日本で合法に嗜むことのできるドラッグの最たるものは、言わずもがなアルコールである。家を出ればアルコールにアクセスできる場所はそこら中に溢れている。なんなら、家から出ずとも通販で頼めば良い。もし私がカタワでもチンバでも、ツンボでも、メクラでも、アルコールは金さえあれば簡単に入手できる。 煙草は1999年にテレビCMを中心としてあらゆるプロモーションが規制されたが、アルコールのテレビCM規制は「ゴクゴクなどの効果音を使わない」「喉元のアップを描写しない」「お酒は適量を、のような
法律や倫理観は学校教育と一緒で、基本的には想定されるオーディナリーな人々に対して最大公約数的な効果をもたらすために設定されていると考えている。 そのため現状では、ひねくれた少数者の(ひねくれているのはおれ個人だが)損得はそこまでうまく考慮できていない。 おれのようなねじ曲がった精神を持った者は、その合い間を上手く縫わないと、とても生きづらい。 だから、なるたけオーディナリーな人々の感情を害さないような努力はするが、自分は法律や倫理に、生きるのに必要な限りは背く。 しか
鼻毛が持つインパクトは、その物質自体の矮小さに比べて余りある。 どんなにあなたが容姿端麗でも、鼻毛が出ているという事実一つが性的魅力を多大に失わせる。 百年の恋も一時に冷めるという言葉があるが、その語源は好意を抱いていた異性の鼻毛が飛び出ているのを見た人に依るのではないかとさえ思う。 たった毛の一本他人に見せるだけでなぜこうも印象が変化するのだろう。本来、毛とは自然なものであり、見えるからと言って人に特別不快な印象を与えるものではない。(普通公衆の面前では公開しない、陰
ギリギリキリキリキイキイ、高いのか低いのかわからない金属質の轟音が頭に強く響く。その音の快不快の区別を付けるのすら面倒で、私はただそこに寝転んだまま動かない。首元にひんやりとあてがわれた鉄の枕。人生最後に迎える眠りのためには粗悪だが、悪くない感触だ。 あと数秒で私の意識は途切れるのだろう。そう考えると、名付けようのない感情が湧き出る。嫌じゃない。けど喜ばしくもない。 でも、私の一生のほとんどはそんな感情に埋もれていた気がする。特別楽しいこともないし、特別嫌に思うこともない
その日ノアは居酒屋に赴いた。人が集まる都市にはどこにでもある、大衆的な居酒屋である。ノアは気分が良かった。仕事も快調に終わり、帰り際に散歩でふらりと立ち寄った神社で引いた御籤も大吉である。万事良好、隙の無い一日だった。 注文初めはウーロンハイである。ノアは中肉中背、体重は並の人間だ。しかし、自意識が非常に高かった。日毎鏡を見る度に、フェイスラインが少し引き締まっていないのではないかと恐々としていた。そのため、意地でもビールは頼まない。一杯目に茶割を飲み、その後は専らハイボール
こんにちは皆様。今日も元気に資本主義社会でメイクマニーしてますか。 そんなにメイクマニーしてないよという皆様も、日々競争社会を生きる中でお疲れだと思います。そんなところで少し、私の愚痴でも聞いてください。 私は予備校が嫌いです、特に大手の。ちなみに、通ったことはありません。じゃあ、嫌いかどうかなんてはっきりとわからないだろ、そう思うかもしれませんが、私は予備校という商材のマーケティングの構造そのものが気に食わないのです。 予備校がどうやって儲けているかなんて単純
私は人に奢られることがあまり好きではない。 先輩が後輩に、上司が部下に等、社会通俗的にむしろ奢られなければ相手の面子が立たないような状況であれば抵抗はない。 が、対等な関係性の相手に理由もなく奢られるのは、お金の面以外で対価を要求されているように感じてしまう。 私においては、金銭面以外で相手に提供できるメリットなど何も持っていない人間であるため、より心苦しく感じる。 別に相手は見返りなど求めていないのでは?と、そう考える方もいるであろう。 だが私は、この世に一切の見返りを求
私には生きるにあたって、いくつかの前提、人生の指針のようなものがある。 前提1:私は死にたい 前提2:私は自分のまわりの人間みんなに幸せでいて欲しい。 前提3:私は、暴力的なことが嫌いであり、特に暴力性が自覚されている状態で行われる暴力が嫌いである。 前提4:誰かの人権が侵害されるわけでなければ、私は功利主義的に行動する。 それぞれの前提の中で、意味する範囲が被っているものがあるが、細かいニュアンスを伝える為にあえて記載した。私は前提の通り、暴力性が孕まれた行いと、