『くらげの空で浮かぶ』-2- 向かう場所を失うターミナル (2/6章)/小説
「驚いたでしょう?」
廊下を歩きながら海月は笑みをこぼす。本当だよと僕は案内されるままに居室が並んだ壁を眺める。日の光で古ぼけた真珠色をしていた。
観客席によく似たデイルームの隣には開き戸があり、先には廊下と居室が並んでいる。僕はやっとケアハウスらしいと見慣れた光景にホッとした。
しかしそれもつかの間、隣には記憶の奥底にいたはずの海月が歩いている。とても浮き足立って、落ち着かない。
僕たちの再会を冴子は手を叩いて笑い、理由を話さず喜んでいた。そして海月へとケアハウスの案内を頼んだのである。
「そりゃもう驚きだよ。来る場所を間違えたのかと思った」
僕が心情を吐き出すと、ふふふ。と海月は両手を後ろに組んで笑う。見た目は変わらずとも、昔に比べ落ち着いた笑い声を上げるようになっていた。
僕たちの間には互いに知らない十年に近い時間が流れているのだから無理もない。果たして変われているのかは疑問だった。
「とりあえずケアハウスの紹介をするね。さっきまでいた場所がデイルーム。あそこで。入居者さんたちは調子のいい時に食事をするの。昔はバンドなんか呼んでライブとかしてたんだって。すごいよね」
「まさに人によっては夢のケアハウスだな。で、ここが居住スペース? 相花さん?」
「あはは。海月でいいよ。私も椎名くんのことは蒼葉って呼ぶから。その方が気楽でしょ? このケアハウスはとても小さくて十個のお部屋しかないの。廊下はコの字型に伸びて、それぞれのお部屋がある。結構広いんだよ?」
「ならお言葉に甘えまして。職員は海月しかいないのか? 」
基本的にはね。と廊下を歩きながら窓の外を海月は見る。窓の外には小さな中庭があり、曲って伸びる枯れた木と自由気ままに背丈を伸ばした雑草が茂る。手入れが行き届いていないのはすぐにわかった。
「もう三人の入居者しかいないから、日中は私の手でも十分に足りているよ。でもみんな少しずつひとりでは身の回りのことができなくなっている。歳を取っちゃったからね。だから私はみんなのお手伝いをしてるの。ってここら辺は蒼葉の方が詳しいんじゃない? 結局、あれほど怖がっていた理学療法士になったんだね」
「経験したのがよかったのかもしれないよ。最後の試合には間に合わなかったけど、少なくとも痛みなく歩けるようになったから。でもあのクリニックにはもう行きたくないなぁ」
両手を組んでこぼすと、そっか。と海月は視線を廊下へと戻す。廊下の端ではなく、海月の瞳はどこか遠い場所を眺めている。眺める景色は僕と一緒にいた水族館だろうか。わずかな時間を過ごしただけで、クラスメートの誰よりも、海月が僕の中にいた。もし同じだったら? まさかな。と首を横に振る。
「ねっ? 仕事は順調? 人生は楽しい?」
「急にまたそんな。楽しことばかりじゃないのが人生。ということは社会に出てからも学んでいるよ」
大変だ。と海月は大きく伸びをした。僕は先日の山伏主任とのやりとりを思い出したが、今はどうでもよくなっている。
「それで僕は何をしたらいい? 何もまだ知らなくて・・・恥ずかしいことだけど」
「うん。では事情を説明します。結論から言いますと、このケアハウスは半年後には跡形もなく消えてなくなります。ここを経営することはもう難しいんだって。それぞれの居場所は地域包括支援センターとか、それぞれのケアマネージャーさんたちが調整してくれているところです」
「それって・・・ケアハウスってケアマネージャー、介護相談員は常勤である必要があるんじゃなかったっけ? 」
