工事現場で瞑想をした話
こんにちは。 五十嵐純子です。
瞑想をはじめたばかりのころ、私は周囲の人や物音が気になって仕方ありませんでした。
普段のときも、私には少しそーいうところがあって、
電車の中で小さな音をカチカチさせてる人なんか居れば、すごく気になるし、他のことはどーでもいいのに、何か特定なことに対して過敏になるって・・・
人によって その対象は様々で、ひょっとしたらある程度はそんなもんなのではないかと思うのですけど、どうでしょう。。
それで、瞑想の時、グループ瞑想だと 誰かがガサゴソ動いていたり、
寝てたり(笑) ギリギリ歯軋りしていたり、 結構いろいろだったりすることあるものなので、
そーいうのを最初の頃はいちいち気にしていました。
でも、それって 何らかの音 に対して 思考 が反応しているので
あぁ ちゃんと瞑想できていないんだな なんて思って落ち込んでみたり
そんなふうに自分の瞑想をジャッジしがちだったんですね。
ジャッジするというのは 良い瞑想 悪い瞑想 を自分の中で仕分けするということです。
先生から 瞑想に良いも悪いもない と散々教わっていても いわゆる腹に落ちる って状態ではなかったからですよね。
それでも瞑想を日々の習慣として続けていくうちに、今ではまったく外の出来事に意識がいくことはなくなったのですが
それが一体いつからなのか
そのための何か秘策があったのか はっきりはわかりませんが、
強いて1つのきっかけだったかもしれない というのをあげるとしたら
あの暑い夏の日のあれだな って感じでして。
工事現場の騒音と瞑想
あるとき、グループ瞑想での会場の隣のビルが解体工事中でした。
先生は
「すごい音だねー。工事の人がお昼休みに行って 音がしなくなってからにしようかと思ったけど・・・別にいいよね、やろ」
って言って、いつも通りに普通に始まったんですよね。
瞑想の前って、集まった人たちで 「今感じていること」を一人ずつ話して
シェアするんですけど、もう全然聞こえないんです。
ダダダダダダダダ
ガガガガガガガガガガ
たぶん先生もあんまり聞こえてないんですけど(笑)
どう見てもあんまり気にしてないみたいで、全員そのまま聞こえてないのに
一人一人の話に うなずいてて ← たぶんテキトーに(笑)
それから いつも通りに 先生が誘導に入るんですけど
その誘導も
ダダダダダダダダ
ガガガガガガガガガガ
全部これに打ち消されたままで なんだか いつ入るんだかわからないまま
それぞれで瞑想が始まったという感じでした(笑)
私がしている瞑想は 誘導が あっさりしているので
そんなに長く色々先生の声を聞く必要もないので、それでいいんですけど
それにしてもですね
ダダダダダダダダ
ガガガガガガガガガガ
これが強烈なんですよね。なんなら座っているお尻がビリビリしてるくらいで。
あ、でも もう気づいていると思いますけど
今日のこれ ちょっとタイトル詐欺ですよね。
本当に工事現場の中で瞑想したかのようなタイトルになってしまいましたけど、実際にはその隣の建物で、
でもしかし、まあ、ほんとに隣も隣なので もう超すごかったのです。
最初のうちは 呆れていました。 どうして先生はこんな日にグループ瞑想をするんだろう とか 集まった人に悪いな とか思わないのかしら?とか
先生を非難する意識、苛立ち、そんな思考が私の中にありました。
意識の外側で ただ起きていること
ところが、自分でも驚いたことに 気にならなくなってきたのです。
瞑想に入って 割とすぐに 結構すぐに 気にならなくなってきたのですよね。
当然 音は聞こえているし
依然 ガガガガガガ は続いてて
お尻はビリビリしているんですけど
なんなら 自分の内側にあるのは 結局のところ感謝だけなんだ ということに
満たされていくような感覚が広がっていくのをただ感じていました。
工事の人が汗をかいて働く姿や
そんな姿がビジョンとなっていたこともあるかもしれない。
ともかく 台風の目 ってこういうことなのだな という感じです。
外側の世界では 目まぐるしく物事が動いていて
常に騒音にあり
でも、本当の自分がいる この内側の世界はこんなにも満たされていて
穏やかで平和で幸福である ということ。
台風の目の中から空を見上げれば、時に青空さえ見えると聞きます。
この工事現場の ガガガガガガ という外側の世界に対し、自分のいるところは、見上げるのではなく、見下ろす感じです。
ぽっかり空いた場所に立つ 愛のわたしを見下ろして、外側で起きているガガガガガガの正体もすべて知っているわたし。
ガガガガガガでさえ 愛の姿であること。
おそらく私にとって これが1つのきっかけとなって瞑想体験が変化していったように思います。
たとえば、その体験があって、では次からいつだって ”良い瞑想 " をするかと言ったら そうではなく、日々日々 様々な瞑想がありつつ
それを1つ1つ体験してゆく。 それだけなのだと思っています。
ですが、そんな瞑想からくる1つ1つの体験の積み重ねは
ほんとうの私 であるために、とっても大切な時間であることは間違いないと思うのです。
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