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加賀乙彦『殉教者』を読む。

加賀乙彦は1929年生まれだから、もう91歳になる。最後の作品になるかもしれない『殉教者』を読んだ。

加賀乙彦の長編は何回も手に取ってみるが読んではいない。例えば『宣告』は文庫本で上中下の3冊構成でなので、最後まで腰をすえて読み切るだろうか、その気力があるだろうかという自分への問いが先に立つ。

その点、この小説(といっても史実に基づいているが)の主人公ペテロ木岐部カスイは一途である。


一途というより一直線である。

ペテロ岐部カスイは日本人で最初に砂漠を歩いて聖地エルサレムを旅した人として知られている。

最初から最後まで気力が充実している。それはカトリックの宗教心の強さだろう。

1613年、二代将軍秀忠はキリシタン禁教令を発令した。日本も逃げ出した人もいる。ペテロ岐部カスイは決して逃げ出したのではない。殉教の旅に出たのである。殉教とは信じる宗教のために死ぬことである。信じる宗教の「ために」であり、信じる宗教と「ともに」ではない。

著者はあとがきで次のように書く。
「イエス・キリストへの信仰の証として、つまり人類の救済のために一命を犠牲にしたキリストに倣って、おのが命を掲げる覚悟で聖地エルサレム巡礼を思い立ったと思うようになってきた。」

宗教に殉じることは宗教とともに生きることだ。

著者はこの小説を書くためにペテロ岐カスイの足跡を尋ねたという。シリア砂漠だけが戦乱のために歩けなかった。

人の死は、多くの哲学者が語るように無に帰するものではなく、多くの小説家が描くように意味のあることなのだ。


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