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よみがえるハッチ  晩夏の追想

  父母が建てた昭和の家、そこに今はパートナーつりお君と一緒に暮らしている。父はだいぶ前に亡くなり母も昨年亡くなった。認知症の母の在宅介護をするため10年前にこの家に戻ってきた私たち。介護中は同じ敷地内の小さな別棟に住み、少しだけ距離を確保して母と過ごした。

  亡くなる数年前に母は近所の介護施設に入所したが、母の場所であるこの家を「のぶりんハウス」と名付け、私は「のぶりんハウス」の管理人になった。(のぶりんは私が着けた母のニックネーム、陰でこっそり「のぶりん」と呼んでいた)

  一周忌が過ぎ猛暑がやってきた今年、私はクーラー付きで使いやすい台所がある「のぶりんハウス」を主に生活するようになった。止めていたガスも使えるようにした。朝食とつりお君のお弁当は今までどおり別棟で作るが、夕食は「のぶりんハウス」で用意し台所と繋がったリビングで夫婦二人で食べるようになった。

  二か月近くたち、私たち二人のリズムとこの家のリズムがなかなか整わないことにだんだん気付いてきた。使いやすい面と使いにくい面がある。私は台所に馴染めずオロオロして余分な作業をしている。片付け下手が加速的になっている。料理も食事も楽しめない。

  ある日、ずいぶん早く目が覚めた私は台所に立ってみた。キッチンは生前母がコンパクトなシステムキッチンにした。三畳と小さいながらも明るく使いやすい。ここで母もヘルパーさんに調理補助をしてもらいながら自分で昼食を作っていた。古い時代の別棟の流しに比べ、ここは調理台の高さが少し高めなので腰が悪い(仙腸関節炎)私にはありがたい。前かがみ姿勢をあまりしなくて済み、背中・足腰にひどい痛みを感じることはとても少なくなった。

  リビングと台所の間には、間仕切りを兼ねた両面から食器の取り出しと配膳ができる「ハッチ」という作り付けの棚がある。ここは昔のままだ。小学生の時、母と祖母に教えてもらいながら包んだ餃子をハッチの下段に置いたバットに並べたことを思い出した。

  「ハッチ」は当時の家の流行だったのだろう。台所に続くリビングにはダイニングテーブルがあり、ハッチを開けて出来上がった料理を置き子供たちにとりに来てもらう。母親は台所から出ずに「さあ、ここに置くから次々にとりに来てね」とにっこり微笑む。子供たちはお手伝いができるのでうれしい。当時我が家は祖父母(母の両親)・両親・伯母(母の妹)・弟と私の計7人家族。TVでは「七人の家族」という番組があったように記憶する。

  明るい大きな窓があるリビングのテーブルで家族みんなでそろって食事をする。そんな夢の象徴が台所と家族を繋ぐ「ハッチ」だったように思う。

  しかし、父は隣の和室の座卓で母と私たち子供の四人で食事をすることを好んだし、祖父は自室のちいさなちゃぶ台で一人気楽に食事をする。祖母と叔母は自分たちの部屋で食べる(祖父母は仲の良くない夫婦だった)。そのうちリビングには応接セットが置かれ、食事をする部屋ではなくなった。

  ハッチから母の「おかずが出来たから取りにおいで」という笑顔がのぞくことはなかった。

  そんな子供時代に想いを馳せていたら、私は無性に「ハッチ」に本来の役目を果たしてもらいたくなった。


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