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『鬱の本』を読んで思ったこと。かけ算とわり算について。

先日、神保町の本屋さん巡りをした時に『鬱の本』という本を手に入れました。

編集者がピックアップした84人による、鬱にまつわるエッセイが並ぶという本で、1人につき見開き1ページほどの短い文章で構成されています。

一口に鬱といっても色々で、日常の憂鬱や気だるさ、不登校などの症状から、自殺未遂や薬をもらって治療しなければならないほどの鬱までありました。

X(Twitter)での発信がきっかけで取り上げられた二十歳くらいの人から、大詩人の谷川俊太郎さんまで、雑な言い方ですが幅広い魅力的な文章が並んでいます。

企画もそれぞれの文章も、心に響くとても素敵な本なのですが、正直に言って題名は不気味に感じてしまうし、僕自身も手に取るときはかなり躊躇いました。

友人に「何読んでるの?」と声をかけられた時に、相手を心配させず的確にこの本の魅力を伝えるにはどうしたらいいかと悩んでしまいます。それだけ「鬱」という言葉はどんどん身近になっているし、同時に大きな破壊力を持っています。

一旦最後まで読み終えたのですが、一人一人が発するメッセージの深さや重さに圧倒され続けて、一回では到底読み足りない本でした。

そんな中でも読み進める中で考えたことはいくつかあります。まず、「鬱の時は本なんて読めないし、なんの役にも立たない」ということでした。

僕は本当の鬱や不登校になったことはないし、恵まれた環境で生きてきたと思うので、精神的な苦しみを抱える方々と自分を比べることはおこがましいかもしれません。

そんな僕でも世界に興味が持てない時や、自分を好きになれない時、他人を憎んでしまうことがあって、そんな時はやはり受動的に楽しめるものしか受け付けないな、と思いました。

本を読むって、どんなに面白い本でも、読み手を引き込むような推理小説でも、本を選んで自分からページをめくっていくという能動性が求められます。

言い換えれば自ら世界に働きかけるということで、余裕がない時にそんなことはできないのは当たり前です。余裕がない時はゲームをして、Youtubeを何時間も観て、マックでチキンナゲット15個パックを食べるくらいがいい。

そしてちょっと回復してきて世界に目が向いてきた、けれど出歩いたり人と関わるのは面倒くさいしちょっと怖い。そんな時に本が役に立つと個人的には思います。本は自分と世界を繋いでくれるような気がしています。

そしてもう一つ、「鬱の本」を読んで心に響いたのは、
引き算のうちはよくてもかけ算とわり算で貧しくなっていく
という短歌です。

一日のうちで本当に集中できたり、生産的だったり、クリエイティブだったりするのは多くて2時間ぐらいだなとふと考える。だとすると、2✕7が一週間のうちの可能性である。それに4を掛けると一ヶ月の可能性、さらに12を掛けたものが一年間の可能性......こういうのが「かけ算」であり、どんどん加速していってわたしの可能性を算定する。
かけ算がおそろしいのは一気に未来まで届くからである。もっとこわいのは、「100年生きるとしたら」などからはじまる「わり算」で、これがはじまると、たとえば死ぬまでに読むことができる本の冊数などさらっと出てきてしまう。その数字が私の知的な可能性の限界である。

人にもよるだろうけれど、わたしにはこういうのが鬱っぽい思考の誘因になる。かけ算とわり算をやめよう。かけ算とわり算がはじまると、昨日と今日と明日がまったく等しい同じものになる。十年後の1時間と、今すごしている1時間も同じになる。本当はそれらは質的に違っていて計算が成り立たないはずなのだ。やっていい計算は足し算と、せいぜい引き算までである。

かけ算とわり算 永井祐

「加速する世界」「成長し続ける社会」なんてよく言われるけど、その本質はかけ算とわり算なんじゃないかなんて思ってしまいます。本来わからないはずの自分の未来や将来を無意識に計算し、自分で自分を規定してしまう。

そんなことより足し算を大切にしていこうという筆者の思いに、個人的に共感してしまいました。日々できること、良かったこと、嬉しかったことを積み上げて1日1日を大切に生きていたいですね。



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