人の金で食う焼き肉は不味い。

私は人に奢られることがあまり好きではない。
先輩が後輩に、上司が部下に等、社会通俗的にむしろ奢られなければ相手の面子が立たないような状況であれば抵抗はない。
が、対等な関係性の相手に理由もなく奢られるのは、お金の面以外で対価を要求されているように感じてしまう。
私においては、金銭面以外で相手に提供できるメリットなど何も持っていない人間であるため、より心苦しく感じる。

別に相手は見返りなど求めていないのでは?と、そう考える方もいるであろう。
だが私は、この世に一切の見返りを求めない、本質的に無償の愛である行為はほぼ存在しないと思っている。

ボランティア活動を例にとる。
無給で、汗水垂らして誰かの為に奉仕する。一見、これは何の見返りも求めていない行為に見える。
けれども、ボランティア活動をしている人々は、基本的には人に奉仕すること、人の役に立つことが好きである。人と関わり感謝され、社会の輪と心地良く繋がり、そして人の役に立てたという事実からある程度の幸福感、充足感を得ている。
幸福感、充足感というものは、誰も皆金を払ってでも買いたがるものだ。
募金や寄付、ミクロな人助け行為全般が押し広げればこれに当てはまる。

人の役に立ち、感謝され、嫌な思いをする人間なんていないのだ。もし、人の役に立つことが大嫌いで、他人に感謝されると蕁麻疹が出るというような人が積極的に人助けをしていたとすれば、私はそれを見返りを求めない尊い行動だと感じる。しかし、私は未だそのようなケースを見たことがない。

アイドルやホストなど、好きな人間に貢ぐ行為も同様である。その行動は一方的に相手に利得を与えているようで、好きな人間に貢献できているということの幸福感、充足感を、対価として得ているのである。

始めに戻る。私に金銭を投じることで幸福感、充実感を得る人間はまず居ないし(相手が誰であれ人に金を使うのが好きだ、という奇特な人であれば別だが)、金銭面以外で私が何か相手に利得を提供することも難しい。やはり、人の金で食べる焼き肉は不味いのだ。


これは本筋に関係のない余談だが、幸福を得るというプラス方向へ対価を求める形だけでなく、不幸を避けるというマイナスを埋め合わせる形で対価を求めるケースもあると私は考えている。

例えば、誰もやりたがらない仕事を引き受け、そしてそれを遂行しても誰に評価される訳でもなく、誰から感謝されるわけでもないとき、人間は何をモチベーションに行動するのか?

このケースでは一つとして、引き受けた仕事はこなさなくてはならないという責任感、人間として負った義務は果たす必要があるといった思考から、行為を達成しなければ自分に対する不満足感(≒不幸)が与えられてしまう場合、それが仕事を遂行する動機になり得ると考えられる。

ここでは、何か幸福感や充足感を得られるわけではないが(達成したという事実から、自己完結的に満足感を得ることはありえる)、自らの不幸を回避するという対価の為に人が行動していると考えることができる。

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