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石川悌二著『近代作家の基礎的研究』(9)―谷崎潤一郎の生い立ち(その2) 幼稚園、塾、小学校と恩師

この本の中には『幼少時代』に登場する二人の恩師についてはもちろん、小岸幼稚園や塾についての資料も掲載されています。それらについて少し触れて、長くつづいたこの本の紹介を終わりたいと思います。


小岸幼稚園

小岸幼稚園は京橋区霊岸島浜町十八番地の私立小岸小学校の府属幼稚園でした。明治22年の幼稚園科設置願によれば、名称は「小岸小学校附属幼稚室」とす、とあり、保育科は幼稚一名に付一か月金四十銭で、科目としては、「球の遊ビ、三ツノ体チ、木ノ積立、板排ヘ、箸排ヘ、鐶排ヘ、描キ方、紙刺シ、縫取リ、紙剪リ、紙織リ、鎖繋キ、組板、紙摺、豆細工、土細工、数ヘ方、読ミ方、書キ方、唱歌、説話、遊嬉体操」の合計23科があげられているとのことです。

『幼少時代』にはその場所が伯母が嫁いでいた真鶴館の位置とともに詳しく書かれていますね。祖父久右衛門の父の酒屋のあったところや偕楽園、渋沢倉庫群とも近いところです。さらに調べてみたら、谷崎活版所支店の隣の元松平遠江守の屋敷のところも渋沢倉庫でした。

スクリーンショット (678)
渋沢倉庫株式会社三〇年小史より
この他、月島にも倉庫がある

谷崎活版所支店については、谷崎潤一郎研究のつぶやきWeb その7(2016年10月8日)谷崎活版所支店(谷崎久右衛門支店)と深川芭蕉庵跡をご覧ください。

野川先生

小学校では、最初は後に谷崎に大きな影響を与える稲葉先生に当たりましたが、入学の第一日目から「毎日々々先生を手古摺らしてばかりゐた」ために落第させられてしまいました。
二年目、再び一年級からやりな直すことになり、野川先生が担任になりました。これにより、生涯の友、笹沼源之助氏と出会うことになります。

この本には野川先生の履歴書か掲載されています。この先生、なんと岡山出身で旧姓は渡辺でした。岡山の渡辺姓といえば、松子夫人の妹が嫁いだ渡辺明氏。岡山時代の住所を見ると児島郡で備前国なので、津山藩とは関係ないかもしれませんが、名前から漢学との関連が窺われます。漢文との関連については『幼少時代』にも触れられていますね。

秋香学舎


高等科になってからは、丁稚に行かされるのではないかと怖れてより学問への執着を昂まらせて楽ではない家計のなかで無理をいって漢学の塾や英学の塾に通ったりしました。
先に通った漢学塾が「秋香学舎」でした。住所は日本橋区亀嶋町一丁目四拾番地となっています。

明治十年代のはじめに貫輪吉五郎なる者が開いた書道の私塾で、貫輪のほかに教師一名がいたが、明治十八年三月十三日夜に坂本町の銭湯から出火し、茅場町一、二丁目、亀島町一、二丁目に延焼千三百余戸を焼いた大火事のとき秋香学舎も焼け、まもなく再開した後は建物も小さくなり、傭教師も去って、塾主が漢文の素読程度を教えたようだ。

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』

とのことで、「私立学校開設開申」という東京府宛の文書が掲載されています。『幼少時代』の次の記述から、やはりこれまでこの本を読んでいくうちに見えてきた渋沢栄一との関連の濃厚な地域にあったことがわかります。
そもそも笹沼源之助氏の父が経営していた偕楽園も渋沢栄一らから経営を任されていたものであり、偕楽園はその集まりの定番の場所でした。

家は亀嶋町一丁目の四十一二番地辺にあつて、私の家から與力の脇田の家へ行く途中にあつた。たしか私より先に、脇田の倅が通つてゐたので、私も彼に勧められて通ひ始めたのであつたが、後には私の方が脇田よりも熱心に稽古を受けた。

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』内で谷崎潤一郎著『幼少時代』から引用

サンマー塾


高等科の三年生の時にはサンマー塾に通いましたが、

この塾の創始は明治十年代にさかのぼり、いわゆる治外法権の地域内のものとして開学届なども東京府へ提出されなかったが、明治三十二年には、条約改正によって居留地の特権が撤廃されて、その私立学校や塾も東京府の許可を受けることになり、はじめてその届書が次のように届出られた。