「手伝ってはくれている。だからここは名ばかりのケアハウスってことになるね。今風にいるとシェアハウスっていうのかな? 名前と形ばかりのケアハウスって感じ。詳しい手続きなんかは冴子さんに任せてあるから、よく知らないの。でもちゃんとお給料は出ているからまぁよし。だね」
「そんな無茶苦茶な・・・」
「でしょ? でもだからこんなにも自由で気楽なのかもしれないね。それぞれの生活はすべて自費で賄われているもん。それはもう終わっちゃうけど」
海月はうつむき目を伏せる。見た目も中身も自由気ままである。まだ受け入れられない僕を海月が見上げて口を開く。
「ケアハウスには三人の入居者さんがいて蒼葉に頼みたいのはケアハウスが潰れる前に、にできるだけ介助量を減らしておいてほしいの。そうすれば安価な施設にも入りやすいからって。もちろん家に帰れたら最高だね!」
人が生活するために必要な介助の量を減らすのは、理学療法士として重要な仕事の一つである。ある意味、身の回りのことが自身でできるということはそれだけ選択肢も増えるということだ。逆に介助量が増え、医療的な介入が増えてくると、選択肢は狭まりそれだけ費用がかかる。
金額に糸目をつけなければもちろん選択肢は増える。人がひとり生きるために誰かを雇うということは莫大なお金がかかるのだ。生きる場所を選ぶためにもリハビリが必要である。
担当症例が三人だけというのは病院で働く療法士と比べても少ない。しかし安心して業務ができるのは、設備の整った病院に設された場所だ。それは不測の事態が起きたとしても対応できるということだ。
自分ひとりで入居者のリハビリができるのだろうか。僕はまだ入居者の顔すら知らない。
「私もそんなに難しいことは実はよくわかってないの。でも正直、蒼葉くんが来てくれてホッとしたのは事実かな。まったく知らない人なんかより信用できるから」
「頼りなくてもか?」
うん。とニッと口を大きく広げながら笑みを浮かべる。海月のきっと水族館での一時間を覚えているのだろう。たったひとことで確信してしまうくらい、混じり気のない瞳だった。
「もうギプスも付けてないし、松葉杖がなくても歩くことができるでしょう?」
「はるか昔の話だな。 もしかして歩き方が変?」
「全然変わってないんだね。比喩だよ比喩! やっぱり蒼葉はまだ結婚してないでしょ? それどころか彼女すらいないねー」
ぐっ、と僕が息を飲み込み、腕を組むとクスクスと海月は口元に手を当て笑みを堪えている。
「あーなんか。久しぶりに笑った気がした。それじゃ頼むよ。椎名蒼葉先生」
先生はよしてくれ。と僕は腕を組みまっすぐと見つめる海月の瞳を見返す。
「とりあえず入居者さんに挨拶へ行かないか? 何をするにも情報が全然足りない」
どうぞどうぞ。と海月は僕の前へと進み。僕は後に続いた。足取りは軽く普段からそうなのだろうかと疑問に思う。状況はどう考えても悪い。入居者にとっても、海月自身にとってもだ。緊張感が胸を満たしていく。
曲がり角の引き戸をノックして開けると音もなくドアが開く。部屋の中でベッドに横たわる男性が見えた。
思ったよりも部屋は広い。ひとしきり視線を動かし評価する。
ベッドとテレビの間には車椅子が置かれていて、ユニットバスも設置されている。テレビの横にはタンスが置かれており、ベッドとの間は車椅子でも悠々と移動できるほどである。
「まだ寝てるのかな? このお部屋にいるのは河本 雅吉さんっていう庭師のおじいちゃん。雅吉さーん! 」
海月が声をかけると、ベッドからもう起きているよ。とまだ眠気の取れていない声がゆっくりと聞こえる。
失礼しますと僕も声をかけて、海月と並んで部屋に足を踏み入れた。草木の湿り気をまとった匂い。窓元には苔に埋もれる盆栽が飾られていた。僕の知るありふれた盆栽よりもずっと枝葉が多い。
