【京丹後の食を作るひと】vol.5 原点は、家族のために作る料理。料理研究家・ハミルトン純子さんが伝えていく食体験
京丹後には、食に対する感度の高い人が多いと感じます。中でも草分け的な存在が、料理研究家のハミルトン純子さん。アイルランドでの暮らしを経て、現在はここ京丹後にキッチンスタジオ兼カフェ「tabel table(タベル テーブル)」を構え、料理教室や、講演会、イベントでの焼き菓子販売などを通じて、さまざまな食の楽しみを提案しています。彼女が活動にこめる思いと、京丹後に感じる魅力について伺いました。
一度食べたら忘れられない。こだわりの「アイリッシュ・ブレックファスト」
取材当日の朝8時、純子さんが営むカフェ「tabel table」の扉を開けると、ベーコンが焼けるいい香り。純子さんがキッチンに立ち、朝食の準備をしてくださっていました。
平飼い卵のスクランブルエッグに、無添加の生ソーセージ。こんがり焼かれたベーコンと、添えられたケチャップ、ヨーグルトにジャム、ソーダブレッドは、全て純子さんの自家製です。
アイルランド人の夫を持ち、現地に暮らしていた経験を生かして作る、本場の味を再現した「アイリッシュ・ブレックファスト」。京丹後の食材を使い、ひとつひとつ丁寧に作られた料理は、ここでしか食べられない味です。
純子さん:
「『ソーダブレッド』は、アイルランドが誇る郷土料理のひとつ。本場さながらの味を出す店は日本でもまだ少なく、興味を持って手にとってくださる方も多いです」
「現地の味」に近づけるため、こだわりぬいたソーダブレッド。例えば粉は、日本全国を探して見つけた、超粗挽きの国産小麦粉を使用しています。加えて、ソーダブレッドの独特の風味と生地感に欠かせないのが「バターミルク」(バターを作る際にできる乳脂肪分の低いミルク)。 日本ではなかなか出回っていませんが、近隣の乳牛農家(「ミルク工房そら」)さんから譲り受け、さらにそれを発酵させることで、できるだけ近い味わいを再現。
どっしりゴツゴツした見た目に反して、中はしっとりした食感。噛むほどにほのかな甘みと生地の旨みが感じられ、素朴なのにあとを引くおいしさです。
朝食を頂いただけで伝わってくる、純子さんの食に対する熱いこだわり。それは一体どんな経緯で形づくられてきたものなのでしょうか。
初めて焼いた卵焼きが原体験。料理に夢中になった子ども時代。
純子さん:
「子どもの頃から料理が好きで、とにかく料理ばかりしていました。
小学1年生で初めて卵焼きを作った時のことを、今でもよく覚えています。母親が作る5倍くらいの時間をかけて作った卵焼きが、とても上手にできて、家族がおいしいと言ってくれて。それが、料理って楽しいと思えた原体験です。
実家が呉服の縫製業をしていて、母が仕事で忙しくて食事の支度ができない時は、小学3年生ぐらいからは家族のご飯を作るようになりました」
その頃、近くのキリスト教系施設で開かれていた小学生向けの料理教室に、母親に勧められて参加するように。知らない料理に出会う楽しさを知り、夢中になって通いました。小学校を卒業し、中学生になるタイミングで、今度はパンとお菓子の教室に、大人に混じって通うようになります。
純子さん:
「レッスン料は年に3万円以上。当時で言えば結構な金額でした。応援してくれた母には本当に感謝しています。
今はケーキ型だって100円ショップでも手に入りますが、当時はひとつ2000円以上。決して気軽に買えるものではなかったはずですから……その時に買ってもらったケーキ型は、今でも大切に持っています」
活動の原点は、家族のために作り続けてきた料理
けれど初めから食の仕事に就いたのかといえば、そうではなかった純子さん。物を教えることに興味があり、大学では教職を専攻し、教員を目指していました。
純子さん:
「料理は好きでしたが、それを仕事にしたいかといえばピンときていませんでした。当時は食の仕事=料理人というイメージが強くて、それはやりたいこととは少し違うかなと。
17歳の時に母が亡くなったので、以来、ずっと私が家族の食事を作っていたのですが、料理をすることがあまりに身近すぎて、仕事とは繋がらなかったのかもしれません」
けれど就職活動のさなか、父が脳梗塞で倒れ、急遽、家業である呉服の縫製業を手伝うことになります。
純子さん:
「右も左もわからない状態でしたが、とにかく家業を存続させなければと。得意先を回り、いちから着物のことを勉強し、必死で働きました。
それから、当時は父の療養食を私が日々作っていて、それも記憶に残っています。お医者さんからカロリーや塩分量を細かに指定されていたので、本を何冊も買い、栄養士さんに指導していただきながら、体に良く、かつ満足感のある食事を作るために試行錯誤をしていましたね」
