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私と自由ソフトウェア 〜新・自由ソフトウェア運動の序章〜

※以下の文章は私が2024年10月4日にMatodon.worldに投稿したものです。一部加筆・修正を加えています。今となっては人に見せるのが恥ずかしいのですが、これを公開しないことには私の立場を共有できず、それが成せなければ、まともにコミュニケーションが取れないと思えてならないのです。Mastodon.worldの方ではフォロワーのみの警告文つきで投稿しました。ちなみに私のフォロワーはなんと0人です()

 私と自由ソフトウェアについて、何があったのか。それをまず書こうかと思います。
 初めて政治に目覚めたのは、小6の頃だったと思います。人より真面目に生きてきた私が最初になったのは、やはりリベラル左翼でした。真面目に教育を受けていたらリベラル左翼になりますよね。当時の担任に影響されたんだと思います。真面目な人間は教師の話を何も疑わずに受け入れるのか、完全にその教師の思想に染まりました。特別変わった思想と云うわけではなく、普通のリベラル左翼です。自民党は戦争がしたいから憲法9条を無くしたくて、安倍晋三さえ消えれば平和になると思っていました。
 中1だか中2のとき、私は初めての転向を経験します。両親がスマホを与えてくれて、私はネットの世界に飛び込みました。そしてお察しの通りです。真面目な優等生だった左千夫君は、毎日授業中に居眠りをしている不真面目な問題児となり、同時にネトウヨへと変貌したのです。毎日居眠りをしていたと云うのは、比喩でもなんでもなくて、事実です。たまたまScratchでのプログラミングに目覚め、夜中にパソコンを使う習慣ができてしまったがためです。
 そんな習慣を続けていれば当然成績も大きく落ちてしまうのです。当たり前ですね。Scratchでは、OSプロジェクト(実際のOSをScratch上で再現し、ゲーム、電卓、音楽プレイヤーなど様々なプログラムを実行できるもの。明確な定義はない)の制作にハマりました。それ以前に機械やコンピュータには興味があって、いつかはそれらを自由自在に操れるようになりたい、そのために仕組みを知りたい、そんなようなことを考えていました。云わば「OSもどき」を作ることに夢中になったのは、そんなようなところから来ているのかもしれません。「OSもどき」を作っていると、実際のOSにも興味が湧いてきます。「OSもどき」を作る参考にしたかったんだと思います。これが、GNU/Linux、もとい自由ソフトウェア運動との出会いへとつながっていきます。いろんなOSを仮想マシンにぶち込んで遊びました。はじめはXubuntu、Lubuntuなどから始まって、Haiku、ReactOS、FreeDOS、OPENSTEP、FreeBSDなど本当に沢山のOSに触れました。
 そんな中、「オープンソース」なる単語が何度も出てきて初めはオープンソースに興味を持ちました。オープンソースと云うのは、ソフトウェアの配布形態の一つで、「とりあえずソースコードを共有すれば、人が集まってみんなが問題を解決してくれるだろう。より優れたものができるだろう。」みたいな思想です。初めは自由ソフトウェアとオープンソースの違いなんて当然わかっていませんでした。GIGAZINEや(現在は仮死状態の)スラドでこういった界隈のニュースを読んでいる内に、この人たちの思想を真面目に勉強しようと思いました。それで、オープンソースとの似ているのになんか違うらしい、自由ソフトウェアについて調べ始めます。調べると云っても、GNU Project(自由ソフトウェアだけで構成されたUNIX互換OSの完成を目指すFSFのプロジェクト)の記事を片っ端から読み漁っていただけなんですけどね。それだけでも膨大な量なので、とても時間がかかりました。気がつけば、私は完全に自由ソフトウェアに傾倒していました。
