雫たち
4人はマキノの夏のゲレンデに出て、夏の草の匂いを嗅いだ。草には夜露が乗っていて、一粒ひとつぶに夏の夜の煌めきが浮かび上がっていた。
普通はそんな小さな草の葉っぱに乗った夜露などに気づくことはないが、その夜の4人は違っていた。
「夜露の一粒ひとつぶが音楽を演奏しているようね」と、カナタさんは夫の手を探しながら言った。
「実際、聞こえてくるな」と、夫はカナタさんの手を見つめて自分の手とつないだ。「一粒ひとつぶは小さい音だけど」
「はい、ゲレンデ全体の草が集まって、大オーケストラみたいですね」僕もついついしゃべってしまった。
「待って」と、ヒカリは言い、黙ってそれらの草が奏でる音楽を集中して聴こうとしていた。「歌だけではないみたい」
そうヒカリに言われてみると、夏の夜のゲレンデの草たちは別のこともしているようだった。
それは音楽ではない。それは、なんだろう?
僕は黙って考えていた。少したってその問いに答えてくれたのは、カナタさんとヒカリの母子コンビだった。
「光の乱反射なんだよ、たぶん」夜なのに、カナタさんとヒカリは眩しそうにゲレンデを見ていた。
「まるでキューブリックの映画のような?」それまで黙っていたヒカリのお父さんがここでしゃべった。
カナタさんとヒカリはうんざりした表情で目を合わせていたけれども、僕はいちばん好きな映画の話が出たので、ついつい乗ってしまった。「ネアンデルタール人が骨を投げる場面から始まるんですよ」
「そして、ボーマン船長が最後に光の洪水を見る」ヒカリのお父さんは僕を見ながら言った。
いつもだとたぶん、カナタさんとヒカリはこのあたりで茶々を入れるのだろうが、この日の2人は黙っていた。黙って、ゲレンデ中の草を見ていた。
「よかったね、お父さん」ヒカリは僕の手を探して握った。「お父さんの話をちゃんと聞いてくれる人がやっと現れた」
「うん、ありがとう、先輩」ヒカリのお父さんはそう言って、光の洪水に包まれた夏のマキノのスキー場の中に歩いて行った。「僕はずいぶん年下の、しかも何故か波長の合う友人と出会えたみたいだ」
その友人とは僕のことだったけれども、僕は嬉しくなってしまい、お父さんの後を追いかけて夏の夜のゲレンデの真ん中に走っていったんだ。
すると、ゲレンデの草たちがいっせいにバネのように僕とお父さんを迎えて跳ね返った。水滴と雫がゲレンデ中に溢れかえり、近所の建物の光や月光を受けて大量の二次的な光をゲレンデ中にばら撒いた。
ゲレンデは夜の雫の光に包まれ、見方によっては虹色に輝いていた。
「こんなことってあるのかしら」カナタさんは目を半分瞑りながら呟いた。「この光源はなんなんだろ?」
「僕たちの」と、ついつい僕はしゃべってしまった。「僕たちが気が合っているから、草自体が輝いているんだと思います」
「草が人を祝福するなんてこと、あるのね」カナタさんは不思議そうに言った。「それは、わたしがずっと求めてきたものかもしれない」
「草の水球」とヒカリは言って、その場でしゃがみ込み、小さな草に乗った夜露をじっと見つめた。
「雫をよく見ると」僕は引き続きしゃべりつづけた。「ひとつひとつの中に、さらに光るものが映っているようです」
「どれどれ」と言ったのはお父さん。足元の草のそばにしゃがみこみ、夏のゲレンデのライトで照らしだれた葉の上に乗った小さな水球を目を細めてみた。
「ほんとうだ!」とお父さんは言った。「ひかるくんの言うとおりだ」
お父さんが僕の名前を読んでくれて、僕はすごく嬉しくなってしまった。
続いて、ヒカリが言った。
「草の上にある水球の中で光っているのは何なんだろ、おとうさん」
「月か?」お父さんは夜空に浮かぶ月を見上げていった。「でも、なんとなくかたちが違うねえ」
「ここは月ではあってほしくない」ヒカリも月を見上げて言った。「このゲレンデのたくさんの草の上にある無限の雫が映しているのが月だなんて」
「じゃあこの光は何?」と言ったのはカナタさん。「わたしは月でもいいよ。ゲレンデに生える草の上に無限に散らばる月光、みたいな」
「僕は」と僕は言った。どうしても言いたかったのだ。
「この草の上に乗る雫の中で光っているのは、やっぱり流星群だと思うんです」
そう、僕にはいつも願いがあった。僕はことばを獲得する前、たぶんいつも揺れていた。その揺れを星で表現すると、星そのもののカケラである流星だと思うのだ。軌道を持たない、破片としての流星。
