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ジャン・ジュネの戯曲『女中たち』を読む。



ジャン・ジュネの『女中たち』は登場人物が、姉と妹の二人の女中たちと、奥様の三人だけの一幕の戯曲です。

作者はジャン・ジュネです。ジャン・ジュネは私生児として生まれ、生後七ヶ月の時に捨てられました。その後、犯罪を繰り返し、ついに終身刑を宣告されたのですが、文学的な才能を見出したコクトーやサルトルの請願により、世に出てきて独特な作品を書きました。

この戯曲『女中たち』は現代でもたくさんの小劇場で演じられています。ジャン・ジュネは同性愛者であったから、この二人の女中たちを、男性が演じるように命じたと言われています。日本でも若い男性が演じることもあるようです。

ジャン・ジュネはいったい何を伝えようとしていたのでしょう。

1963年に書かれた「『女中たち』の演じ方」という文章には細かい指示が書かれています。この一幕の舞台の飾り付けに、細かい注文をつけています。

部屋の模様も変わるべきだ。ドレスは、(略)途方もないもので、どんな特定のモード、特定の時代にも属さないこととする。二人の女中が、自分たちの演ずるお芝居のために、奥様のドレスを(略)異様なまでに形を変えてしまってもよい。花は本物の花に、ベッドも本物のベッドにしたい。演出家に理解してもらいたいのは(略)なぜこの部屋は、女の寝室のほぼ正確なコピーでなくてはならず、花は本物の花でなければならないのに、ドレスが異形な途方もないものとなり、女優の演技がふらつくのか、という点である。


しかも、「演じる場所によって変化させろ!」といちいち命令をしていることです。その奇妙な物体に迫るように観客がかぶりつくそんな小舞台で……、奇妙な物語が進みます。

女優たちは、生の色気をひきずって舞台にのってはならない。映画女優を真似てはならないのだ。個人的な色気などというものは、芝居では舞台を下落させるだけである。


この戯曲は「劇中劇」から始まります。

最も驚いたのは、この登場人物のひとつひとつの動作にも注文をつけていることです。奇妙な特別な動きをつけろと命じました。直線的に、幾何学的に歩けと……。

わたしには、演劇が何なのかを正確に言うことはできないが、しかし、わたしとして演劇がそうであっては嫌だと思うものが何かは言うことができる。すなわち、外側から見た日常的仕草の描写である。わたしが劇場に行くのは、わたし自身を舞台の上に(略)わたし自身が決して見ることも夢見ることもできぬような--あるいはあえてそれをなしえぬような姿において見るためであり、しかもその姿は、実は、わたし自身、自分がそうだと知っている姿なのである。

台詞も仕草も……。この劇中劇では女中が奥様を演じ、姉が妹を演じ‥‥。男が女を演じ……いやいや……

しかし、ある瞬間「劇中劇」は「劇」になります。
その瞬間とは目覚ましの音が鳴った時です。

ジジジジジジジジジジー!!


観客はようやく安心するのですが、実はまだまだ危険なのです。

なぜなら、まだまだ「劇」なのです。
さて、自分の「真の姿」は何処に……?


人の人生って、結局は取り繕った劇?
心の闇は「劇中劇」?
安心するって、私じゃない誰かを演じている時?

そしてまた、劇は「劇中劇」にもどります。

女装した男性たちが(あるいは奇妙は女性たちが)なまめかしく、現実にありえない動き、仕草、台詞……
奥様の筆跡を真似た手紙を書いて、情夫を陥れた、女中たち……。


つまり、劇中劇であろうとなかろうと、人とは、ただただ「ここにいる」ということなのでしょう。





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