雅吉はベッドから頭を出している。長い白髪が枕の上に広がっていて、縦長の顔と頬には深いシワが刻まれている。
「ちょっと起こしてくれないかな。わかっているとは思うけど、ひとりで起きれないんだよ」
はーい。と海月は座ることのできない雅吉の布団を取り、起き上がるのを助ける。思ったよりも雅吉は小柄だった。ベッドの端に座ると肘を膝に置き、雅吉は僕を見上げた。
肩周りの筋肉は硬く膨れて固まっており、二の腕から指先にかけてとても痩せている。反面、手の甲は触れたら弾けてしまいそうなほど腫れていた。
「おぉ。冴子さんが言っていたリハビリの先生かい。よろしくな。あいにく握手の一つでもしたいところなんだがね。痛いし重いしで動かせないんだよ。情けないことに仕事中に脚立から落っこちてな。首を打ってこのざまだ。歩けはするけど腕が動かねぇんだ。医者からは命があってよかったって言われたけど、まぁ。これは日頃の行いかね」
ひっひ。と自重気味に笑う雅吉は僕を見上げる。転落外傷による頸髄損傷による後遺症だろうか。首筋に手術痕があり、固定術後なのだろう。
首から伸びる神経は脊髄の首元、頸椎と呼ばれる場所から分岐して指先まで伸びている。
神経にダメージを受けると動きは阻害され、時にはひどい痺れにもよく似た痛みを帯びる。運が悪いと首から下が動かなくなり、時には命を奪われる。
運がよかったら症状はないか、両腕に軽い麻痺が起こる。どちらにしても手術が必要になるほどの脊椎の外傷は、日常生活を強く制限する。
「初めまして。椎名と言います。失礼ですが手に触れてもよろしいですか?」
いいよ。とつぶやくような声で、片膝を落とした僕に雅吉は言った。腫れた手の甲へ落とされた視線は冷たく、諦めと恐怖が混在してた。障害を認めるということは、仕方がないと諦めるか、それとも希望を抱き続けてリハビリを続けることに起因するかもしれないな。と思う。雅吉はもちろん前者である。腫れた手の甲が僕にそう伝えている。
失礼しますと僕は雅吉の手に触れる。外気に触れた手は冷たく水の入った皮袋のような感触がした。動かせますか? と僕が言うと雅吉さんは少しだけ指先を動かした。眉間には深いシワが寄り、肩までぐっと力が入っていた。海月は僕と雅吉を交互に眺めている。
「動きますね。痛みが強く動かせない間に浮腫んでしまって、動きを邪魔しています。動かそうにも痺れが邪魔して動きにくくなっている。試したいことがあるのですが、よろしいですか?」
お好きやってくれよ。と眉間にシワを寄せながら、雅吉は必死に指先を動かしている。目を凝らさなければ見えない程度の動き、でも動いている。たった少しでも動かせるか、そうでないか。ふたつの差は大きい。
「海月。ちょっと暖かいお湯と冷たい水を持ってきてくれないかな。それぞれ洗面器に入れてこぼれないように」
「ん? 別にいいけど。これがリハビリ?」
「そう。これもリハビリ」
僕は指先から手の甲に向けて関節をゆっくり曲げて伸ばす。指を曲げること、指も広がることも確認し、雅吉にも力を入れてもらいながら一緒に動かし続ける。
へー。と海月は目を丸めて興味深く眺めるとすぐに部屋を出て、薄い青色の洗面器を二つ持ってきた。部屋の隅に置かれた小さなキャスター付きのテーブルを寄せてふたつの洗面器を置く。
「こっちが暖かいのでこっちが冷たいやつ。これでいい?」
「ありがとう。雅吉さん。まずはこっちの暖かい洗面器へ手を入れてください。温もりを感じたら次は冷たい洗面器、その後に暖かい洗面器と何度も繰り返していきます。繰り返している間も少しでいいので指先を動かしてください」
「言いたいことがわかったよ。サウナと水風呂を行ったり来たりするようなもんだろ? また入りに行きてえなぁ」
