今のしつけの落とし穴
私は子供が欲しくて、子供を産んだ。
子育てが楽しみだった。
出産前に心に誓っていたのは、私の親から受けたしつけのなかで、子供が自分の主張をすると「誰のおかげで飯が食えてると思っているんだ!」という言葉の一点張りで言い返されたり「親の言うことが聞けないのか!」と言われたりした経験から、子供の意見や子供の人権を無視するような強制命令をするしつけはしたくないと思っていた。
妊娠中から育児雑誌や本は熱心に読んだ。これから産まれてくる子供の事を思うとサクサク読めた。そこには沢山の「まずは子供の立場に立って、しつけをする育児」の内容が多く、まるで私の育児論を肯定してくれているようで、読むのも楽しかった。
出産後、子供が2歳の時、育児に変化が起きた。子供のいやいや期が訪れたのだ。
嵐のように泣き叫び床にひれ伏し自己主張をして泣く我が子を、それでも私は、怒らず優しく共感の言葉でなだめた。
その頃から「私の心をなだめてくれる人はどこにいるの?」
と思うようになった。
長男が3歳の時、二人目を出産した。その頃、義理の母親から
「怒らない!しつけをちゃんとしていない!」
と言われた。しつけをしていないつもりはなかった。私は、自分がされて嫌だった育児をしたくなかったし、子供の気持ちに寄り添える親に成りたかった。信頼していた義理母親にしつけについて批判された事はとても大きなショックだった。世代育児のギャップから頼れる人を失った気がした。
母親である私の精神状態が安定しなくては子供に良くないと思い、アンガーマネージメント講座を受けたり「心理カウンセリング」も受けた。
「幸せな家庭」を子供に与えてあげたくて、夫婦で何度も深夜話し合い、考え方の擦り合わせをした。
私の「そこまでやる?」と思える程、徹底的に自分変革をしていった育児は、自身でもあまり周りに言うことが恥ずかしくなる程。
正直、0歳と3歳の2人の息子を平日はワンオペ育児で育てることは余裕が全く無く、とても辛かった。楽しい、可愛い、なんて言えなかった。
今、4歳と7歳になり、余裕ができたので勉強をしていて、その中で「現代の家庭教育」という講義を受けた。そして、私はびっくりしたのだ。
私の苦脳全てがそこに書かれていたのだ。
それと同時に「私の苦悩は誰でも持つ当たり前のことなんだ」と、心がすごく救われた、肯定されたような感覚になれた。
子供を育てる事を担った私は「当たり前の理想を掲げ」「当たり前の事で苦しみ」「当たり前の努力」をしてきたのだ。
そう、それは
育児とはまさに、「感情労働」である。
しかし、今の育児書の多くは、親のネガティブだとする感情をコントロールすることを求めている。
そして、この、感情労働は時間的なコストをしつけの担い手に必要とされるのだ。子供に丁寧に向き合い子供の心の声に耳を傾けるには一定程度の時間と心の余裕が必要なのだ。
しかし、この親自身の感情を扱うことの苦労があまりにも軽視されている世の中な気がする。
核家族が増え、共働き世代が増え、育児に対する不安や孤独が増し、高齢化になり肩身の狭い思いをする。
育児が辛くなるのは、当たり前だ。
それをまず、親は自覚し、自分に出来ることをすれば良いのだ。
子供がわんわん泣いているとき、慰め方が分からなかったら、「私だって辛い!」と子供と一緒に泣いていい。
家が片付かず家事をこなせない事を気に病むことはない。
「また怒り過ぎちゃった」と自身を責めすぎる必要もない。
自分自身には、今日頑張れたことをまず褒めてあげ、そっと頭を撫でてあげてほしい。
「こんな世の中でも、私は良く頑張ってやってるよ。」と自分に言ってあげてほしいと思う。