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島田明男(著)『昭和作家論(田中英光)』を読む。


小説家、田中英光の名前を知っている人はそんなに多くはないでしょう。私も皆さんがご存知の太宰治のスナックのカウンターで右足をあげている有名な写真を撮ったカメラマン、林忠彦の写真集『文士の時代』に出会うまで、全く知りませんでした。

田中英光は林忠彦さんに太宰治と同じように撮ってくれと頼んだそうです。何か特別なものを感じた林さんは、太宰治を取ったスナックとは別のスナックで写真を撮りました。その後まもなく、田中は太宰の墓前で服毒自殺をしました。田中英光は太宰治の背中を追ったのです。

田中は太宰から見出された作家です。二十二歳の時に書いた小説を偶然太宰治にが読み、感動した旨の手紙を田中に送ったのがきっかけでした。太宰治より4歳年下です。戦争が終わったとき、太宰三十六歳、田中三十二歳でした。

田中英光はこの当時の他の小説家と大きく異なっている点があります。それは実際に中国で戦ったことです。内地では聖戦であり、皇軍であり、神兵であるが、現地では殺人、障害、放火、暴行であったのです。

自分の心が崩れていくことを自分自身で止めることはできませんでした。敵兵を傷つけ、殺そうと努力するようになります。婦女が暴行されるのを身をもって庇おうとする勇気を失っていきます。

すさんだ田中の心を少しでも救おうとしたのは太宰治でした。しきりに田中に小説を書くように勧め、内地に送らせたのです。

戦後、彼が選んだ道は文学で復讐することです。文学で政治を変えることです。文学こそが崩壊していく田中の心を支えたのです。

田中の感性は鋭かった。
鋭かった故にもろかったのです。

だが、田中をを責めるわけにはいきません。戦場で悪童の限りを尽くしたのに、戦後を平然と生き延びる人々の笑い声に対して、田中は文学で対抗しようとしたのです。

他の人は何を持って戦いの無い世の実現に挑んだのでしょう。そんなものはすぐに忘れ、他の人の死の上に立ち上がった社会の中で、周りを見ることもなく嬉々として過ごしているのです。

田中は自分はには文学しかないことと思いつつ、どうにかして復讐をやり遂げようと思ったのです。


しかし、頼みの太宰治は昭和二十三年六月、あえなく入水自殺してしまいます。田中は太宰が最後に書いた 『グッド・バイ』と同じように『さよなら』の短編を書き、太宰に遅れること一年半で死にました。

田中の心は純粋でした。田中の心の灯を燃やし続けたのは、太宰への思いでした。太宰が生き続ける限り、田中も生きたのだろうと思います。

もし田中が戦場に行っていなければ、田中は絶対に死ななかった。

戦争は一人の小説家だけでなく、戦後文学の「ひとかけら」を失いました。戦後文学が、だから不完全のまま、今日に至っているているのだろうと、私はそういう気がするのです。


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写真は以下を参考にしました。

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