またいけますよ。と声をかけると雅吉はやっと口元を歪め笑った。希望にかたむいているなと雅吉を見て、目元にはやわらかな曲線が描かれていることを確認して僕はホッとする。
僕は雅吉の手を支え洗面器の中へと入れる。ゆっくりと指先から指の付け根まで動かせる範囲を増やしていく。暖かいお湯がぬるくなるまで交互に続けた。腕を持ち上げ手の甲をほぐすマッサージの後、指を伸ばすと浮腫んで腫れ上がっていた手の甲に、少しだけシワができた。
「ごく一般的なリハビリの一つですが、こんなに効果もあります。痺れて辛いかもしれないですが、動かせるうちは動かすこと。そして、できればベッドへ横になっている時も、お腹の上に手を組んで高い位置にあるようにしてください。痺れは少しマシになりました?」
「あぁ。お湯に入れている時はとくに痺れが楽だったよ。そういや海月ちゃんがお風呂に入れてくれる時も痛みが減ったなぁ」
「もう。それならそうと言ってよ。でもだからと言ってこんな方法は思いつかなかったけど。すごいじゃん蒼葉。ちゃんとリハビリの先生をしている」
パチパチと胸の前で水玉が弾けるような音の拍手を海月は笑顔と共に雅吉へと向ける。雅吉はよせよ。と視線をそらしながら答えた。
多分、職場で同じリハビリをやっても、周りに驚かれることなんてないだろう。でも素直に感謝されると胸の奥がむず痒く、素直にうれしかった。
「ではまずは少しずつ始めてみましょう。痺れがひどくなったり、疲れたらすぐにおっしゃってください」
はいよ。と雅吉は膝の上で小さくともたしかに指先を動かしている。日常生活はかなりの範囲で制限される。食事や更衣、トイレで下衣を上げ下げすることや入浴、数えたらキリはない。
自分でできることが増えるだけで必要な介助の量は減る。よい変化は笑顔につながる。収益に繋がらなくても些細な変化が僕たちが臨床にい続ける理由のひとつだろう。
ほらがんばって! と海月も僕の隣へかがみ、繰り返し僕と一緒に動かされる雅吉の指先を眺めていた。窓から差し込む太陽の光が伸びきって剪定のされていない盆栽を照らし、部屋の中へ刺々しい影を作っていた。
-◇-
僕たちは部屋の外に出て、次の部屋へと向かう。隣の海月はふんふん。としきりに口元に人差し指を当て、僕を見上げる。
「なんか私の知っている、と言ってもテレビで見た情報だけどね。リハビリと違うね。ほら。こう大きな平たい革張りのベッドで横になって、難しい顔をしながら足へ特殊なテクニックを・・・そんな感じだと思ってた」
眉間にシワを寄せながら両手を動かす海月が可愛らしく見えて、そうだなと僕は腕を組む。お互いの間にあった年月がすっかりと消えてしまい、高校時代の延長線上に僕たちはいる。
「海月の言った内容もリハビリだよ。本当にいろんな方法があってさっきのは本当に当たり前のような方法。でも単純であればあるほど患者自身でも自分へリハビリができるから、僕は一緒に動かす方法を選択する。僕がいなければリハビリできないとなると、ずっと自立はできないからね」
自立か・・・ふむ。と海月は一度うなずきながらその言葉を噛み砕いて心の中に落とし込んでいるようだった。思いの根底にはきっと海月の現状があるのだろう。思えば僕はまだ何も知らない。同じ時間を過ごしただけだ。
さて。と海月は右手を軽く挙げる。
「次の利用者さんは佐山 元治さんといいます。昔は立派なお寿司屋さんだったんだけど、脳梗塞になっちゃって右半身がうまく動かないの。前は杖を使って歩けていたけど、ここ何年かはずっと車椅子で立つのも難しくなっちゃった。後、上手に話すこともできないの。冴子さんや雅吉さんなんかは、私よりもずっと長い付き合いだから言っていることがわかるらしいけど、私には難しいんだよね。もともと無口な職人気質だから変わらん! 冴子さんは笑っているけど・・・なんで脳梗塞になるとしゃべれなくなるの? 」
