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雑記|持たざる者なんか持て

この一カ月は、何社か、何アカウントかもうわからないのですが、依頼で書き仕事をしていまして、発見がありました。

それは、面白いモノを書ける時と書けない時の差。

結論から言うと、僕の場合は信じてくれて自由に書かせてもらってやっと半々ぐらいで良いものが創れる書けると言う事です。

もう一つの結論は、双方に疑念があるととてもじゃないけれど書けないと言う事。

所謂、大人になれていないと言う事なんだと思います。この一カ月、数も書いていたのですが、我ながらめちゃ良いモノとどうしようもないモノが上がってきて、はてさて同一人物が書いたのだろうか?と疑問に思いまして、その理由を探っていました。

フィードバックが嫌な鬼尖りなのか??と思っていたのですが、案外めちゃ良い側の作品はボコボコにしばかれながらできたモノもありましたし、すんなり通って、映像化されたりしたのを見ても、脚本を悠々超えていったモノもありました。なので、案外コレではない。根拠のあるフィードバックにうわ!そうかなるほどすね!とか興奮している瞬間もあったので、知性との出会いはとても重要で、かつ、クオリティーが上がるのであれば嫌とかもないのです。

自分が最高だから触るなと思ってる感じでもないけれど。書けない時というのは、どうも、信じてもらえない時のようです。
書き手として、僕はあまり思いつきや感性をあまり使いません。根拠のある技術や経験を軸にしていて、自分の感覚や閃きはワンフレーズ、中盤から後半に差し込んでおく程度。それを差し込むのはNFTのようなモノで、刻印を刀に掘るようなモノ、印を作品に掘る為の行為程度。お化粧なのです。

では、信じてもらう為の努力が足りてないのではないか?というのが今の僕の答えで、それはつまり、数字やウケや圧倒的ブランディングどうこうになってくるんだなとも思います。要は説得力が面白さしかないのが、面白さの説得力に繋がっていない。

俺にはわからないけど、この人がこんなに自信持って言ってるならやらせてみるかぁ…とさせる所まで行けていない。

逆に言えば、自分自身もまだ、書けない時は、信念とは違う外的要因に振り回されているのだろうと思うのです。作品世界の神になれてもいなければ、キャラクターの言葉に外的要因を滑り込ませるから、どうしようもないぎこちなさを生まれる。作品を守る胆力がまだまだ足りない。作品に弾力がまだまだ出てこない。

人の代わりに作るのだからこそ、張らなければならない瞬間はあるはずで、面白さを担保する為には無視しないといけない、我々世界のルールがある。人間のままでは辿り着けない場所がきっとある。だからこそ、仕事になる。しなくてはいけない。

葛藤すべきは外的要因ではなく、面白さやクオリティーで、外的要因に振り回されている作者というのは弱さに他ならない。それは創作ではなく、デザインでしかなくなり、誰かの何かを変える力は無い。

話を戻す。

クリエイティブの領域とビジネスの領域というのは遥か昔から、難しい相性を持っている。

やはり僕は何者でも無い道化だから、王様を笑かせる、だから存在出来るという距離感を大事にしたい。王様に飼い慣らされてしまっては、道化ではなく、それは道化の美意識から外れた何かだ。それはつまり、王様への敬意にも欠いた無礼者でしかない。持たざる者で居続ける覚悟が無くなれば引くべきで、それはお金や立場の話でも無い。

多分少し、目線が上がったからこその戸惑いだろう。

絶対、色々持った方が良い!
お金欲しい!
立場欲しい!
デザインで良い!
ふかふかのベッド欲しい!

何だか、そんなことを、考えている。