第16章 気づきから得られるもの(3)
こちらのnoteでは、17時30分から15分間、ClubhouseでMBSRトレイニーが読書会を行っている内容の予習として、この場をお借りしております。
気になる方は、「人生が変わる読書会」をご視聴ください♡
心や感覚、感情などすべての現象は、互いに密接につながっていることに、観察を続けることで気づきます。原因・結果という微細な構造の中で密接につながっていること、静かに客観的に現象の働き全体を観察しているとき、こうしたことが繰り返し起こっていることを観察できます。
日常という研究室で研究していると、確固たる結論が心の内側から出てきます。自らが体験したことが「真理である」とわかるのです。
喪失や悲しみの苦を見るとき、存在のマイナスの側面を観察し、徹底的に探究することによって、存在の本質である「ドゥッカ」(苦)を深く知ることができます。欲は眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官から次々に生じてくること、心を支配して意識を欲の奴隷にしていることを見ます。
楽を経験しているときは、心に生じている欲や執着を観察します。苦を経験しているときには、心が強く抵抗していることを観察します。
「私」と自分の身体、感覚、感情、思考とは別ものであり、これらは絶え間なく変化し、終わりなく流れているのです。
そのとき、「私」にたいする見方はすっかり変わっているかもしれません。自分を拡大鏡を使って見るとき、見方はどう変化するでしょう。肉眼で見えていたときと違い、ドット(点)で構成されて見えるかもしれません。鋭い気づきで自分自身を擬視するとき、「私」「私がいる」といった「私という感覚」は、その固体性を失い、分離してなくなります。そこには、無常・苦・無我が家(心と身体の集合体)に現れるのです。
このとき、生は無常、存在の本質は苦、「私」という実体はないという真理を体験します。苦も楽もなく流れだけが残り、心に大きな安らぎが現れます。つくられたものではない…究極の幸福、涅槃が実現するのです。