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』

と、私立学校設立認可申請が掲載されています。
目的として、次のように書かれています。

一目的 主トシテ実用的英語ヲ教授スルニアリ、但シ生徒ノ望二応ジ佛語、西洋音楽及ビ同唱歌等ヲ教授スル事アルベシ

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』

後の『痴人の愛』への影響が覗われます。
宛先は「東京府知事 男爵千家尊福殿」。戸籍毀損事件の時の宛先にも登場する名前です。

稲葉先生

高等科での担任は再び稲葉先生になり、谷崎は大きな影響を受けます。高等科での塾通いも、稲葉先生の影響を大きく受けていたものと考えます。
ここでまた『幼少時代』からの引用が入ります。

稲葉清吉先生は、私が明治廿五年、阪本小学校の尋常一年に九月の二学期から入学した時の担任の先生であるが、翌年の四月、先生は私を落第させて置いて他の学級に轉じたので、私はそれから尋常科を卒業するまで、四年間野川先生の教を受けた。然るに稲葉先生とはさえなる宿命があつたものと見えて、明治三十年の四月、私が高等一年に這入ると、先生は私たちの級に戻つて来、それらの四年間を受け持つてくれた。

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』内で谷崎潤一郎著『幼少時代』から引用

やはり意図的なものを感じますが、ここに、一つ疑問符がついています。東京府の公文書の記録では、明治三十一年の五月に次の上申が阪本小学校に出されているとして、文書が引用されています。

 庶席一〇〇〇号
  小学校教員勤務替之義上申
   私立阪本尋常高等小学校訓導
    高等本科正教員勤務
尋常本科正教員勤務 波佐谷みち
同上        大塚徳太郎
     尋常本科正教員勤務
高等本科正教員勤務 稲葉 清吉
同上        河野荘之丞
同上        伊庭 つね
右者自今頭書ノ通リ勤務ヲ命ゼラレ
候様致度此段上申候也
 明治三十一年五月四日

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』

この一年の違いについて、著者はこれをどう解明すべきかはいまのところ確信がなく、なお今後の課題としておきたいと書かれています。
上記の教員には伊庭つねという方もいらっしゃいますね。とても気になります。
ここで、伊庭氏についてWikipediaのページを貼っておきます。

谷崎は稲葉先生についてお茶の師範学校を出たばかりの先生だと書いていますが、それは誤りで、青山師範の前身の学校であることも記されています。さらに、稲葉先生の戸籍も掲載されています。

平民になっているので樋口一葉のところで登場した稲葉氏との関係は不明ですが、その住所、結婚相手からしても関連があるのではないかと推測します。結婚相手の父の名前も非常に興味深いものがあります。

 芝区三田豊岡町二番地
東京市芝区田町四丁目九番地
平民
前戸主 稲葉三五郎
明治弐拾年参月弐拾年参月拾四日本籍地変更届同日受附
戸主 父三五郎 長男
    稲葉 清吉
    明治参拾年参月拾七日生
明治参拾五年弐月死亡届出同日受附
亡祖父金右衛門 弐男
父     三五郎
明治参拾四年拾壱月拾参日芝区白金志田町
六拾六番地士族平野行則三女婚姻届出同日受附入籍
(父平野則行母きく参女)
空欄
  妻    ちよ
  明治拾五年壱月拾八日生
明治参拾七年壱月拾六日出生届同日受附以下余白
空欄
長男      剛
 明治参拾年壱月弐日生

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』

稲葉先生はその後新しく変わった校長と折り合いが悪くなって学校を追われ(追われるまでの転出先を探す猶予期間のことも書かれていますが、見つけられず)、何と谷崎の親友大貫晶川の住む神奈川県橘樹郡の小学校の教師になりました。小学校は旭村で晶川の家が二子村なので、晶川のところに行った帰りに旭村へ向かった話が『幼少時代』に書かれています。

この本について読んできて、ここに取り上げられている作家たちを結びつける共通点のようなものが見えてきました。幕末明治の動乱の影響の濃い中で、大きな影響を受けた人たちを父母に持つ世代。後に谷崎作品に影響を及ぼす人脈の中で谷崎が一番若い世代になるのも必然なのかもしれません。


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