「脳梗塞になると全員がしゃべれなくなるわけではなくて、とくに右の麻痺になると失語、という症状が発症することも多いんだよ。脳みそは左右にわかれていてそれぞれが反対側の半身の動きを多く支配していて、脳梗塞の起きた反対側の半身が麻痺する。元治さんの場合は右片麻痺だから左の脳に梗塞を起こしたんだね。そして左の脳は優位半球とも呼ばれて言語をつかさどる部分がある。簡単に話すと、言葉をつかさどる部位自体かその部位に近い部位の障害だと、思っていることが話せなかったり、そもそも言葉がわからない。失語という症状が出るんだよ」
むずかしいなぁ。と海月は言って、難しすぎたかと僕は腕を組む。目に見えてわかる体の障害よりもずっと、目には見えない障害ほどわかりにくい。
「言葉が出てこないのはとても辛くて、もどかしいだろうね」
「うん。だから話さなくてもわかってくれる人の存在はすごく大きい」
話すことができなくなっても必死に言葉を紡ごうとして、伝わらなくなると話すことすら止めてしまう。言葉数は少なくなり、うなずくだけになる。そして言葉を失っていくのだ。失語は話せなくなるという症状よりも、喋る意思を奪うことが問題である。
話せない孤独は実際に体験するまでわからない
海月に簡単な説明を終えて、雅吉の部屋から三つ離れた場所に元治の部屋へと向かう。
入るよー。と海月は何度かノックをして扉を開く。部屋の中央にいるのは僕よりも体の大きいがっしりとした体つきの男性だった。車椅子に乗ったまま外を眺めている元治の頭は、綺麗に剃られており丸い形のよい頭をしている。後頭部にはシワがより藍色のセーターに包まれている。両肩はがっしりとしており骨太の体躯は、車椅子への乗り移りや入浴といった介助が大変だろうことは想像できる。
「元さーん。前に言ったでしょ? リハビリの先生が来てくれたよー」
海月は元治に近付き、車椅子越しに声をかける。つるりとした頭が何度かうなずくのが見え、海月は車椅子を器用に回転させた。
元治さんは僕と目があうとゆっくりと微笑む。どこか空の色に似た深い瞳を包むような堀の深い顔をしていた。眉毛があるはずの部分は盛り上がっており、ふっくらとした唇が結ばれたままである。
さぞかし全盛期には迫力のあるお方だったあろうな。と思いながら僕はでっぷりとしたお腹に乗った、ぐっと肘が曲がったままで握られる手を見る。そして右足の古ぼけたベージュの短下肢装具へ視線を下ろす。
ふくらはぎから足先へと伸びる、プラスチックでできた装具だ。
痩せた足には大きすぎる装具のベルクロ部分はくたびれていて、先端部分が剥がれかかっていた。これは右足、とくに足首部分の動きがまだ障害されていることを指す。短下肢装具はもともと足首が伸び切ったまま固まらないようにであったり、立ち上がりや人によっては歩くことをサポートする目的で医師から処方される。
大柄な人は力がある分、誰かの介助が必要なった途端、大柄な体型自体が介助する側の問題となる。小柄な海月は車椅子に乗った元治の後ろから顎先を天井に向けた。
「理学療法士の椎名です。初めまして」
僕に向かって元治はゆっくりと唇を開こうとして、唇を少し振るわせた後、口を閉じる。言葉はちゃんと通じている。
「大丈夫です。焦らずにゆっくりと」
元治は一度うなずき、そしてもう一度口を開く。
「よろす・・・よる・・・よろしく」
「そうですね。まずは焦らないことです。焦れば焦るほど言葉が出てこないのは僕たちも同じですから。よろしくお願いします」
