ラディカル・アクセプタンス(ネガティブ感情から抜け出す「受け入れる技術」で人生が変わる(68)
こちらの本を、読書会で読んでおります。
Clubhouseで17時30分から15分間。
第10章 生まれ持つ善心に気づく:寛容で愛情に満ちる心への入り口
【慈愛(愛と思いやり)の心の目覚め】
他者の善心に気がつくことで自然に目覚める優しさと愛と善意は仏教では【メッター】、または、私たちの本質である慈愛(愛と思いやり)と呼ばれています。過去2500年にわたり継続して受け継がれ、改良され続けてきた練習により磨きをかけることができるのです。
私たちは誰かを愛すると、自ずとその人の幸せと健康を願うものです。この自然な反応がいわゆる「慈悲の瞑想」として形式化されたものです。この瞑想は伝統的には自分自身の善心に目を向け、シンプルな気遣いのフレーズを自分に送ることから始まります。
慈愛は思いやりの輪を広げるように、自分から始まり他者へと広がっていきます。気遣いのフレーズを唱えながらその祈りの意味を感じ、その人が明るく、幸せに輝いている様子を想像することもでき、温かい感情は一層強まり、その人に対する感謝の念も深まっていくのです。
この慈愛の輪を苦手な人にまで広げるには戦士のような勇気が必要です。イメージを使ってその人の真の美しさを見出す努力であり、無条件に愛する心の能力を高めてゆくのです。…ダライ・ラマは、「人は皆幸せになりたいと願っている。苦しみたいと思う人はいないのだ」と言います。
マットは母親を心から愛していましたが、彼女の自信の無さと欲求の強さに「ゾッ」とすることもたまにあると言いました。そんな彼女に献身的に尽くしながらも物理的にも心理的にも距離を置こうとする彼。
ある日博士の元にマットから電話があり、怒りと苛立ちのこもる声で、死に瀕している母親の所に国を縦断して戻ってきたものの、彼女に対してどんな慰めも通用せず、死の恐怖について不安を感じ、側にいて欲しいと懇願されることに「正直言って彼女が自分をブラックホールに引きずり込んでいるような気がする、もういい加減死んでくれればいいのにと思うこともあるよ」と、この3年間に6度。瀕死のたびに予想を覆して回復する母に対する思いを博士にぶつけるのでした。
そこで、博士はマットに慈愛の瞑想をすすめます。
長所を見つけることができない人に対しても慈愛の気持ちを送ることは可能です。すぐには嘘っぽく感じたり、腹立たしく感じたりしても、そうした感情を優しく受けとめ、瞑想を続けることで驚くべきごとが起きるのです。気遣いを送れば、気遣う心が目覚めるのです。
この慈愛の瞑想を続けた結果、マットは少しずつ母親の良い面を自然に思い出すようになり、数週間の間に彼の母親への幸福の願いは偽りのないものに育っていきます。こうして自分の心が開いていると感じたときには、この祈りと慈愛の輪を純粋に生きとし生けるものに広げることもできたのです。
ある晩遅くに彼女が本当に危篤状態で数日中に亡くなるだろうという電話を受け取ったマットの中では、既に何かが変わっていて、一瞬彼の頭をある思いがよぎりますが、母親が彼を必要としているときに、彼女の側にいてあげたいと純粋に思い行動にうつします。
ブッダは慈愛の練習は最も価値ある精神的な修業であると説きます。「心の自由である慈愛は、すべてを吸収する。それは光、輝き、燃え上がるのだ」と言います。平和と幸福の願いを自分と他者に送る瞑想は、純粋で美しい自分本来の姿に触れ、善心を見出す瞑想は慈愛を目覚めさせ、慈愛の練習は、私たちの内面と周りにある善良さにより、目覚めながら人生を歩ませてくれるのです。
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