僕がことばを持ってしまったのはほんの18年くらい前なんだけど、僕たちはその前、破片のような目で世の中を見ていた。
「ああ、それはよくわかる」と応じてくれたのはお父さんだった。「無数の草の上にある煌めきは、その世界からのメッセージなのかなあ」
「宇宙人じゃあるまいし、メッセージなんかじゃないよ、パパ」ヒカリは父に強く断定した。「先輩が言っているのは、わたしたちは本当のことには決してたどりつけないということなんだよ。ね、先輩? 」
「雫たちが歌おうとしているよ」と僕は言った。正確に言うと、ゲレンデの無数の雫に映しだされた僕たちの流星が、口もないのに歌い出した。
それは、ことばではない、無数のハミングの集合体だった。
「1億人くらいの混声合唱団みたい」とヒカリは言った。夜の雫に映し出された1億人の声が、なぜか不思議な塊になってゲレンデ中に木霊した。
「これは美しいよ」と、僕は少し泣きながら言った。
ビアンヴニュ
すると、ヒカリのおかあさんのカナタさんもしんみりと話し始めた。
「わたしはね、ひかるくん」カナタさんは両手を広げ、ゲレンデ中の草の合唱団の声を受け止めていた。「あなたのような先輩ではない、わたしだけの先輩が好きだったの」
それを聞いたヒカリのお父さんは両手をポケットに突っ込んで、草のゲレンデの奥へと歩いて行った。
「お父さん!」と僕は言ったが、お父さんはまるで80年代のジャック・ニコルソンのように冷たかった。彼はその時、70年代のイージーライダーではなかった。
「彼は放っておいてあげて」カナタさんは僕の目を見て言った。「わたしの先輩は」
「おかあさん!」今度はヒカリが叫んだ。「もう、いいよ」
「ごめん、ヒカリ」とおかあさんは静かに言った。「あなたの先輩と、わたしの先輩の違いを語りたいのよ」
「先輩じゃないよ」ヒカリは僕を見ながら言った。「もう、ひかるなんだよ」
「でもね」カナタさん/おかあさんは、イイねサインを指で示して言った。「あなたの先輩は素敵すぎるんだよ」
あなたの先輩とは僕のことで、僕は当然自分が素敵だなんて指摘されたことはあまりなかった。けど、尊敬するヒカリのおかあさんであるカナタさんにそう言われて、自分のどこが素敵なのか聞きたくなった。
「ママの先輩は今もパリにいるの?」ヒカリは母親を見上げて言った。「ママはまだその先輩が好きなの?」
その直球な問いにカナタさんは答えず、僕を見た。そして、こんなふうに言った。
「ひかる」僕の目を見ながら僕の名を呼ばれることは光栄だが恥ずかしい。「いや、先輩」
僕はなんと答えたらいいかわからなかったので黙っていた。僕はヒカリに先輩と呼ばれている。そして、おかあさん/カナタさんは昔付き合っていた人を先輩と呼んでいた。
「もうこのへんでいいか?」と割り込んできたのはお父さんだった。確かに、いま、我々がこんな話をしてもメリットは何もない。
「不思議よね」と言ったのはカナタさん/おかあさん。「ヒカリも、好きな人を先輩と呼ぶだなんて」
「そんなものよ」夜のゲレンデのライトは、全面的にヒカリを照らしていた。「わたしは先輩と来月結婚したいの」
「もちろん、オッケーよ」と言いながら、カナタさんの目には大きな涙の塊が浮かんでいた。「あなたにはひかると結婚してほしい」
「でも、ママ、どうして泣いているの?」ヒカリは静かに聞いた。
「わからない」カナタさんの目には次から次へと涙が溢れ出した。「あなたが好きになった人が『先輩』だったから?」
「わたしもわからないよ」そういうヒカリの目にも涙が浮かんでいる。「ダメ、ママ、わたしも泣き始めたよ」
「そういえば」とおかあさん/カナタさんは半分笑いながら言った。「わたしが先輩に振られて就職活動をしていた時、ママに頼まれてママの絵を描いたの。その時、ものすごく泣いたんだった」
「ママって誰ですか?」事情のわからない僕は、ついつい聞いてしまった。
「ああ、先輩、ごめん」答えたのはヒカリだった。「ママの言うママとは、アキラおばあちゃんのこと。かっこいいおばあちゃんだよ」
「そうだ、あなたたち、ママに会ってきたらいいよ!」と言ったのはおかあさん/カナタさんだった。「ママだっら、先輩のことをどう表現するだろ?」
「そりゃあ、おばあちゃんは大絶賛だよ」とヒカリは目を擦っていった。
