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褐色細胞腫闘病記 第18回「勇気の源」

「これがおわったら、もうママはずっとののちゃんのそばにいるから」
前回の手術の時、私は野乃子にそう約束した。
小さな手を握り締めて、確かに言った。

でも、その約束は4年弱しか保てなかった。
その事実がとても私を苦しめていた。
4年近く再発しなかったのに、どうして?
どうして今になって?

いいえ、私は知っていた。この病気は一般の癌とは違うことを。
急激に進行する場合が少なく、比較的ゆっくりゆっくり進行していく病だということを。
10年以上、あるいは20年以上も再発がないまま、完全寛解したと思っていた患者が突然再発する、それがこの褐色細胞腫の特徴のひとつであることを。

それにしてもまたあの地獄のような痛みを味わうのか。
しかも癒着がひどいため、今度の手術は今まで切ったことがない箇所、左の脇腹から背中にかけて35センチも切るという。
や、新しいところにまた傷が増えることが嫌なのではない。
私が打ちのめされたのは、一般的な癌とは違う進行の仕方をすると知っていながら、それでもどこかで「治った」と思っていた自分がいたことを悉く思い知らされたからだ。
そう、3回目の肺の手術を終えてから、私はもうこの病に勝ったとすら思い、完全に油断していたのである。

それだけに、今回の再発宣告は私の心を強く痛めつけた。
でも、私は家族や大切な友人には絶対に弱音を吐きたくない。
それは「弱味を見せたくない」という変な意地とは絶対に違う。
単に「私なんかのために心配をかけたくない」という、ただその一心だ。

私は、インターネットに救いを求めた。
発病した当時は全く検索に引っかからなかった同病の人のブログが3人見つかり、私は狂喜した。
ひとりは鹿児島のHさん。32歳で2児の母。2度のオペ。肝臓に転移が見つかったばかり。
岩手のKさん、独身38歳の男性。病名はパラガングリオーマという、副腎以外のところが原発の、名前こそ違うが元は同じ病気。彼は膀胱の手術をしたばかり。
そして愛知のYさん。44歳のデパートの店員さん。この方も3度手術をしている。骨転移を抱えている、15年選手だ。
私は喜び勇んで彼らにすぐに連絡し、メールのやり取りをし始めた。

狂喜したのはその3人も同じだった。
同じ病気の人が4人集まれる掲示板をCGIを勉強して作り、私は積極的に4人を繋げた。
日本で数十人しかいないと聞かされていた褐色細胞腫の患者が見つかって、実際に交流できる。そして痛みを分かち合える。
4人の間でなら、誰にも気を遣わずに遠慮なく苦楽を語り合える。
私にとって、こんな嬉しいことはなかった。

私は4回目の手術にどうしても踏み切れないことを3人に打ち明けた。
「わかるよ、そうだね、あれ、耐えられないくらい痛いもんね」
返ってくるのは本当にこの手術の真の痛みがわかっている人たちだ。
私は心から安堵した。何でも話した。そして何でも答えた。
今まで誰にも相談できなかったことを、私たち4人は一生懸命共有しようとした。

だが、掲示板を開設して1カ月。岩手のKさんの投稿が突然途絶えた。
やがて、彼の母親という人が掲示板にKさんの訃報を書き込んだ。
「4月〇日午前〇時〇分、Kは逝去いたしました。生前のご厚誼をまことに・・・」

その時のショックは、本当に今でも忘れられない。

彼はどちらかというと聞き役が多く、自分から痛い、苦しいという投稿をすることは少なかった。
もっと耳を傾けてあげられたのではないか、もっと何かできたのではないか、と私はとても苦しんだ。
と同時に、手術をしたばかりの彼がどうして亡くなったのか、解せないことばかりだった。
おそらく、彼は言いたくても言えないことがあったのではないだろうか。
きっとどこかに転移巣を抱えて悩んでいたのではないか。
それを思うと、我が身が捩れそうだった。

遺された私たち3人は、彼の分も生きよう、と掲示板で誓い合った。
悲しかった。本当に悲しかった。同じ病気の、同じ仲間がこの短い時期に突然いなくなったんだ。どう受け止めたらいいかも皆目わからなかった。
私たちが彼の分まで生きたとて、掲示板にわざわざ辛い報告をしてくれた彼のお母様にとってそれが何になるのか。
そう考えると「無意味」という三文字すらうっすらとよぎった。

