有名な団体や広く名前の知れている活動に関わることだと思います。ただそうした団体に関われる状況でない場合、相手が確認できる物的な何かを残せればいいのかなと思います。僕の場合はデジタルコンテンツの作成が得意だったので、ウェブ記事を書くことが練習になりました。
最初から、「学びを変える」を仕事にしなくてもいい
── コロナ禍でも新しい取り組みを始められましたね。2020年10月に株式会社おうちピテクスを設立されたということですが、こちらはどのような取り組みなのでしょうか。
最初は緊急事態宣言下で「おうちチャンネル」というWebメディアを立ち上げて、子どもたちが無料でも学べるオンライン教材を提供しているリンク集を学年別に作りました。学校が再開してからは、密を避けて外出しづらい休みの日にいつも会えないような先生と会ったり知らない友達と会えるオンラインの場所を作りました。
オンラインで2回、3回出会った子どもたちが、もう会わないという日に「さみしい」と言って、僕もそう思うし、講師もそう思うんです。そうした心を通わせる関係性が生まれる学びの時間がオンラインでも作れることを実証できて、オンライン学習の未来は明るいと感じています。
── これから「学びを変える」を仕事にしたいと思っている読者へ向けて、一言いただければ幸いです。
学びを変えることを仕事にしようと思って、何かを始めないほうがいいと思います。社会にインパクトを与えることと、生活費の獲得を同時に叶えようとすると「新しい学びの営業マン」になる。遊び続けている感覚で、気づいたら学びを変えているということはあってもいいかもしれないです。
学びを変えるということが仮に実現したとして、その学びを変えた人自身が、最初から学びを変えるつもりがあった人かはわからない。自転車を改造していたら、学びを変えていることもあり得ると思います。
── もし一歩踏み出すとしたら、どんな踏み出し方があると思いますか?
いきなり転職の決断をしなくても大丈夫だと思いますよ。何かしたいモヤモヤ感を抱いたら、その分野の気になる人にまずは連絡してみるのもいいかもしれません。もちろん僕に連絡をくださっても大歓迎です。僕の得意なことは人の才能を見出すことなので、力になれることがあるかもしれません。TwitterでもFacebookでもいつでも連絡してください。笑
── ありがとうございました!
(文:桐田理恵、写真:やどかりみさお、編集:田村真菜)
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