加賀乙彦『宣告』を読む。
加賀乙彦『宣告』を読む。
速読で本を読むほどの年齢はとうに過ぎたので、じっくりと読んで、千文字ほどの感想を書いてブログにアップしている。
その習慣を順調に重ねていたのだが、この本で筆が止まってしまった。読んだ本は加賀乙彦の代表作「宣告」、上中下の長編である。拘置所に勤務する若き精神科医と死刑囚の物語である。著者は実際に1955年から59年まで東京拘置所に勤務していて、実際そこで多くの死刑囚に接しているので実体験の記録でもある。内容は死刑囚が死刑の宣告を受け、実際に処刑されるところまでを、これでもかこれでもかと、重ねて書いてあるので、正直読み進めるのにくじけそうになることもあった。ようやく読み終わっても「もういい!」と思ったほどだ。つらく重い小説だ。
この本を読んだ後、さてどんな感想を書けばよいのか、とても書けそうにないな、と思い始めたときにオウム真理教の7人の同時処刑のニュースが入ってきた。この本を読んだ直後であり処刑の様子が目に浮かぶような気がしたので、どう書いていいのかわからない気持ちをなんとか整理して、こうやって書き始めている。
この小説の中心にはキリスト教の救いについてどう捉えるか、死刑囚や医者の間で話し合う場面が多く出てくる。著者の加賀乙彦はキリスト教の信者である。死刑囚の中にもキリスト教を信じている者、お経を唱え続ける者などが出てくる。「宗教にとって死とは何か?」……私たち塀の外の人たちにとっては、それはある種の雑学的な興味でしかないことがらであるが、死刑囚にとってはまさしく「死にとって宗教とは?」なのである。死刑を宣告された後のオウム真理教の7人にとっても、「死にとっての宗教とは」であったであろう。そして自分の運命を導き正すのが神や仏であるのなら、あの7人にとって宗教とは一体何だったのだろうか。神は死をもてあそんだのだろうか。
死刑囚にはもちろん自由がない。自由がないどころか、処刑台に登ることだけの一本道の人生。だから、処刑ということに生きがいを感じるしかない人生。自分の死にしか生きがいを感じることができないように、自分に言い聞かせる人生。そんな人生を死刑囚たちは過ごしているのだ。それはこの世だろうか、あの世だろうか、生きながらにして、死んでいるのだろうか。死刑囚のそのような日々の、どこに幸福があるのだろう。
絶望の時、幸福だろうか。いや、きっと絶望の時こそ幸福であろう。
これがこの本のもう一つのテーマだ。オウム真理教の7人もそのような感じ方をしたのだろうか。わからない。最後にどのような気持ちだったのか誰にもわからない。
死刑囚にとって死は人生の目的だろうか。いや、私たちにとっても、もし死こそが人生の目的であるのならば、私たちも死刑囚と同じように死を宣告され、死を目的として生きる一市民でしかないのではないだろうか。
死が目的になることなどありえないのか、いやいや、人は絶望から生まれる幸福を、人生の目的としているのであり、それだからこそ、悪の道の一歩手前で踏みとどまることができるのだろう。
キリストのいう奇跡があるなら、復活があるのなら、いちど絶望を信じてみることによって、復活が生じるものではないだろうか。
絶望を超えて、復活を信じる。
そうであるならば、日々の生活は祈ることしかできないのかもしれない。絶望こそ復活の前兆であるならば、私たちはこの小説の死刑囚の多くのように、祈ることを日々の生き方に取り込むべきなのかもしれない。
祈りと共に、愛し信じる人が目の前に立つ時、私たちの処刑は終焉を迎えるだろう。幸福な者として。
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