
アンドレ・ジッド(著)『狭き門』を読む。
私は凝り性なのか、人の前で話したりすると、話が難しいと言われることが多い。聞いている人たちは多くが五十も六十も超えている人たちだが、どこまで安易に話せば良いのだろうと思う。
アンドレ・ジッド(ジイド)の『狭き門』を読む。いったいこの小説はなんだろう。ノーベル文学賞を受賞するほど有名な作家の代表作であり、「狭き門」という名前だけは知っていたが読んでいなかった。読み始めて、いったいこの物語はどういうことだ、と戸惑うことが多かった。
ネットの情報も調べてみた。ジッドの生涯についても読んでみた。それにフランスの宗教についても知る必要があった。フランスは多くがカトリックだ。ジッドはフランスでは珍しいプロテスタント。背景にはこの対立もあるようだ。
結局、調べ、読み、考えなければ理解できない、誤解してしまうのだ。環境が異なる地域の文学を読むことの難しさを感じた。
だから、凝り性になることも大事なのだ。現代では情報の真偽は別としても、ネットで多くの情報を得ることができる。私は本を読みはじめる時、巻末にその作家の年表や解説があれば、まずそこから読むようにしている。
いろいろな情報を集めて考えてみると、この小説は「究極の神は人を殺すのか」と言う問題提示なのだという。
確かにわかるような気がする。
究極の愛のために、死を選んで、神のもとに赴く。そのための「狭き門」なのだと思うと、納得する部分も多い。
いやいや、そんなはずはない、究極の神は人類を救うのだ。とカトリックの友人は批判している。そしてしきりに、ジッドに対してカトリックに改宗するように勧めている。
日々の生活に追われていると、安易な愛に溺れてしまう。妥協してしまう。それで本当に幸せなのか。
「目を覚ませ、諸君!」
と凝り性のアンドレ・ジッドが叫ぶが、
「君こそ目を覚ませ!」
と世界の大部分の人から言い返される。
しかし、この小説の最後の部分にあるように、その普通の人の多くは、夕闇せまる部屋で一斉にこちらを向いて私を見るが、その顔さえわからないのである。
ーーー
文字を媒体にしたものはnoteに集中させるため
ブログより移動させた文章です。
↓リンク集↓
https://linktr.ee/hidoor