見出し画像

ジャン・ジュネ(著)『泥棒日記』を読む。


なぜ私は、このジャン・ジュネの『泥棒日記』を手に取り、積読せずに読み、そしてこんなに感動しているのか。その理由がわからない。私の目の前を幻の蝶が飛び、その蝶の羽のかすかな動きが私の無意識の何かに伝わったのだろうか。それともこの地球をも包み込むとてつもない大きな力が働いて、私の右人差し指を動かしてクリックをさせたのだろうか。

この本はついでに買ったものだった。例の一冊買っても五冊買っても送料は同じと言うもの。本命の本ではなく、その他の本だったのだ。積読しなかった理由は、泥棒日記と言うタイトルに惹かれたからだ。だから手に取ったのだった。

それが、読み終わってみると、この本は手元に置いて、いつでも読み返してみたいと思うほどになるのだから、私が不思議だと思うのも当然だろう。

その不思議さに対する私の一応の結論は、「本がそこにあったから」ということしかない。いくら考えてもそれしか思い浮かばない。この本が、たまたま偶然に「今、本が読みたい」私の目の前に現れたからである。そのことから心の深いところにある琴線を響かせるまで、どんなに遠い道のりだったか。どんな偶然が重なったかを考えると、とても有り難いことである。

仏典にも、あなたがこの世に生まれることも、そして仏に出会うことも有り難いこと、つまり有り得ないこととが起こっているのだと書いてある。

私のこの本との出会いは、まさしく「仏」に出会うことでもあったのか。『泥棒日記』という書物がである。笑える。

キリスト教の話をしよう。アメイジング・グレイスという歌は誰でも知っている。直訳すると「驚くべき光」という意味だ。つまりこの光の中を進みなさい、この光の届くところにいなさいという教えである。

しかし、世の中には闇の中で生きるしかない人たちがいる。いわゆるアウトローの人たちである。この本の作者、ジャン・ジュネもそのひとり。彼は母親のことしかわからない。生後七ヶ月で母親から捨てられたのだ。父親が誰だかは不明となっている。彼は母親から捨てられた7ヶ月の赤ちゃんだった。その赤ちゃんがどのような境遇で育ち、どのような心を持つ少年になったのか。それがこの本の奥にある暗くて深い沼だ。その沼の魔力によって、めくるページが重くなる。

アウトローとは光の外のこと、そこに住まざるを得ない少年は、青年になり何を求めたのか。何を考えたのか。それがこの本に書いてある。

長くなる、端的に書こう。
この本のテーマはアメイジング・グレイスは真実なのかの問いである。

私はこの本によって心がぐっと広がるのを感じる。私がここにいる。それは、明るいとか暗いとか、良いとか悪いとか、そんなことに依存しないのである。

もし作者が逆境で生まれていなかったら、このような本は書かなかっただろうし、私が読むこともなかっただろう。
ジャン・ジュネという男の存在と、その出生。そして私の存在の交点にこの本がある。交点の輝きがある。
その輝きはアメイジング・グレイスの輝きとは異なる。もっと暗くて深く重いものだ。だからこそ心の奥底に響くのだ。

私の「綾の鼓」を打つのだ。



ーーー
文字を媒体にしたものはnoteに集中させるため
ブログより移動させた文章です。

↓リンク集↓
https://linktr.ee/hidoor

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集