見出し画像

はみだす大人が歴史を変える

いよいよ始動!

2月から始まった「はみだすラボ」、いよいよ動き出している。オンラインで月1〜2回のすみあそびと、月1回の対話会(読書会になったり実践報告会になったりゼミになったり)を行うのだが、すでになにも始まっていないときから、
「間違いない!参加したい!」という声をいただき、走り出した。もう本当にワクワクしかないわけで、この「決まっていないけれど、楽しんでいこう」という初期メンバーの穏やかな熱さも最高である。

なんで「はみだすラボ」を始めようと思ったのか?

わたしがこれまで実践してきた中で感じてきたことは、すみあそびの中での「感覚の認知」、「感情の認知」はメタ認知力が上がるだけではなく、柔軟性、不確定なことへの信頼、計画を手放す感覚、などひとことで言ってしまえば「既存の枠組みから外れても揺らがない」という自己信頼が育っていく。それって、本来自分の生きたいように生きたい、というすべての人の叶えたい行動なのではないか。

ただ、今まではそれがなぜなのかを説明することをしてこなかったし、難しかったのだ。それはなぜかって、「わたし自身が、わかってもらえないのではないか」という恐れの中にいたからだ。でも、これを伝えたい人は確実にいる。

考えれば考えるほど、やはり「子どもたちを見守る人たちのまなざし」が柔軟で、枠組みがなくて、面白くて、穏やかで、ご機嫌で、愉快だったらいいな、というところに行き着く。

枠組みを変えれば見方が変わる

ずっと、「特別支援」という現場にいた。教員という立場であるにも関わらず、いつも学校の枠組みから外れてしまい、講師時代に市民団体の「アドベンチャークラブ」(障害のある子どもに限らず集まる余暇サークル)を立ち上げ、「公務員」という枠の中ではできなかったことをそちらで思う存分やっていた。

働いている最中に、小さな小さな違和感があった。それは、そもそも「障害」というものを、「その子の問題」としかとらえていない、という問題が、支援の現場ですら多かった。そうではない。だれもが「自分」と「他者」あるいは空想の「社会」という間には小さな「障害」(あるいは障壁、齟齬)を抱えているという事実がまず大前提としてあり、それが「多い」か「少ない」か、という話であるだけだ。

だからこそ、大人たちが「障害のあるこの子をどうにか適応させてあげたい」という謎の上から目線でとらえて「障害理解」なんぞしようものなら、当然のごとく「うまくいかない」ということが発生していた。だって、その行動を許せないのは、「大人側の問題」なのだから。

わたし自身は、大学時代のボランティア三昧と学習障害の子どもたちの家庭教師、という勤労学生時代に彼らと過ごした日々のおかげでたくさんのはみだし方を学んだとも言えるし、そもそもわたし自身がはみだしたまま生きてこれたという「レジリエンス」を持っているのは、哲学、宗教(友達がいなかった学校時代からの蓄積)、心理、社会福祉(大学はここを深める)、社会(実は社会科の教員免許が基礎免許である)、脳科学(大学院で特別支援の中でも発達障害を専門にしていたため)、そして結局ずっと好きで手放さなかった書くこと・描くこと(書道、美術)、という分野領域を横断して独学していたことが今になってつながっていく。

わたし自身の痛みを越えた先に

はじめからこういうことをしようなどと思って、教員を辞めたわけではない。正直に言えば、「不適応」に近い状態で、特別支援に熱い想いがこんなにあったにもかかわらず、「思い通りにならない」「誰もわかってくれない」「どうしてこんな制度なんだ」「もっといい方法があるのに変えられない」と、自分自身の能力不足を責め、国の方針を責め、それに従わざるを得ない働き方に怒り、体調を崩したのだと思う。怒りは原動力でもあるが、それが大きすぎると身体を蝕む。

だからこそ、「特別支援のプロとして生きていく」という自分自身の頑なな、今思えば痛々しいくらいの戦いやプライドが、手放せない時期があった。特別支援の講座を独自で開いてみたり、研修依頼のあったものはもちろん満足度が100%に近い研修(特に疑似体験の研修)もあったし、おかげさまでスキルも高まった。が、なにかわたしにはずっと拭いきれない疑問、違和感、ちくちくした感情があった。

「中途半端に辞めたんじゃないか」と責めていたのは自分だったことに気がついた。それに気がついたのは、「すみあそび」という場を開き始めて8 年、自分自身が書かないでみんなに場を開き、書いてもらう、という選択をし続けてきたわたし自身が、昨年「個展」というものを開催し、「表現する」という体験をしたこの流れの中で、さまざまな気づきが訪れた。

主観と客観のスイッチを柔軟に入れ替える

頼る、頼られる、支援する、支援される、見る、見られる。客観と主観。対人援助を生業にしているからこそ、この「立場の変換」と「主観の重要性」についてをとことん感じる敏感さは、日常から切り離してはいけない。それができる活動、つまり「行動」として実際に何を動かすか?それが「手」だと気がついた。「手を動かす」ということに、もはや主観以外は入り込みようがないのだ。それには直感的に操作可能な「墨で書く」が有効で、筆を持つと人間は自然と「書く」のだ。

そのことにも気がついたとき、それらに気づき続け、はじめて他者と対等な関係になれるこの感覚をともに感じ続け、「自分は自分なんだな」「はみだしていくことは戦いではないんだな」「そもそも違うんだよな」「だからこそみんな同じなんだよな」と、穏やかに言える人たちが、世界を変えていくキーパーソンになるような気がした。それであれば、そんなコミュニティを作りたい。

フリーランス教育者が活躍する社会へ

学校のことや、教育のこと、保育、子育て、介護、などが専門家が専門家として行うことだけになってしまいすぎたのだ、と思う。本来はあらゆる人の通り道、というだけである。だからこそ、さまざまな大人が「はみだしているわたし」を生き生きと表現していく社会になっていれば、あたりまえにこどもたちは安心する。

だからこそ、誰でも「フリーランス教育者」なんだと思う。

ということで、はみだすラボは
「とにかくなんだか、この世界にちょっと違和感あるんです」
「もう、なんかしていきたいんです」
「教育って、人間ってなんなんでしょ」
などのあたりを、モゾモゾと考えたり、「役に立つか立たないか」のようなことをまったく考えない芸術・脳科学領域(すみあそび)との両輪で、かなり左右の脳みそをシャッフルしていくラボなのである。

とにかく間違いなく面白いことになっています!
ここまで読んだあなたは素晴らしい。ぜひ一緒に実験&実践していきましょう!

はみだすラボ・メンバー募集中!

体験会はこちらから!まずは「すみあそび」を味わってみてください!

はみだすラボ・リアルすみあそび体験東京版↓

はみだすラボ・リアルすみあそび体験宮城版↓

オンライン体験会は3/13(木)にあります↓


いいなと思ったら応援しよう!