その後、アイルランド人の夫と出会い結婚。時代の翳りもあり、家業をたたんでからは、専業主婦として2人の子どもを育てていた純子さん。その間も、家族のための食事作りはライフワークのように続けられていました。
純子さん:
「子どもが食物アレルギーを持っていて、特に下の子は、食品添加物に強く反応してしまう体でした。
学校での給食も、周りの子と一緒のものが食べられなくて、それが可哀想だから、私が作ろうと。毎日、給食と同じメニューをアレルギー対応に作り替えて持たせていました」
卵の代替になる食材は何か?食品添加物を入れなくても、満足感のある味付けとは? 家族のごはんを作るため、独学で研究し向き合ってきた経験と、そこから得た知識は、今の活動にも繋がっていると言います。
アイルランドで深まっていった「料理家」としての活動
その後、子どもが高校生になるタイミングで、夫の故郷であるアイルランドへ家族で移住することに。6年間の在住期間に、純子さんは料理教室を始めます。
純子さん:
「きっかけは味噌でした。アイルランドでは、和食が食べたくても調味料がなかなか手に入らず苦労したのですが、特に困ったのが味噌。値段も高く、味もおいしくなくて、当時は満足できるものがなかったんです。
昔から自家製の味噌を仕込んでいたのですが、環境や材料は違うけれど、アイルランドでも作れるかもしれないと。それから発酵について勉強し始め、日本から米麹を調達して、同じアイルランドに住む日本人の友人と一緒に味噌作りをやってみました。
1年後に出来上がった味噌が、それはもう、本当に美味しくて。これはみんなに教えてあげなきゃいけないと思って、味噌教室を始めることにしたんです」
はじめは現地に住む日本人向けに始めた味噌教室。次第に口コミが広まり、現地の料理人も参加するほどに。味噌だけでなく、日本の家庭料理を教えるワークショップを求める声が増え、活動が広がっていきました。
純子さん:
「和食は自分にとって当たり前の料理だったので、教室をやるという発想はありませんでした。でも、やってみるとアイルランド人だけでなく、意外と日本人の生徒さんにも好評で。長年家庭料理を作ってきた自分だから教えられる、ちょっとしたコツやポイントが色々とあることに気づいたんです。
それからは研究が楽しくて、和食作りに利用できる自家製のめんつゆのような合わせ調味料を作るワークショップなど、いろいろな提案をしていきました」
海外での和食ブームにも重なり、現地のメディアでも取り上げられるほど、ちょっとした有名人になった純子さん。けれど子どもの進学と就職のタイミングで、名残惜しくもアイルランドを去ることに。そうしてやってきたのが、ここ京丹後です。
「料理を作ること」の先にある、豊かな体験を伝えたい
純子さん:
「京丹後は父の生家がある町。祖父を早くに亡くし、長年ひとり暮らしをしていた祖母の家に、子どもの頃はほぼ毎月、長い休みのときには長期で遊びに行っていたのですが、その時に見た自然の風景がずっと記憶に残っていたんです。
ずっと京都中心部に住んでいましたが、子どもも大きくなり、これからは夫婦2人で好きなことをやっていこうと。それなら京丹後に暮らしてみたいと、真っ先に頭に浮かびました」
そうして京丹後へ来て、今年で10年。今、純子さんは「tabel table」という拠点を持ち、料理教室を通じてさまざまな食の楽しみを提案しています。
純子さん:
「実際に暮らしてみて、京丹後は本当にいい食材の宝庫、そして、誠意を持ってものを作る作り手さんの多い町だと感じました。その点では日本でも有数なのではないでしょうか。
この頃は若い作り手さんも増えてきて、私自身、これからは次の世代に伝えて行く立場としても、できることを考えていきたいと思っています」
家族の食事を長年作ってきた中で、実感したのが『食は命』ということ。今、純子さんはその言葉を信条として掲げ、活動を続けています。
純子さん:
「長く料理教室を続けていると、自分が伝えた料理が、その生徒さんの娘さんへ、そしてお孫さんへと受け継がれているというお話を聞くことがあります。そんな時、まさに ”食べることは生きること” だなと思うのです。
今やインターネットで、料理の作り方は簡単に調べられる時代です。けれど、ただ料理を作るだけではない、その周りにある『体験』を伝えるために、教室という場が必要なのではないでしょうか」
新しい食材や作り方に出会う驚き、手を動かす楽しさ、そして大切な人に作って、おいしいと言ってもらう喜び。幼い頃の ”卵焼き作りの原体験"を、今は純子さん自身がたくさんの人に向け、ここ京丹後から届けているのかもしれません。
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