 今思い返せば、監視社会化に対して「都合の悪いやつが騒いでいるだけ」と一蹴してしまうネトウヨと、自由ソフトウェアは両立し得ないものだったのかもしれませんが、当時はあまり気にしていません。と云うのも、自由ソフトウェアに傾倒し始めてから右翼思想なんてのはもうあまり重要ではなくて、「もし選挙権が与えられたら右翼の政治家に投票しよう」くらいにしか考えてなかったと思います。もちろん、「パヨクがムカつく」みたいなことを考えていましたが、それよりも自由ソフトウェアについて考える方が、重要に思えたのです。きっと、私は根っからの左翼なんです。排外主義にはあまりついていけない節がありました。それでもネトウヨでいたのは、リベラル派への反発からだと思います。当時の私の頭の中では、左はリベラル派、右はネトウヨと云う構図しかありませんでしたから、リベラル派に反発したければネトウヨになるしかないのです。ではなぜ、リベラル派をそんなにも嫌っていたのか。それは安保闘争が原因です。今考えれば、憲法9条があっても日本が存在していたのは日米安保のおかげで、憲法9条の改正は日米安保の否定になりうる ーなんて考え方(普通は日米安保のために9条を改正するって考えますよね。もしくは、対米自立か... 対米自立ってんなら憲法改正は日米安保の否定ですね)ができるようになりましたが(笑)、そんな余裕はありませんでした。俺は小6のときの担任に騙されていた、安保のおかげで平和な日本があるのに、9条を改正しなかったら、一応今は解釈変更でどうにかなってるけど、日米関係もとい日米安保も危うくなるのではないだろうか。日米安保なしに平和はないじゃないか、ってね。怒り心頭でしたよ。リベラル派への反発は、同時に小6の頃の担任への復讐でもありました。無理やり自分を騙して、ネトウヨであり続けた。今考えるとそういうことだと思います。ちなみにリベラル派に対抗しているのはネトウヨだけではありませんから、他の派閥に転向したこともあります。初めは某ナントカ特権をナントカしない会・ナントカ第一党を支持していましたが、某ナントカから国民を守る党に転向しました。これは「転向」と云う表現で正しいのかわかりませんが。
 今ではもう、ボロボロになってしまった某党ですが、私が思うにその原因となった「ナントカ党構想」と云うものがあります。いろんな小さな党派が集まって、とりあえずNナントカ問題についてはみんなで取り組む。頑張って法律上の政治団体から政党になって、政党交付金を手に入れて活動の資金源にしよう。みたいな。ちゃんとそれを説明した読んではいないけどね。こんなところでしょう。それでもちろん、右翼もその構想に入っています。当時は名前が違ったと思いますが、篤ナントカ会のあの人を支持していました。まぁ、それ以前よりは穏健になったと思います。ただ、この辺りで私は迷走していきます。結局私は何がしたいのか、わからなくなってしまいました。よくありがちな「日本人なら日本に対して愛国心を持て」みたいな言葉で、元々自分に合わないのに、理屈(?)で愛国者を気取っていましたし、それで楽なときもありました。生きる目的・意味がはっきりしていますからね。日本人として、日本を汚す在日を追っ払うと云う使命感を持つだけでいいんだから。理屈なんていらない。
 でも、それは長続きしない。だって俺、愛国者じゃないんだもん。愛国心なんて持ったことがない。今ここでそう告白します。逆に、日本人としての責任感も持ったことがない。多分、私は日本人としての自覚がないんだと思います。普通、リベラル左翼であれば日本の過去の戦争についてとても責任感を持っているものですよね。勿論、私だって責任があるとは思っていました。でも、それはネトウヨ時代の愛国心と同じでした。責任を持つのが当たり前なのだから、持たなくてはならないと。自分みたいのが大勢いるから、ダメなんだと。自分自身に言い聞かせていました。ここで、私は迷走してしまったのです。リベラル左翼は合わないし、ネトウヨも合わない。私は現代ではこの2択しかないと思っていましたから、絶望でした。その時私に残されていたのは、なんか知らないけど気がついたらそれに傾倒していた、性に合うのであろう自由ソフトウェアのみです。さてと、やっと私と自由ソフトウェアについて本題に入れそうになりました。その前にもう少し語ることがあります... (タイピングする指が疲れてきた...)
