リアリティのある就活学生
今年の春先、電車に乗って長いこと揺られて、ゲームやCGを教える専門学校の作品展に出向いた。親友の知り合いの先生が講師をしている学校だそうで、親友の顔を立てる為だ。
一応、先方に失礼のないように移動中にスマホで学校のホームページを確認したが、凄く良さそうなカリキュラムや環境を売りにしており、期待に胸を膨らました。
しかし、学校に到着して1時間程、サクサクと学生の作品を見て回ったが、正直ゲーム作りを職業にするという”リアリティ”を持った学生は少ないように感じた。
明るく陽キャ、ノリノリでゲームの説明をしていたのに、ゲームを遊んだ後に冷静にアドバイスした際、「え、これ、ウケるでしょ、面白いはずなのに」というふうに、思いもよらないリアクションで鳩が豆鉄砲食らったように固まる学生。
君の笑い待ちの状態から、僕の期待ハズレのリアクションで驚かしてしまってスマンと思った。僕がもう少し陽キャなら、空気を読んでヤバいヤバいとはしゃげたのに。
ただ少年よ、君は陽キャで内輪ウケはバッチリ、顔色をうかがうセンサーもしっかりしてるし、上司に気に入られる。そんなに深くゲーム作りを考えずとも楽しく生きていけるから心配するな。もし同じ会社で働くことになったら一緒に飲みに行こう。
しかし、その中でも「自分の好き」を追い求めていた学生も居た。
端っこの方でひっそりとゲーム開発の為のライブラリを作ったり、ロボットの登場演出を延々と作り続ける学生達だ。
彼らはキャラクターのコリジョン自動生成や、映像のカット毎のパースの取り方を、イキイキと説明してきて、周りの学生からも距離を置いている(置かれてる?)様だった。
そういった学生に、専門的なアドバイスすると、「なるほど、なるほど!」と話を聞いてくれる。さらに「でも、この場合はこうなりますよね?」というレスポンスもある。
学生側に主体性があり、このやり取りは、正直面白いと感じる。
この面白いと感じる感覚はゲーム開発のソレに近い。
彼らにはまだ、ゲーム開発のリアリティはないだろうけど、僕はリアリティを感じた。
やはりゲーム開発は主体性と主体性のぶつかり合いなのかもしれない。
作品展の帰り際、知り合いの先生と話す事があった。
非常に優しそうな方で、熱心に「良さそうな学生は居ましたか?」と聞いてくれたり、「なかなか自分の殻を破ってる学生が居なくてねー」と話して下さった。
いつも、ゲームや映像の専門学校の外向けの情報は、親御さん向けの教育の質を問うカリキュラムや、就職率の情報がメインになりがちだが、改めて大事なのは学生(子供)の「主体性」なんだと、作品展を通じて感じた。
帰りの電車でふと、僕も学生時代、周りと距離を置いて、熱心に自分の好きな絵を描いていた事を思い出した。
もちろん、学校のカリキュラムにない事ばかり。
親元を離れ、ほぼコミュ障だった自分が、ゲームの絵を描くという事を仕事にする、というリアリティを育てるために、ただ一人で悶々と自問自答していた記憶が呼び起こされ、恥ずかしくも新鮮な気持ちになった。