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褐色細胞腫闘病記 第10回「60針のベンツの刻印」

それにしてもこの痛みはなんだ。

硬膜外麻酔は持続的に流れているはずだが、あまりに効いていない。こんなすさまじい痛みは生まれて初めてだ。
「我慢できなくなったらコレを押してください」と言われて握らされたボタンは、硬膜外麻酔を一時的に増量できるボタンだ。一定量以上は流れないようにできている。
あまり頻発すると中身が早く無くなってしまうと聞いている。でももう、我慢できない。私は何度も何度もボタンを押してしまう。

この痛みは、例えば、バーベキューの串で深さ2センチの傷を体中に付けられ、さらに斜めに串を何本もぶっ刺されたまんまで放置されている、という感じだ。

とても強い強い真深いところから湧き上がってくる耐え難い痛み。
人間、これほど痛いと「痛い」以外のことは何にも考えられなくなることを初めて知る。

60針縫ったと聞かされた。包帯交換のときに傷口をこっそり見てみる。
両胸中央から臍上5センチのところまで真っ直ぐ下りた傷。そこから一点を支点にして肋骨に沿った形で左右に25センチ横に広がっている。
めまいがするほどの大きな傷だ。
これ、どこかで見たことがある。
そう、ベンツだ。ベンツのロゴマークが私の腹に生えている。
さしずめ私はン千万円の高級車と化したわけだ。

「はい、床ずれ防止のために少し横向きますね。左下にタオル入れますよ」
看護師2人がグイっと私の体を動かす。
これは痛いぞ。痛すぎる!
私は気を失う。痛みで気絶するなんてことが実際にあるんだなと妙に感心するが、気絶してもまた痛みで目覚める。
その繰り返し。これを地獄と呼ばずしてなんと呼ぼう。

イタリアン梶並Drがやってくる。
「三島さん、どう? いい感じに傷は回復してるかな。ちょっと見せてくれるかな」
「それより先生、痛い。こんなに痛いなんて聞いてません」
「あれれ? 硬膜外麻酔ももうすぐ切れるけどだいじょぶ?」
「これ以上痛くなったらもう私耐えられません」
「じゃ、硬膜外麻酔終わったらすぐに別の痛み止め入れよっか、ネ♪」

だったらもっと早くそれを使ってくれよと思いつつ、私は脂汗を流す。
「でも先生、もう私、今の時点で限界かもしれません」
「そっかあ、まあ、傷がおっきいからねぇ。よし、今追加しちゃおっか。誰か、ペンタジン持ってきてくれる?」
看護師が動く。新しい鎮痛剤が点滴で落とされる。これで少しは楽になるかな。

・・・・・・って、効かないやん。
ぜっっんぜん効かないやん。

4時間経ってもなんの変化もないので看護師に言う。
「あの、これまったく効きません。別のお薬に変えていただくことは可能ですか?」
看護師がめんどくさそうに先生に内線を飛ばす。
「あ、じゃ、レペタンですね、わかりました」
看護師が指示を仰いで点滴を替える。

しばらくすると、なんだかおかしい。天井に、壁に、なんか、いる。
あれは・・・あれは蜘蛛だ! 
天井一面にアシダカグモがウジャウジャいる。ひえええ怖い怖い。
そしてふと点滴を見ると、点滴の中に金魚が優雅に泳いでいる。
あー、きれいだなあ、光がキラキラ差して夢のようだなあ…
あれ、ドアのところにいるのは彼氏じゃないか。
やだ、そんなところでお弁当使わないで恥ずかしい。
「ね、ここは飲食禁止よ、やめて」かすれた声で言う私。
怪訝な顔で私を見つめる看護師。

棚沢教授がやってくる。
「新しいお薬はどうですか?」
「前の薬よりは効いていますけど、点滴の中に金魚が見えます」
「あ、幻覚出ちゃいましたね。すぐ中止しましょう」
即座にほかの痛み止めを考える棚沢教授。
えっ、あれって幻覚だったのか。
あんなにハッキリと蜘蛛と金魚と弁当食ってる彼氏が見えたのに。

さっき起こった出来事が信じがたくて、私は点滴パックで泳ぐ金魚をもう一度呼ぶ。でも幻覚というのはどうやら自分の力では引き起こせないものらしい。

「たくさん切りましたからね、それは痛いでしょうね」
棚沢教授が優しい目で私を見る。
ああ、わかってくれている。嬉しい。
だけど、本当に痛いの。先生どうか、早くなんとかしてお願い。
「ボルタレンサポ持ってきてください」
棚沢教授が指示する。えっボルタレンて一般的な鎮痛剤ですよねそんなの効きますか先生。
そしてサポというのはなんですか。

看護師がサっとカーテンを閉める。
「座薬の痛み止めを使いますね」
えっ、そんな。
サポって座薬のことなんですかお尻に入れるのですかやめてください死んでしまいます。
看護師は手慣れた様子で私のパジャマのズボンを下ろし、潤滑クリームを使う。あっという間だ。
「三島さん、これで少し楽になれるといいですね」
ああ、そうなってくれないと困るわ。じゃないととてもこの恥辱の割に合わないわ。

え…
…これ、効いてる!!

おおお、30分しか経っていないのに痛みが半分になった。このくらいなら我慢できるぞ。

「三島さ~ん、どう? ボルタレン効いた?」
イタリアン梶並Drが私の様子を見に来る。私はガッツポーズで応える。
「ん、じゃー、今度は栄養剤から卒業かな。そろそろ口から食事摂れるようにしよ?」
痛みがなければこっちのもんだ。食欲も湧いてくる。
よし、頑張って食べよう。
「はい、食べます!」
「よぅし! その意気その意気! そしたらこの薄暗いICUも卒業できるよっ!  
早くここを出ようねっ♪」
よし、食ってやる。そして私はここを出るんだ。

重湯から始め、そして次は三分粥を完食した。おかずも全部食べた。
絶対負けるものか。
いや、自分、さっきまで痛みにボロボロに負けてたやんけ。
でももう大丈夫、私にはボルタレンサポがある! (※6)

二日後、私はICUを出てリカバリー室に転室となった。




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(※6) 術後疼痛を抑える鎮痛に使うお薬はあまた存在します。
効き具合は本当に個人差が大きいです。
私は普通の鎮痛剤がいちばん効きましたが、現在はボルタレンサポを術後疼痛で使う病院は少なくなったと聞いています。
また、すべての人がこのような激しい幻覚を見るわけではありません。
当時は医療用麻薬を使うのに厳しい制限がありましたが、現在は医療用麻薬によって術後疼痛は劇的に改善されるようになっています。

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