 私は今、転向しそうです。正確には転向先の思想が、まだこの社会にないので、新しい思想を模索しています。それは、ここまで散々書いてきた「自由ソフトウェア」に関係するものであるような気がします。未だに完成していませんし、もうここ2年くらい考えこんでいます。とりあえず「新自由ソフトウェア運動」なんて呼んでいたりいなかったり。私にとって大きな転換期が、高1の夏休みくらいにやってきます。それは、あの伝説の政見放送がYouTubeのおすすめに流れたことです。そう、「外山恒一」です。彼の政見放送を初めて見たとき、何のことを云っているのかわかりませんでした。彼の云う、多数派とは?少数派とは?一体なんなのか。全くわからないけど、エンタメとして楽しめた。何度も何度も動画を見返して、コメント欄を見返したけど、答えは出ない。最終的には、我々団のウェブサイトに辿り着きました。そして何ヶ月かかけてその思想を一応7割くらいは理解した、、、つもりでいます。と、云うのも私には知識が足りません。恥ずかしいことです。68年、70年、80年、それぞれの学生運動なんてそのとき初めて知った。
 これも恥ずかしい話、当時の学生運動は全部今の共産党みたいなちょっと危なそうなリベラル左翼が頑張って暴れただけだと思っていた。開き直れば、、その、、、ネトウヨだったんだから仕方がないじゃない()。暴力反対を訴えながら暴力を振るう、頭のおかしな人達がなぜか半世紀くらい前になぜか大勢いたーくらいの認識でした。ネトウヨの学生運動に対する認識なんてそんなもんでしょう?68,70,80で全く異なるなんて知らなくて当然です。で、我々団のファシズムは、マルクスによって予言されている、新しい共同体に抵抗する思想で、新しい共同体はニーチェ的に云えば群衆本能によって集まったもので、平等主義は実現するものの、自由主義は滅びる。ファシストは自由主義者としてこれに抵抗する必要があって、古き良き伝統的な共同体の復活を目指す。人民は伝統的な共同体によって伝えられる「歴史」によって、自分自身をその空間の一部に位置づけることができる。人民は伝統的な共同体にアイデンティファイし、ファシストはファシスト党にアイデンティファイする。ハイデガーの「本来性の回復」が達成される。
 こんなところでしょうか。私はこの「自由」と云う言葉に惹かれました。私が求めているのは自由なんだと、確信しました。ここで、自由とは何か(我々団の『我が転向』によれば「権力」ですが...)考える必要ができたのです。自由ソフトウェアに対して、疑念を抱き始めたのはこの頃です。自由ソフトウェア運動は、この世のすべてのソフトウェアを「自由にする」ことをゴールにしています。この「自由」とは、自由ソフトウェアの4つの自由のことですが、私にはある疑問が生じます。みんながみんなこの4つの自由を求めている訳ではないのではないだろうか。むしろソフトウェアに自由を求めているのは少数派で、多数派は自由以外の、見た目やセキュリティーのことを求めているのではないだろうか、と。その時です。私が、自由ソフトウェア支持者でもオープンソース支持者でもない、「得体の知れない何か」になったのは。さっきはこれを「転向しそう」と云いました。私の中で、自由ソフトウェアと大衆蔑視が融合しました。なんだかもう、根本的に変わってしまった気がします。
 この後も、様々な考えが浮かびます。「自由ソフトウェアは自由って主張するけど、ライセンスに互換性がないと自由じゃないこともある」とか、「自由ソフトウェアを擁護しているのは著作権法で、著作権法で著作権を持っている人が許諾している範囲内であればなんでもできると定められているからだ。著作権法なしに自由ソフトウェアは存在し得ないのだろうか?そもそも、著作権法さえなければこの世のソフトウェアは全部自由なのではないだろうか」とか、「なんでソースコードは自由でないとだめなのに、バイナリは公開しなくてもいいのか。バイナリだって自由に使いたいよ。」とか「自由ソフトウェアは権利として主張され、運動が展開されるけれど、権利として得られる自由は完全なものなのか?権利と云うのは、国家権力に全てのものを制限された上で、その中から一部認められると云うものだ。完全に自由になるためには国家の廃止、もとい著作権法の廃止が必要なのではないだろうか。でも、著作権法を廃止したところでソースコードが自由な配布形態で公開されるようにならないといじくり回せないから自由がない。バイナリイジれとか無理。」とか。
 共有についても考える必要がでてきました。そもそも共有とはなにか、所有とはなにか(プルードンに云わせれば「盗み」?)、私有財産とはなにか、、、一番重要なのは、共有の条件です。共有物にするためには何が必要なのか。そもそもなんで共有物にしたいのか。もう、わからないことだらけです。「なぜ自由ソフトウェアはソースコードもといテキストファイルの共有について語るのに、バイナリファイルの共有についてあまり語らないのか。両者の違いは一体なんなのか。」とか、「共有物はみんなのものってイメージだけど、共有物には所有者がいない。共有物は誰のものでもない。だったら、共有とは私有財産の否定なのだろうか」とか最近は考えています。
 まだまだ私の頭にはいくつもの自由ソフトウェアに関連する答えの出ていない問があります。これらの問の答えを見つけ、理論を組み立てることで、「新自由ソフトウェア運動」を作ることができると確信しています。今までの私は完全に「リチャード・M・ストールマン主義者」であったが、もう違う。ストールマンの創り上げたこの運動を破壊して、乗っ取るのが夢です。なるべく彼の生きている間に理論だけでも完成させたい。そして、彼が死んだとき、誰に付いていけばいいのかわからなくなる自由ソフトウェアの支持者達を、私のところへ引き寄せるんだ。ソ連崩壊と共に新左翼運動が栄えたように、私も同じことをするんだ。

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