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褐色細胞腫闘病記 第22回「車椅子の向日葵」
「今回は消化器外科の病棟が空いていないんです」
入退院受付の事務員が申し訳なさそうに話す。
そんなことってあるんだろうか。
まあ、入院できれば私は別にどこだっていいんだけれど。
「どの病棟になるのですか?」
「 "アレルギー膠原病科" が空いているのでそちらにお願いします」
「消化器外科はそれほどいっぱいなんですか?」
「そうなんです、救急で入られた方が今月はとても多くて」
そんなものかなと思いながら私は入院誓約書を書く。
初めて入るその病棟は通称「アレ膠科」と呼ばれていた。
消化器外科の病棟では歩行練習する患者が多かったが、ここは管をぶら下げてよたよた歩いている人はいない。
雰囲気もまるで違う。看護師が走っていない。殺気立っていない。
静かで、そしてにおいが独特だ。嗅いだことのない、干し草のようなにおいが満ちている。でも決して不快ではない。
初めての「アレ膠科」の4人部屋。私はおそるおそる挨拶する。
「初めまして。三島と申します。よろしくお願いします」
一斉にこっちを見る顔たち。おおお、みんな若い!
「はぁい、いらっしゃいませ~♫」
明るく応じてくれたのが、私の左隣のベッドの方だ。
まぁるい小顔に黒縁メガネ。小さな瞳、小さな鼻、小さな口、みんな小さくて愛らしい。とても幼く見える。熊の模様のニット帽をかぶっている。
パッと見、とっても元気そうでまるで病人には見えない。
でも、よく見ると手が。その手がひどく赤くむくんでいる。どういう病気なんだろうか、と思う。
「しょうげから回されたんですって?」
…しょうげ? ああ、消化器外科かの略か。
「はい、そうなんです。よくご存じですね」
「ここ、あぶれた人がけっこう来る場所なのよね。あ、すみません自己紹介まだでしたっ! 」
ベッドの上で少し体をひねり、こちらを向く。なんて笑顔だろう。まるで邪気がない。
「私、芳河祐子です。小さい頃からここに住んでまーす♪」
小さい頃? 聞けば26歳だというが、どういうことなんだろう。
この芳河さんは今後、私の人生で忘れられない女性となるが、第一印象は〈向日葵みたいな子〉だった。
私の向かいのベッドの女性が声をかけてくる。
「根田はるかと申します。私も消外がいっぱいだって言われて回されたんですよ。昨日入院して明日手術です」
「三島こうこです。よろしくお願いします」
私はできるだけ自然にと心がけながら笑顔を返す。
「ごく初期の胃癌だって診断されて初めての手術で、不安でいっぱいで…」
根田さんは、少しふくよかな体型と柔らかそうな髪と優しい声。
私より少し年上くらいか。とても素敵な印象の女性だ。
私はわざとおどけた口調で言う。
「私、今度のオペで脇腹を斜めにガッと切られちゃうんですよー。まるで侍です」と言うとドっと笑いが湧く。
はす向かいのベッドの方はニコニコとこっちを見ている。
「こんにちは」と声をかけるとコクンコクンと2回頷く。どうやら声が出ないようだ。
芳河さんが代わりに紹介してくれる。
「こちら、宇埜充希さん。私の一歳下よ。人工呼吸器外したばっかりであまり声出せないけど、ほんとはすごいおしゃべりなんですよ」
私は近づいて「よろしくお願いします」と頭を下げる。
宇埜さんは顔の前でひらひらと両手を振ってくれる。
パジャマの袖から覗いた両手が、真っ赤にただれている。
ハッとするが、見なかったふりをして、ひらひらニコニコ手を振り返す。
今までなかった病室の明るさにすっかり嬉しくなり、私はいつになく饒舌になる。
「なんか、ここ明るくて静かでいいですねぇ、前のところと全然違うわ」
「…そう? うふふ、でも静かになるしかなかったりして」
芳河さんが小さく即答する。
