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なんだか世界がいつもとは違うと思える日に

中三の大晦日、15歳の僕は決心した。明日から筋トレをしようと。

特に明確な動機があったわけではない。太っていたからダイエットをしたかったわけでもない(むしろ痩せ気味の方だった)。強いて理由を挙げるなら、小学校まで習い事や地元のクラブチームで運動をしていたのに、中学に入ってから運動習慣がなくなってしまったからだ。そしてさらに強いて理由を挙げるとするなら、好きな女の子がいたからだ(この恋は数ヶ月後に儚く散ることになる)。

硬い決心を胸に一晩寝ると、次の年になっていた。まずはどこの部位を鍛えるか、何の種目をやるかを決める。とりあえずは腹筋・胸筋・脚を鍛えることにして、この三部位を三日かけて順繰り順ぐりやっていくことにした。

小学校時代に運動していた貯金もあって、どの部位も「プルプルして5回もできない」なんてことはない。それでも同じ部位に色々な種目で刺激を入れていると、自分のできなさに気がつく。当初設定したメニューの三分の一もまともにできなかった。息を整えながら、明日こそは、と一人呟く。基本的にインドアで出不精だから、ジムには行かず自宅で汗を流す。そんなことを続けて、6年経った。

もちろん1日も欠かさずに毎日できたかと言われると、全然そんなことはなく、急にやる気をなくして数日空いたりもする。好きな女の子のために始めた筋トレだけど、中学の卒業式に告白して振られるという青春真っ盛りイベントのあとは、しばらく運動なんてする気にもならなかった。それでも気がつくと筋トレを再開していた。そんなものだ。

僕は代謝がいいのか何なのか、「肉」がつきにくい体質らしい。贅「肉」や脂肪もつかなければ、筋「肉」もつきにくい。というのは言い訳だけど、それなりのやり方でそれなりの期間継続している割には目に見える変化は少ない。いつからか、筋トレは「体を鍛える」ということよりも、「自分がいつもと同じ」ということを確認する作業に変わった。

日常のふとした瞬間に、「あれ、何だか今日の世界はいつもとは違う」と思うことはないだろうか。道ですれ違う見知らぬ人の顔も、空気の匂いも空の色もなぜかよそよそしく感じられて、世界が違うのか、自分が損なわれてしまったのかがわからなくなることはないだろうか。そんな時、筋トレをすると、自分がいつもとほぼ同じかちょっとだけ重い負荷に耐えられることに気がつく。「なんだ、自分が変なんじゃなくて、世界が今日はいつもと違うんだ」と安心することができる。

僕にはマッチョな思考は似合わないし、「筋肉は裏切らない」と真顔で言えるほど素直ではないし、強くなるため、モテるために筋トレをしているわけではない(と思う)。ただ、世界に吹く風に違和感を感じることがたまにあって、そんな時に自分はいつもと同じだと胸を張って言えるように、普段から自分の状態を把握しておくのだ。腕立ては何回やるとどれくらい疲れる、この重さのダンベルは何回までしかちゃんとあげられないけど、形が崩れてもいいならあと3回はあげられる、みたいに。

筋トレは僕という人間の健全性を保証してくれる。どこかで世界のスイッチが押されて、レールが切り替わって僕が乗っている電車が隣の線路に移動する。すぐ隣だから景色はほぼ同じだけど、微妙に違う、そんなことを繰り返しながら僕の周りの世界は進んでいく。行き先はわからないけど、途中で降りるよりは乗っていたい、そんな旅路を進んでいく上では、丁寧な確認作業が必要なのだ。自分を確かめながら、少しずつ。


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