役に立たない神様は捨てる。
私がそうしているわけではない。
神様と人間の関係でいえば、だいたい神様が主、人間が従で、神様のほうがえらい。
人間のほうがえらい、というケースはいままで私は知らなかった。
ところが、笙野頼子氏の「発禁小説集」を読んで、この世界観をがつんとこわされた。
もう本は図書館に返してしまったので、原文を引用はできないが、笙野さんはこういうことを書かれていた。
神棚にそなえものをして、毎日きちんとお祈りをする。いまの神様はもう3年くらいになるが、結果がでていない。どちらかというと悪いことがたくさん起きている。役立たずの神様かもしれない。そろそろ捨てることも考えないと。
みたいな。
ようするにとてもプラグマティックなんです。笙野さんは神様を使う立場で、彼女のほうが主体。「ものがみ信仰」とも書いておられたが、神様なら結果を出せと。出せないのならもうクビだからなと。
安倍さんを暗殺した山上容疑者の母親がこういう考え方をもっていたら、ひょっとしたらバカみたいな献金もしなかったのではと思ってしまう。山上の母は神様の奴隷みたいな立場を甘受していたのでしょう。だから、悪いことがおきても、それはじぶんの信心が足りないからだ、みたいな自責に走る。
これが笙野さんなら、いや結果をだせないお前が悪い、と神様をリストラする。
役に立たない神様は捨てていい。
私はこういう発想は好きですね。
「蟻の街のマリア」として知られるカトリックの北原怜子は、こう書いています。
いやしくもカトリックの信者である以上は、自分は、天主様の御旨を、世の中に伝えるための媒介体にすぎない
人間は神の道具であり、神が命じられたら、いのちまでためらわないで差し出すのが篤実な信者だ、ということです。あくまで神様がすべてであり、人間はそのはしためにすぎない。
こういう考え方は正統的なキリスト教も統一教会もおなじで、人間は神様のために生きなくちゃならない。
私はその考え方にはどうもなじめない。使えない神様だったらどんどんお払い箱にしようよ、という笙野さんの考え方のほうがしっくりきます。