やがて、私たちの交流は徐々に減り始め、言葉少なくなった。
仲間ができたことの喜び以上に、それを失うことのつらさを知った私たちは、少しずつ、本当にゆっくりと遠くなっていった。

夫は相変わらず帰りが遅い。
スーツからはタバコの匂い。独特の、パチンコ屋さんの匂い。
何度やめてと言っても、何度カウンセリングに行けと言っても、何をどうしようが彼は変わらない。

私は、取り柄だった「前向きな心」を失いつつあった。
そして、それと同時に野乃子に依存しそうになる自分がいた。
でも、それは厳しく戒めなければならない。
娘を、自分の感情の捌け口にしてはいけない。
私は彼女を庇護し、成長させなければならないのだから。

野乃子は私の子にしては出来すぎた子だった。
クラスでいじめられている子にいつも声を掛け、家に連れてきて一緒に遊んだり、宿題をやっていた。
障害のある子が石をぶつけられているのを見て、かばって自分が怪我をしても誰にも言わず黙っている子だった。
生きとし生けるものすべてを愛し、蚊すら殺さない娘。
そんな子に私の不安を吸い取らせたくなかった。
でも、私の心のどこかに、いつか娘に頼り切ってしまう自分がいるのではないかと、それを内心とても恐れていた。

どこにも、救いがない。
ああ、こんな弱っているとき時に宗教の人たちに声を掛けられたら、何も考えずに縋り頼り生きる指針としてしまうんだろうな、なんとなく縋ってしまう気持ちもわからなくはないな、とぼんやり思う。
宗教を信じないことを信念としてきた私だけど、自分しか頼れない今のこの状況から、とにかくなんでもいいから早く這い上がりたかった。

そんな時だった。
ネットで「あなたのエッセイ、投稿してください。投稿数は3つまで。人気投票で5位以内に入った方には賞品を差し上げます」
今は無き、CGIBOYというところのエッセイ募集を、私はたまたま見かけた。

そういえば、私は作文が得意だった。
小中学校では毎年読書感想文で何かしら賞を獲得していた。
そればかりか、苦手だという人が多かった読書感想文の代筆までやっていた。そして代筆したものも併せて入賞させた。
中学ではラブレターの代筆もやっていたし、作詞もしていた。とにかく、読むことも好きだったが書くことも大好きだった。

よし、久しぶりに文章書いてみようかな。
気軽な気持ちで私は3篇投稿した。
ひとつはピアノの生徒のお話。
もうひとつは失くした母の指輪の話。
3篇目は、亡くなった同病のKさんの話だ。

書くのは簡単だった。
面白いほど指が勝手に動いた。何も考えないで数分で書いた文章。

数日後、結果を見て心から驚愕した。
なんと、私の作品が1位から3位を独占している。
講評や読者の声は、みんな私を褒めている。
こんなことってあるのだろうか。

初めて自分のしたことでみんながこんなに褒めてくれる。
その、生まれて初めての、この望外の喜び。
よし、そうだ、じゃあ、昔の懐かしい恋のこと、依存症で苦しんでいた時代のことなんかをちょっと書いてみようかな。
どんな反応が来るだろうか。

初めは、本当に何の気なしに気軽に始めたブログだった。
だが、すぐにアクセスがぐん、と伸び、私はたちまち有名ブロガーの仲間になった。

そして、何よりも大きかったのは、いつの間にか書くこと自体が、私の活きる原動力になっていった、ということだった。
見ず知らずの、顔も見えない読者たちに、思ってもみなかった賞賛の言葉を投げられることの快感は次第に私を勇気づけ、本来の私の前向きさを取り戻す力となった。

私は4度目の手術をすることを決意した。
ブログの読者には私が難病患者ということは一切隠し通した。
早く治して、今のこのブログをもっといいものにしよう。ちゃんと書いて、読んでくださる方々にしっかり応えなくてはと強く思った。

再々再発を宣告されてから3カ月、私はようやく棚沢先生に会いに行った。

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三島 こうこ
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