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読書感想文のまとめ

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2020年5月の記事一覧

ジャン・ジュネの戯曲『女中たち』を読む。

ジャン・ジュネの『女中たち』は登場人物が、姉と妹の二人の女中たちと、奥様の三人だけの一幕の戯曲です。作者はジャン・ジュネです。ジャン・ジュネは私生児として生まれ、生後七ヶ月の時に捨てられました。その後、犯罪を繰り返し、ついに終身刑を宣告されたのですが、文学的な才能を見出したコクトーやサルトルの請願により、世に出てきて独特な作品を書きました。 この戯曲『女中たち』は現代でもたくさんの小劇場で演じられています。ジャン・ジュネは同性愛者であったから、この二人の女中たちを、男性

ブレヒトの戯曲『第三帝国の恐怖と貧困』を読む。

都会には小劇場がたくさんあって、それぞれ特徴のある舞台が観客の目の前で演じられていることでしょう。しかし、私の住む地方都市では演劇を見る機会は極めて少ないのです。しかも、このブレヒトの『第三帝国の恐怖と貧困』が近い将来、私の町で上演されることはきっとないと思います。世界的に有名な戯曲を読むと、上映される機会の多い都会に住む人たちを、うらやましく思うこともあります。 ネットで調べてみると、数多くの小劇団がこの戯曲に挑戦しているようです。 第三帝国とはヒトラーが夢見た「夢の国

ブレヒトの戯曲『「肝っ玉おっ母とその子供たち』を読む。

戯曲は独特な文学です。 小説も映画になるので、映像として見ることができます。しかし、戯曲は舞台になります。戯曲は舞台のために書かれているのです。その意味では戯曲ほど行間を読む必要のある文学はないでしょう。その行間の向こうに演技する人たちの表情や仕草が見えるのです。 舞台には映画と違って奥行きがあります。立体であり、空間があります。下手(客席から見て左)、上手(客席から見て右)、上や下、ステージの奥や手前があります。 舞台の真ん中に、二人の兵士が立っています。このあたりの

山崎正和(戯曲)『世阿彌』を読む。

文学が言葉としての文字を使用する限り……、文字を否定したら文学は成立しないのであるから、このような前提はありえないのだが、つまり、この条件は文学である限り……、となる。文学である限り、日本の真の心は描き出せないのかもしれない。 音、姿、色、風……、言葉ではないもの……瞬間に消え去るもの……定まろうとしないもの……それらで描かれた時間の集合、いや、瞬間。それこそが日本の心か…… 光と影……影は光を恨むや?光は影を愛おしむや?そこに、言葉がありや? 山崎正和の戯曲の代表作『

山崎正和の戯曲『凍蝶』を読む。

本年度(2018年)の文化勲章を受賞された、劇作家の山崎正和さんの処女作の戯曲『凍蝶』を読みました。二十三歳の時の作品です。 短い作品なので、別段この戯曲だけを取り出して感想を書くこともないと思ったのですが、ネットを見ても感想が見つかりませんでしたので、書いてみます。 表紙に「凍蝶 喜劇一幕」とあります。 「喜劇一幕」と聞くと、私は吉本新喜劇を思い浮かべます。しかし、この舞台には、吉本新喜劇のように、ずっこけたり、転んだりして、笑いを取る場面はありません。この戯曲には喜

高見順(著)『如何なる星の下に』を読む。

日本文学と言えば川端康成に代表される、行間を読む、含みのある文章ばかり読んできましたが、この高見順の『如何なる星の下に』には、そのすっきりした日本の文章ではなく、ねちねちとした文章が並びます。 しかし、それもまた本当の日本の姿、特に浅草などの下町の姿なのです。 私の場合、省略の多い文章は一語一文を注意して読まなければ意味さえつかめなくなり、たびたび読み返すことになるので、正直、少し肩に力が入るほどです。 この作品の冒頭は次のような文章で始まります。こんな(スッキリしない

チェーホフの戯曲『桜の園』を読む。

ようやく、私のあこがれであったチェーホフの戯曲『桜の園』を読みました。今まで私が想像していた桜の園、そして多くの日本人が私と同じように考えていた桜の園と、この戯曲の本当の姿はまったく異なっていました。 その最大の原因は、太宰治にあると思います。ご存知のように、太宰治は大地主だった津島家が戦後の農地改革で没落していく様子を見て、まるで桜の園のようだと考え、代表作『斜陽』を書き始めました。書き始めました、というのはこの小説の後半はこの主題とはずいぶんとかけ離れてしまっているから

