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「余裕を持とう」と思った時にはすでに余裕は無く(南九州新聞20220219掲載)

支援活動だけの話ではないと思うのですが、人の話を聴くには、そして、自分の価値を脇に置いて、ジャッジせず、その人のあるがままを受け入れるには(「傾聴」においてはこのような聴き方をします)、聴く側に心理的な余裕が無ければならない、と言われている。

今日食べるものに困っている人が、同じく飢えている人に食べ物をわけることができるかというと、もちろん、世の中には(あるいは伝説上は)いるのかもしれないけれども、俗人である私にはそのようなことはできそうにない。

だからこそ、私たち支援者や、人の話を聴くことを生業とするものは、常に自身の状態を鑑み(チェックをして)、今の自分に余裕があるかどうか、心に隙間があるかどうかを、見ている必要がある。

自分のことに精一杯の時に、誰かを支えようとしても、共倒れになってしまいかねず、かえって相手にも迷惑をかけることになりかねない。

どうすれば、余裕を持つことができるのだろう。

基本的には、自分の生活を充実させるしかないのだろう。「充実」という言葉では「みっちり埋まっている」感じがしてしまうのでかえって良くないかもしれない。緊張した時間と、弛緩した時間を持ち、何とかしなきゃという使命感にも似たものと、何とかなるだろうという鷹揚感。

「余裕を持つために、朝一杯のコーヒーを飲むようにしよう」と心がけてしまったら、それはもう余裕の為せる業ではなく、すでに強制というか、「やらなければ」といった呪縛になってしまう。

(ラグビー日本代表のように)「ルーティン」をおこなうことでパフォーマンスが向上するのであれば、もう少しその文化は定着したはずだ。現在のところそうなっていないのは、「いい塩梅」を生み出すためには、「なにかをやらなきゃ」あるいは「なにかをやりすればいい」というものではないからなのだろう。

どこかに緊張と弛緩のいいバランスがあって、それは日によっても違い、今日は良いかなと思えばやっぱりだめだったり、不完全な自分をも許しつつ、より良い明日の自分に期待し続けて生きていくのだろうと思う。

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谷川勝彦(たにかつ)
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