褐色細胞腫闘病記 第15回「心臓病と甲状腺腫」
胸の手術が終わって2カ月が経過した。
心臓の異常を指摘されて、私は循環器内科の森正樹医師と初めて対峙した。
この医師は、3カ月前にこの大学病院に赴任してきたばかりだという。
初めて役職のついていない先生が担当になったが「今度は偉い先生が付くほどの病気ではないんだろうな」くらいに思っていた。
森医師はまだ30代前半くらいだろうか。問診の段階から非常に丁寧で熱心で、とても人当たりの良い医師だった。
見た目は少しふっくらしていて色が白い。丸い可愛い眼鏡をかけていて、なんだかジョンレノンを若くしたような顔立ちだ。
心電図をふんふんと言いながら見つめ、彼は私に伝える。
「P波の動きが明らかに異常なんですよね。まあこの病気の典型とはいえますが…普段から胸が苦しくなることはないですか」
「腫瘍を摘出する前はずっと苦しかったです」
「今は?」
私は術後の体調を思い起こしてみる。あ、そういえば。
「朝、不整脈を感じると、一日中ずっと具合が良くないことがあります。でも翌日にはすっかり治ります」
「そうですか。症状はあるんですね。エコー検査しましょう」
検査の結果、私に新しい病名が加わった。心臓の下側が明らかに健康な人の心臓より大きくなっているという。
「先尖性肥大型心筋症ですね。心筋症の中では一番多いタイプです」
「治療はどうするのでしょうか」
「即、命に関わるものではないので、様子見でいいと思います」
様子見って…薬も飲まないのか? 途端にいぶかしく思う。
「あの、どうして急にこんなことになったのでしょうか」
「褐色細胞腫の病名がわかるまでの期間に、高血圧に晒されていた期間が長かったため、心臓が耐え切れなくなったと考えられます」
そうか、そうだよなあ、ずっと苦しかったもんなあ…
私は病名がわからず毎日不安で病院行脚をしていた日々を思い起こし、苦々しい気分が蘇る。
「肥大型心筋症、母も同じ病気ですが、やっぱり遺伝ですか?」
「もし遺伝であれば、お母様と同じ場所が肥大しますから、違いますね。お母様の場合、かなり心臓の動きに関わる難しい場所が肥厚していますので…同じ肥大型心筋症でも別物なんです」
じゃあ、野乃子には遺伝しないか。とりあえずは良かった。
「今後の治療はどうするんでしょうか」
「不整脈を抑えるお薬は副作用が強いものが多いのです。褐色細胞腫との兼ね合いもありますので、もう少し様子を見させてください」
そうか。良かった。もうしばらく体を切り刻むことはないだろう。
あとは褐色細胞腫の転移がこれ以上ないよう、ずっと抑えられるよう祈るのみだ。
翌月、棚沢先生の外来診察。
今日は久々に梶並教授も一緒にいる。
「胸部の手術、お疲れさまでした。術後の経過も良いようですね。佐東助教授が『術後すぐにあんなにスタスタ歩いている患者は今まで見たことがない』って言ってましたよ」
棚沢先生が嬉しそうな声で私に言う。
術後のCT画像を食い入るように見ていたイタリアン梶並がおもむろに言う。
「綺麗に摘れてるみたいだね。胸部外科の佐東センセ、ああ見えてめっちゃ手術上手いんだよねぇ、きっと傷痕残らないと思うよ」
「そうですか、良かったです。安心しました」
「佐東先生、イケメンだったろ? 俺ほどじゃないけど」
相変わらず軽薄なイタリアン梶並、今日は特に顔が濃く見える。
「ええ、お二人ともカレーライスとナポリタンを混ぜて上からホワイトソースかけたようなお顔立ちですよね。胸やけしそう」
私が混ぜっ返す。彼は何言ってんだよ胸やけとは失礼じゃんかと笑う。
棚沢教授が真面目な顔を拵えながら笑いをこらえているのが可笑しい。
「心臓のほうは、まあ、よくある疾患です。先尖性肥大型心筋症は自覚症状のないまま生涯を終える方もいます。この病気に関してはあまり神経質にならなくて大丈夫ですよ」
棚沢先生の言葉を受けてイタリアン梶並が言う。
「それでも具合悪くなることはたまにあるんだよな、そういう時は寝てることだね。あと、睡眠不足は大敵。タバコもね。あ、三島さん、精神安定剤は持ってる?」
「はい、持っています。以前メンタルクリニックに通っていたので」
数年前まで私は重い不安障害と鬱、パニック発作を患っていた。
「それ消費期限切れてない? 新しく処方するよ。具合悪くなったらセルシン飲んでね」
「お願いします」そういって何気なく棚沢教授を見る。
優しく笑っていたと思った棚沢教授が、ふと私の首元に目を止める。
じっと見ている。え、何? 私の首に何かついてますか先生それキスマークではないですダニに喰われました誤解しないで下さい。
「穴が開くほど見つめる」という比喩どおりの見つめ方だ。
「……三島さん、すぐに甲状腺のエコー撮ってきてもらえますか?」
「はい?」なんなんだいきなり。
「はい! 出た! "触らずに甲状腺の病気を発見する棚沢マジック" !」
は? 本当になんなんですか。
「先生、相変わらずすごいですね! 」
イタリアン梶並は下手な芸人のようなヨイショをしている。
何言ってんだ。ふざけてんじゃねぇ、と少しムっとする。
だが、約2時間後、私の甲状腺には葡萄の房のようなできものができいることがエコー検査で判明した。
ここで書いた通り、本来棚沢教授は世界的に有名な甲状腺疾患の権威である。
"診ただけで診察できる" というのはあながち嘘ではなかったということに感激する。
さらに追加された新しい病名は「腺腫様甲状腺腫」だという。
甲状腺に沢山のしこりができる病気だ。
でも幸い、この腫瘍は98%くらいの確率で良性だという。
「たまに癌化する人もいますがごくまれです。これは遺伝が多いですがご家族にこの病気をお持ちの方は…」
…いる。いるで。めいっぱいいるで。
それもまたもや母だ。母はこれを「甲状腺の葡萄」と呼んでいた。
なんで私ばっかり貰わなくてもいいものを貰ってるんだろうか。
まあ、でもあの苦しくて痛い手術を思えばこんなのは皮膚に出来たイボと一緒だ。どうってことはない。
ただ、複数の病気を抱えたということはそれだけ病院に行く機会が増えるということだ。毎月かかる医療費は膨大だった。
私は結婚してからあれだけ身を捧げていたピアノの仕事を辞めた。それは義父と夫に反対されたからである。
だが、当時の夫は高収入。別に私が働かなくとも余裕で暮らしていけた。
だが、そんな彼よりもさらに私が彼より収入が多かったことが見栄っ張りの夫の「コケンニカカワル」ことだったらしい。仕事を辞めさせ自分が養う立場になりたかったんだと今ならよくわかる。
まあ、いずれにしろこの体では仕事を休むしかなかったし、野乃子の世話もきちんとしたかったから、それはそれで納得していた。
しかし、病気は寛解したとしても、私たちの結婚生活は倦み始めていた。
夫は、私にたくさんの秘密を作っていたのだった。
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