「ややこしいけど」と僕はいい、「わかりました、アキラさんに会いに行きます」
「オッケー、いまネットで聞いてみよう」とカナタさんは言い、パソコンに問いかけた。「ママ、ヒカリの先輩がママに会いたいって言ってるよ」
パソコンの向こうの女性は大声で笑いながら、昭和風に「ビアンヴニュ!」と叫んでいた。
それが、僕がアキラさん/おばあちゃんを見た最初だった。おばあちゃんは、パソコンの向こうで自転車に乗っていた、ママチャリではなく。
「知ってるか、ひかるくん、おばあちゃんの場所を?」と聞いたのはお父さんだった。
「いえ、でも、北海道とか沖縄?」と僕は答えた。
「そんなわけないだろう」とお父さんは笑っていた。「実は、ヒカリの近所に一人で住んでいるんだ」
「ええーっ」と驚いたのはヒカリだった。「もしかして、アキラおばあちゃん、京都に?」
「そうだよ」とお父さん。彼はクスクス笑っていた。「しかも、ヒカリの、というか、君たちのほんの近所だよ」
「僕らは、左京区ですけど」と僕は言った。「それも、銀閣寺のすぐそばの、浄土寺というところで」
「そう、その浄土寺の古い一軒家に、おかあさんは住んでいる」と、お父さん。
「ギター弾いて、毎晩RCを歌っているそうよ」と、カナタさんは言った。
「ええーっ!」と僕とヒカリは同時に叫んだ。「近所だよ、ママ」ヒカリは笑っている。
「そう、いっしょに哲学の道を散歩しようか?」カナタさんは、夏のゲレンデの草の上に立ち、ゲレンデのライトを浴びて言った。
水滴の渚
ひかるが音の幽霊である父と出会うことはあまりなかったが〜夜中のトイレ時にわざとらしく廊下の奥で父は「鳴った」〜ひかるの母である光瑠は、それこそ毎日夫が「鳴っている」のを聴いていた。
光瑠は、どんな時に夫の幽霊の音が鳴るのかをこの頃細かく観察していた。
「あの人は」と光瑠は思った。「わたしが仕事で疲れている時なんかに励ましてくれのかしら」
だから光瑠は、病院の夜勤明けの最も疲れている時に夫の音が鳴るのかな、と期待した。
けれども、夫の幽霊の音は早朝にはなかなか鳴らなかった。
彼が家の物を揺さぶったり振るわせたりするのは、光瑠が主として夕食を作っている時だった。
たとえばカレーを作る時、牛肉の灰汁を取るのを光留がサボっている時は、盛んに家の中の物たちが震えた。まずは時計が鳴った。その次に窓枠が不自然に震えた。それを受けて、テレビの横のサボテンがパチパチ点滅したりした。
「サボテンを点滅させないでよ」と、光瑠は部屋の空気に向かって言った。「サボテンはあなたみたいに闘争的じゃないんだよ」
すると幽霊の夫は反省したのか、部屋の光景を月に変えて見せたりした。
その荒凉たる大地に白い暴力的な太陽の光が当たる景色を、最初光瑠は驚きをもって見ていた。けれどもその光景が夫の贖罪だと理解した時、初めの喜びは薄くなっていった。
「あなた、そろそろ消える時なのでは?」
光瑠は、音の幽霊である夫にまだまだここにいてほしかった。けれども、その実存感はあまりにリアルで、肉体のない音だけの夫がいちいち主張してくるごとに恐ろしいほどの寂しさを覚えた。
そして、音として食器をならしたりするその夫に、実をいうと、強く抱きしめてほしかった。夫が生きていた頃のように、光瑠が出口のない言葉のなさと寂しさに襲われた時、冗談を一言ふたこと言ったあと、黙って抱きしめてほしかった。
けれどもそれは叶わない。せいぜい夫は、精一杯の力を出したとしてもドアをバタンバタンとうるさくするだけだった。
「だから、やめてよ、あなた」光瑠は時々誰に訴えることのできない苦しさとともに、そのドアの音に対して叫んだ。
「どうしてあなたは、わたしを抱きしめることができないのかしら?」光瑠はドアのノブを睨んで言った。「そしてわたしは、どうしていつまでもあなたにギュッとしてほしいんだろう?」
そして光瑠は、夫が癌で死ぬ直前、「今にも死にそうになってようやく死の先輩たちの声が僕に届くようになった」と小さく漏らしたことを思い出した。
「幽霊の先輩たちは」と夫は死の床から語りかけた。「音として」夫は笑っていた。「幽霊の音として家族たちに語りかけるんだけど」夫はそこで休んだ。「すぐに家族たちは物足りなくなるそうだ」
今のわたしだ、といま光瑠は思った。わたしはだから今、あの時の彼の声を思い出している。