私は配慮のない言葉を言ってしまったかと口を噤む。
それを察したかのように彼女は明るく話題を変える。
「私ね、この病院の秘密、たくさん知ってるの」
「え、なになに? 教えて」
根田さんがノってくる。私同様、好奇心旺盛な方のようだ。
それは他愛のない話だった。
鍵のかかっていない人の来ない部屋があり、そこは出入り自由でパソコンが使えること。
学生棟に通じる秘密の廊下や、霊安室に直行するエレベーターの場所を知っていること。
12階の特別棟にバレずに行って夕焼けを見る方法。
裏庭に狸の子供が遊びに来たのを見たこと。
まあ、そんなところである。
根田さんは少し拍子抜けした顔。
でも私はすべての話がめっちゃ琴線に触れまくって面白い。
「あとでいろいろ案内して」と言ったら彼女は目を輝かせて「ラジャー!」と応える。
根田さんは明日の手術を控えてとてもナーバスになっている。
私は「寝てたら終わってるの。怖がっている暇もないくらいだよ」と励ますが、何を言ってもそわそわしている。
彼女の旦那様がお見舞いにやってくる。
白髪頭の、大きな体格。細い目が笑うと独特の柔らかさが醸される。
「はるか、大丈夫だよ、もっと大変なオペしてる人もいるんだよ」
旦那様がなんと言おうと、オペ4回目の私がどう言おうと、彼女はずっと泣き顔だ。
すると、黙っていた芳河さんが一言、放つ。
「初期の初期でみつかったなんて、根田さん、めっちゃ運がいいね。目が覚めたらもう、カンペキに健康になれるのよ」
決して冷たく突き放す言い方ではない。
ゆっくり、諭すように、何かに祈るように穏やかに話す言葉。
そわそわしていた根田さんは、しん、と黙る。
芳河さんの病名はSLE、『全身性エリテマトーデス』。
膠原病の中でも多種多様な症状が出る疾患で、重症度の個人差がとても大きい疾患だ。彼女の発症は10歳、以来ずっと入退院を繰り返しているという。
「私の場合は父親がこの病気で亡くなってるからね、遺伝なの。どうしようもないよね」と笑う彼女は、すでに大腿骨骨頭壊死で両足に人工関節を入れていて、電動車椅子を使っている。
芳河さんが話すと途端にみんなが明るくなった。
彼女は車椅子で他の病室に行ってひと笑いさせて帰ってくる。
そして、動けない話せない宇埜さんの世話までしている。
私はふと、彼女に呟いた。
「私ね、4回目の手術なんだけど、正直もうイヤになってるのよ。今度のオペドクターも感じ悪くてさ」
「褐色細胞腫って聞いたことないなぁ」
「うん、あまり日本にいないんだって。でも自慢にもならないわ」
「でもいいね、切ったら悪いところ、一応は摘れるでしょ?」
なにがいいものか。痛いのはイヤだ。私は少しムッとして言う。
「まあ、そうだけどさ、完治っていつするのかなーって思うとね」
「私なんかさ、免疫がバカになってて、自分で自分のこと殺してるのよ、毎日毎日、どこもかしこも」
彼女の声はあくまでも明るい。
「切って治したいよ、私も。切れるところがあるっていいなあ」
彼女はわざとぞんざいに言う。
え、でも私、でも私、でも私、とエコーがかかる私の心。
「三島さん、今 "でも私" って思いっきり思ってるでしょ」
悪戯っぽく笑う芳河さん。図星だ。
私は慌てて繕い笑うが、頬が引き攣るのがわかる。
「三島さん、両肘を横に突き出して、めいっぱい斜めに上げてみて」
え、何よ突然。怪訝に思いながら言われたとおりにする。
「私ね、それ、激痛でできないんだ」
「え?」
「鎖骨がね、今、腐りかけてるから」
私は驚いて彼女を見る。
そうか、電動車椅子の理由は手が使えないからか。
何気なく彼女に繋がれている点滴を見る。そこには「水溶性モルヒネ」の文字がある。
そう、彼女はSLE患者の中でもかなりの重症者だった。
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