満足したのか元治は頬のシワを深める。正面を向き笑みを浮かべ、ふっくらとした顔中にシワが広がった。そういえば部屋に入った時、元治はずっと窓の外を見ていた。
「少しお散歩しましょうか。リハビリがてらにちょっと車椅子をこいでみましょう」
今度は海月が首をかしげる。
「元さんには難しくない? 私が手伝おうか?」
「大丈夫。車椅子のこぎ方にもコツがあるし、まぁ全部とはいかないけれど」
元治の顔には同意を表すまっすぐとした瞳が僕に向けられている。
僕は元治の左手を車椅子の車輪の外にある部分へと導き、左足が乗ったフットレストと呼ばれる部分から床に足を下ろす。
「左手でまっすぐこいでください。でもそのままだったら車椅子は右側に回転します。なので降ろした右足で舵取りをするように方向を定めてください」
わかった。と言葉が聞こえてきそうなほどの、しっかりと表情で元治は頭を上下させる。そして息を吸い込むと左手に力を込めてぐっと前へ車椅子をこいだ。
元治の勢いは十分過ぎて、前にいる僕へと右足の乗ったフットレストがぶつかり、ぬっと僕は口を歪めて作った笑顔のまま硬直する。海月は一瞬驚いた後で、ブッと吹き出しケラケラと笑い声を上げて、目の前で元治もまたくっく。と笑みを含んだ。
「力は十分あるみたいですね。では・・・外に出ましょうか」
僕は元治の左横へと移動して、車椅子をこぐ左手と方向を定める左足のサポートしながらゆっくりと部屋の外にでる。海月はがんばって! と元治に声援を送りつつ僕と反対側から元治に寄り添う。暖房の効いた温かな部屋で元治の額には汗がにじむ。
元治は車椅子のこぎ方のコツをつかんだのか、部屋の外に出るとデイルームの方向へと自ら舵を切った。半身だけで車椅子をこぐことは意外と重労働だ。車椅子の後ろに重たい重りを乗せたまま、引っ張っているような錯覚にも陥る。僕は思っていたよりもずっと残された半身には力が残っていたのだろう。
元治は廊下を進み、デイルームの入口へとたどり着く。海月は開き戸をすっと開けるとデイルームというよりもライブハウスに近い光景が広がる。中央で冴子がひとりステージを眺めていた。
冴子は僕たちがデイルームに訪れた音に気がつき、そして中央で車椅子をこぐ手を止める。ヨッ! と左手を挙げる元治を見てガタリと立ち上がった。
「なんだい。久しぶりに部屋から出てきたと思ったらそんなことができたのかい。早く言いなよ。面倒くさい」
「さっき蒼葉と一緒に練習したらすぐにできるようになっちゃったんだよ」
少しだけ息を切らせた冴子に海月は眉間に力を入れて、興奮を抑えた表情を隠している。たったこれだけだ。目に見えるだけで違うのだ。僕は腕を組む。
「元治さんは力があって、器用なのかすぐにできましたよ。結構練習がいるはずなんですけど」
そうだねぇ。と呼吸を整えた冴子を腕を組む。
「昔っから飾り包丁なんか得意だったからねぇ。体つきも無駄にいいし。無口なところも全然変わらない」
ニッと、元治は頬いっぱいに笑みを浮かべ左手の親指を立てる。はいはい。と冴子は首を振る。
「俺は楽しんでいるぞ。お前も楽しめよ。そう言いたいんだろう? あんたの決め台詞はもう聞き飽きたねぇ」
冴子は静かに目を伏せて笑みを浮かべている。僕と海月は互いに目を合わせた。ふたりの間に介在する長い長い時間を感じた。僕と海月よりもずっと色濃く、さまざまな時間の色を含む。
「本当に言っていること、というか言いたいことがわかるんですね」
驚いていると、言ったでしょ? と海月は僕の顔を覗き込む。冴子はあきれたようすでテーブルから椅子を引き、腰をかけて足を組む。
「そりゃぁ元ちゃんとも雅やんとはもう半世紀くらいの付き合いだからね。言葉なんてもう意味を持たないよ。ゾッとする」
