金子みすゞの詩『天人』について
予備知識のない人が読んだら、「みすゞは幼い時に母親を亡くしているのかな」と思うだろう。
この詩もそうだ。
金子みすゞは、26年の短い生涯の中で512編あまり(遺稿手帳の512編にはない詩も発見されている)の詩を書いた。
そのうち、上記の2編で、母を亡き者にしている。
みすゞの人物像として【優しい人】という偶像が独り歩きしているが、優しい人が、詩の中で母を殺すだろうか?ここに至るまでには、複雑な生い立ちがあったのだ。
遺稿
みすゞは、命を絶つ半年ほど前、昭和4年の夏から秋にかけて、3冊の手帳に作品を清書。
その遺稿集を2組作り、1組は師と仰ぐ西條八十に、もう1組は弟の正祐に送ったとされている。
が、遺稿集は、カルモチンを飲んだ枕元にあったという説もあるのだ。
ただ、どこで見たのかが記憶にない💦
どなたか、ご存知の方があればお知らせを乞う。
みすゞが遺稿集を弟に送っていたにせよ、枕元に置いていたにせよ、母・ミチが読んだのは確かだ。
長周新聞に、主幹だった福田正義氏が書いている。
ミチから「娘(みすゞ)の汚名を雪ぐため、本当の事を書いてくれ」と、遺稿集と遺書、そして筆を折ったみすゞが娘の言葉を記録した手帳を託されたと。
みすゞ(本名テル)の自死を報じた防長新聞は、「本屋の同居人てるが、内縁だった店員に捨てられたから」という酷い記事だった。
福田氏は、金子みすゞの人生と作品について、昭和12年、『話の関門』という雑誌に、2~3回に分けて連載。しかし、太平洋戦争で焼失してしまったという。
福田氏は、金子みすゞを最初に世に出したのは、権威とされている矢崎節夫氏ではなく自分であるとおっしゃっている。
いずれにせよ、ミチは遺稿集を手にしていた。
『天人』『忘れた唄』を読んだということだ。
自殺した娘が、こういう詩を書いていた…どんな気持ちだったのだろうか。
『天人』の詩の舞台
下関の金子みすゞ研究家・木原豊美さんによると、詩の天人が欄間にいるのは下関の光明寺だそうだ。
木原さんは、みすゞの生れ故郷・山口県長門市仙崎のお寺には【笛を吹いてる天人】はいなかったとおっしゃっている(みすゞは大正12年、下関に移り住んだ)。
きっとそうなのだと私も思っている。
が、これまたどこで見たか、誰から聞いたか、『天人』の詩の舞台は仙崎のお寺という話が記憶に残っている。
これにつてもご存知の方があれば、お知らせを乞う。
『天人』の詩の舞台についての追記
★仙崎の生き字引・坂本和磨さんが、みすゞの菩提寺である遍照寺のご住職に聞いて下さいましたが、昭和37年に焼失する前のことは分からないとのことでした。
★遍照寺と同じ浄土真宗で、みすゞが日曜学校や報恩講に通った浄岸寺のご住職によると、「遍照寺のご住職は広島からこられたので昔のことは分からないと思います。うちの父なら分かることもあるかと思う」と以前言って下さっていたので、お父様に聞いていただきました。が、やはり分からないとのことでした。
私は、みすゞの詩を声に出して読み合う【みすゞ塾】を、上記の他にオンラインを含め、3クラス持っている。
1月15日は、川越の蓮馨寺でやっているリアルクラスの初講義だった。
「琵琶を抱えてる天人とかもいるのに、なんで笛だったんですかね?」と塾生から質問を受けた。
何ででしょうね、あの世でみすゞにインタビューしなければ分かりませんがw 、笛って【息】ですよね。
息は自分の心と書きます。心と密接に繋がっていて、たぶん【声】に近い。
みすゞは、何人もいる中から迷わず【笛を吹いてる】天人をチョイスしたと谷は観ている。
みすゞにはきっと、その音色まで聴こえていたのではと。
切ない調べが聴こえてくるようだ。