チェーホフの戯曲『ワーニャおじさん』を読む。

「もうやってられないよ」「どうした?」「妹のだんなが、俺んちの土地を売って、株に投資したほうがいいって言うんだ。米や野菜を作っているくらいなら、そのほうが儲かるっんだってよ」「この前、お前んちに引っ越してきた、あの夫婦のことか」「そう、突然やってきて一日中だらだらしてる。こっちは朝から晩まで働いているのに。昼ごろ起き出してきて優雅な生活だよ。俺、あんまり頭にきたもんだから……」 チェーホフの戯曲『ワーニャおじさん』はこんな感じです。 戯曲って、わざわざお金を払って見に来る

トゥルゲーネフ(著)『初恋』を読む。

私は、新刊書はほとんど読みません。なぜなら古典と言われている小説はまだまだ無数にあり、読みたい小説がたくさんあるからです。それに何よりも価格が安いからです。世界の(当時の)ベストセラーが一冊百円で読めるのですから、こんなにありがたいことはありません。 今回読んだ古典は、トゥルゲーネフの『初恋』です。トゥルゲーネフは通常ツルゲーネフと表記しますが、翻訳者の沼野恭子さんが、トゥルゲーネフを推奨していますので、それに従いました。 トゥルゲーネフの小説は『猟人日記』を読んだことが

エミール・ゾラ(著)『ナナ』を読む。

この小説の主人公、ナナの母親の物語である『居酒屋』を読んだ後、その迫力に圧倒されて、直後にその続編である『ナナ』を手に取ることができず何週間か過ぎましたが、ようやく読み終わることができました。 それにしても、どうしてみんな「ナナ」が好きなんだろうと、不思議に思います。 小説としての『ナナ』が好きな人もたくさんいます。男女を問わず、読者でナナという女性を好きな人も数多くいます。何よりも、この小説の中に登場してくる人たちはみんなナナが好きなんです。 ナナはお金のためならどん

小川国夫(著)短編集『アポロンの島』を読む。

昨日、Twitterを見ていたら、「どうしたらもっと早く読めるようになりますか? 読みたい本がたくさんあるのです」という質問がありました。小川国夫や永井龍男の作品は、とても速読なんてできません。それどころか二度、三度と読み返さなければ、その良さがわからないのです。 小川国夫の短編集『アポロンの島』を読みました。 文章が細切れで、読み方によってはつたない文章のような感じを受けます。しかし、短い文章と文章の間にある空間やリズムには独特なものがあり、好む人にとっては、心地よいも

太宰治(著)『パンドラの匣』を読む。

人間とは不思議なもので、底抜けに明るいと、その後の沈黙は胸が痛くなるくらいに辛くなる。なぜそうなるのだろう。まったく暗いところのないものなどこの世になく、きっとこれは空虚なものであると思い、無意識に自分のこととして捉え、人生の虚しさまで感じてしまうからなのだろうか。 太宰治のコメディ『パンドラの匣』を読む。宴の後の悲しさは、太宰はこの小説を泣きながら書いたのではないかと思ってしまうほど、私の胸を打つ。 「太宰治って、そんなに卑劣な男だったんですね」事務所で太宰治の話題にな

太宰治(著)『正義と微笑』を読む。

今日の昼のことでした。会社の事務所で、先代の社長の奥さんが、「今朝、チャンネルを変えたら、途中で教育テレビが映って、めずらしく太宰治をやっていたわ」と話しかけました。途中で映ってというところが、日頃は教育テレビなんて見ませんよ、って強調したいんだろうけど、意外と熱心に見ているかもと思えるような、ぎごちない言い方でした。「そうですか、今年は太宰治の没後七十周年ですからね」と私が言うと「へえー、そうなの、私の弟が暗い小説が好きでねー。よく太宰を読んでいたのよ」 この「暗い小説の

永井龍男短編集『青梅雨』を読む。

永井龍男の短編の読後感を書くのはとても難しい。きっと私の読み方が悪いのだろうが、一読しただけではその良さがわからない。 二度読んだときに、この言葉や文章ががなぜそこに配置されているのかがぼんやり分かる。三度読んだときに、なぜその言葉を使わなければならなかったのかを、なんとなく理解する。 永井龍男は俳人でもある。十七文字の俳句のあとさきに、言葉を加えて小説にした感じと言えば、お分かりになるだろうか。小さな俳句をいくつも結びつけて、大きな俳句にしたと言えば感じがわかるだろうか