へっへ。と元治は笑みを浮かべている。雅やんとはきっと雅吉のことだろうと聞かなくてもわかった。そしてケアハウスには三人の入居者がいるということだから、きっともうひとりいるのだろう。
「えぇと後ひとりの入居者はどちらにいらっしゃるのですか? 」
僕が尋ねると海月は笑みを含み、冴子は盛大にため息を吐く。
「あんたの目の前にいるよ。あたしが最後の入居者兼、管理人さね。海月は教えてくれなかったのかい?」
「驚かせようと思って。ねっ! このケアハウスのお話を蒼葉にも聞かせてあげてよ」
正直興味がある。ケアハウスにライブハウスがくっついたような作り、半世紀以上の付き合いをしている三人の昔話。元治が冴子をまっすぐ見て、眼差しは昔話を促していた。
わかったよ。と冴子はテーブルに肘を置き天井へと視線を移す。楽しい過去を思い浮かべる時に限って人は、自分より高い場所を見上げるのはなぜだろうか。失われた思い出は胸裏よりもずっと高い場所に漂うのかもしれない。
「特別なことはないんだけどね。ここはもともと私のお城。スナック薫があった場所さね。あたしの名前とスナックの名前が違うのは、店長があたしでもオーナーが薫って名前だけの理由さね。深い意味はないよ。腐れ縁が元ちゃんと雅やん。昔はもっとたくさんいたけどね。みんな死んじまったか、どっかで寝たきりさ」
冴子は口元に人差し指と中指を伸ばして近付ける。紫煙を燻らすような仕草の先にタバコはない。でもしっかりと僕には燃えながら灰を伸ばす紙タバコが見えた。冴子は続ける。
「楽しかったねぇ。仕事終わりから朝まで馬鹿話をして歌なんか歌ったりしてね。あたしの美声をもう聞かせられないのは残念だけど。還暦を超え出す常連客も増えてきて、みんながみんな独り身だったし、時代もすっかり変わっちまったからね。生きていくのにもお金がかかる。でも仕事もないし自分の今までの生活を続けるのも困難だ」
僕は黙って話を聞く。冴子の視線はステージの上を行ったり来たりしていた。まだきっと過去の情景はありありと冴子の脳裏で浮かんでいるのだろう。
「そしてオーナーが死んだ。そこのね、カウンターでぶっ倒れた。くも膜下出血だって医者は言ってたけど、身寄りのないオーナーは・・・まぁ長年働いたスナックで大往生したってわけ。それであたしらの考え方も変わったんだよ。ひとりでは死にたくないってね」
だからケアハウスを作ったんだよね? と海月が楽しそうに体を揺らすと、そうだね。と冴子はまだ過去に存在する紫煙を眺めている。
本当に夢の果てだなと僕は冴子の話に耳をかたむけ続ける。
「まぁ金はあったからね。資産を出し合いケアハウスを作った。自由気ままな、なんちゃってケアハウスさね。みんなが落ち着ける場所を考えたら自然とこういう作りになったね。そん時には部屋も埋まっていて介護士やら看護師を雇って常連客のひとりだった年老いた医者も往診に来てた。バンドなんか呼んだりしてさ。元気なうちは酒さえも振る舞った。楽しかったねぇ」
冴子は一旦話を区切り、浅い呼吸を繰り返した。彼女の障害はもう僕の中では明らかになっている。診断はできないだけで、わかる症状はある。
「この世の夢の果て。今風に言うとシェアハウスっていうのかい? だけどまたひとり、またひとりと体調を崩して病院に運ばれていって、戻ってはこなかったよ。寝たきりで戻ってきてもここで生活はできないからね。そしていつしかあたしら三人だけになって維持するのももう難しいんだ。死にたい場所で死ねない世の中っての残酷なものさ。まさにこの世の地獄ってことだね」
ゆっくりと深い深呼吸で節の合間を作り出しながら、冴子は話終わると、身をかがめて深く息をする。
高齢者が自宅で終末を迎える数は多いように見えて非常に少ない。大多数が病院で、そして介護付きの施設で亡くなっていく。