「音だけで物足りなくなった時にね」夫の声は一層細くなってあの時言った。「幽霊の先輩たちはこうしろって僕に言うんだよ」
「たぶん、音とか気配だけでは、わたしは一層切なくなるよ」その時光瑠はそう言ったが、まさに今の自分の気持ちだった。「幽霊のあなたがユリゲラーみたいにスプーンを曲げたって、わたしは泣いてばかりなんだから」
そのまま2人の会話は終わってしまった。
なぜなら死の床にあった夫がその時妻に伝えようとしたことは、幽霊の自分が無数のスプーン曲げをすることで妻を爆笑させるという陳腐な提案だったからだ。
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けれども、気弱な幽霊だった父だが、ドリーファンクJr.よりテリーファンクのほうがとても好きだった父はそれでも楽天家だった。
だから光瑠が、身体と身体の接触が無理であるにも関わらず、立体的で身体的な接触を求めていることに関して、絶望を感じながらも非常に気楽な思いを抱いていた。
本当はテリーよりもドリーファンクJr.のほうに親和性を抱く父は、身体と身体がこの世で接することが終わった、死という出来事を歓迎していた。
「もう血みどろのグーパンチは僕は十分おみまいしてきた」と幽霊の父は、妻の光瑠に言った。「君が僕の肌の温かさを求めていたとしても」
「それが無理だから、あなたの声や音では無理だから、幽霊というあなたを否定せざるを得ないから、わたしはこうして泣いているの」と言いながら光瑠は泣いていた。
泣きながら光瑠は若狭湾を見ていた。いつも若狭湾は憂いを帯びていたけれども、その日の湾は光瑠に優しい光を投げかかけていた。もう泣くなよ光瑠、と、ひかるの母である光瑠に、湾全体で若狭湾は語りかけていた。
その朝の光瑠は、いつも通り夜勤明けで、疲れきった腰や肩を抱えて車に座り、目の前の若狭湾を見ていた。夫の幽霊は、そんな光瑠にこんなふうに語りかけた。
「ごめん、光瑠」と言いながらも、無意味なポルターガイストを夫は避けた。代わりにこんなことを空気を振動させて言った。
「僕らのひかるはやがて結婚するだろう。その相手は君にやっぱり似ているよ。その君に似ているひかるの結婚相手とともに、どこかの夏のスキー場を彼らは走るだろうね」
「夏のスキー場?」それはたぶん、ひかるの彼女のヒカリの実家があるマキノのスキー場だろう。そこで彼らは、不思議な光を見ることになるんだろうか。
「見るんじゃなくて」と、幽霊の夫は言った。
「感じる?」光瑠はすぐに応えた。
「それとも少し違って」よく考えると、幽霊がそれだけ明瞭にしゃべるのは変だったが、ポルターガイストではない、あの夫の声が自分を包み込むのが本当に快感だったので、光瑠は深く考えなかった。
「夏のスキー場には当然雪はないけれども」と幽霊の夫は語った。「何かの方法でひかるたちに語りかけてくる」
「ああ、朝の草の水滴とか、雨かしら」光瑠は深く考えずに言った。「夏のスキー場を全面的に覆う水滴が、それを見るものを幸福にするの」
「当たり」と幽霊の夫は音を鳴らした。「僕はそんな水滴になって君を包み込みたいんだよ」
「それでもわたしは不満じゃないかな」光瑠は、自分の周囲を包む物理的圧に対して言ってみた。「やっぱりわたし、泣いてばかりじゃ?」
「まあ、クルマの外に出てみなよ」幽霊の夫はそんなふうに音全体で伝えた。「騙されたと思って」
光瑠はそんな幽霊の夫に騙されてみようと思い、クルマから出た。目の前には不思議な静寂さを抱える若狭湾が展開していた。
太陽は湾の向こうで滲んでいたけれども、同時に細くて見えない雨に光瑠は包まれた。
その少しあと、光瑠の目に涙が浮かび、「あなた、ありがとう」と呟いていた。
光瑠は夫に今も抱きしめてほしい。強く。
けれどもそれは叶わない欲望だ。そんな欲望を抱えながら光瑠は、自分を包み込む雨粒や、その雨の打撃音や、その打撃音がいちいち思い出させる夫とのコミュニケーションの回想に包まれた。
それは夫のリアルな腕とは別の、蒸し返すような生命の響きだった。
「あなた」と光瑠は自分を包み込む水滴たちに語りかけた。「あなたってこんな豊かな人だったっけ?」
それを聞いた無数の水滴に宿った幽霊の夫は、若狭湾全体を包み込むような大声で笑った。その声を聞けたのは光瑠だけだったけれども。