誰もが望んでそうなるわけではない。どこかで生きるのを諦める人もたくさん見た。
「そして私が働きに来た。最初は先輩がいたけどすぐ辞めちゃって、私と夜に来てくれるバイトの看護師さん。私が来れない日には臨時で介護士さんが来てくれる。よくやっている方じゃない?」
ギリギリだけどね。と冴子が疲れた笑みを浮かべた。そして閉じられようとしているケアハウス・・・とは名ばかりの生活の場で残る住人は、次の場所を探す必要がある。
僕の使命は入居者が次の場所が円滑に決まるように、できるだけ身の回りのことを練習して、これ以上の介助が必要にならないようリハビリを行うこと。
本人たちが自分の終末をいくら望もうとも、望まなくてもだ。考え込むと体が地面から浮いてしまったような気がした。
なぜかはわからない。
言葉を返せずにいる僕へ冴子は足を組み直しながら目を細めつつ顔を向ける。その仕草は冴子の昔話を聞いてしまっているからか、なるほど堂に入っていると僕は腕を組む。過去を知ると途端に目の前の人が実態を持つ。影が増しコントラストの深みに合わせて、ようやく形作られていく。疾患を患らった患者から、不幸な入居者からようやく人となって目に映る。
「そんであんたのとこの理事長さんにお願いして理学療法士を派遣してもらったわけ。まぁベテランがいいって言ったんだけど贅沢は言わないさ。まぁ海月と知り合いだったとは思わなかったけどね。それなりのお金を払ってんだ。ちゃんと働いてもらうよ」
「はい。リハビリは僕たちの仕事ですからね。大丈夫。慣れています」
慣れているねぇ。と冴子がため息を吐くと、開き戸の開く音がする。
雅吉が動かない腕をかばうように、肩を扉へ押し当てながら扉を開いていた。雅吉は両手を下に垂らしたまま僕たちを見渡す。はは。と乾いた笑いを上げた後で目を細める。懐かしい写真を眺めているような瞳だった。
「なんだ? みんな集まって。俺だけ仲間はずれかい? また新人いびりしてるんじゃないだろうな? そういう指導の仕方は時代遅れだって。前に入った新人の可愛い女の子にも・・・」
「そんな話。もう三十年くらい前の話だろう。よく覚えてんね。まったく。そういうところだけ」
雅吉の言葉をさえぎって冴子が首を横に振る。破顔して笑い続ける雅吉、シワを増やす元治の間には、刻まれた長い歴史が流れていた。安易には立ち入れず、立ち入ったのなら抜け出せないほどの深さだ。
病院とは違う場所であるからか、医療従事者と患者という言葉の境は消え去っている。心地よくもずっと責任が重く伸しかかる。
失敗は許されない。失敗を許してくれる人はここにいない。
「ねっ? 意外といいところでしょ?」
海月は僕の隣に並んで肩越しに僕を見上げ、我に帰る。
「ともかく。なんだか僕もみんなが好きになったよ。後、海月が普段行っているタイムスケジュールも教えてくれない? 手伝えることはあるかもしれない」
「さてさて 蒼葉くんにできるかな? それともリハビリの先生だから余裕かな?」
海月はふわふわと体を揺らして、僕は先生と呼ぶのは、よしてくれと答え、昔話に華を咲かせる三人を後にした。
-◇-
「・・・ふぅむ。これは指導の必要がありますね」
キッチンで包丁を握り、人参を必死に刻んでいる僕の隣で、海月はため息混じりに腰へ手を当てた。
「大丈夫。とにかく人参の皮を削げばいいんだろう?」
「それにしても斬新な皮の剥き方だ。逆に新鮮」
僕は人参を片手に持って先端をまな板に押し付けつつ皮を剥ぐ。海月は隣で器用にスルスルと片手に人参を持ち、もう片方の手で皮を綺麗に剥いている。
こうも違いが出るものかと、分厚く切られた人参の皮を見て僕はため息を吐く。海月はそれを見てクスクスと笑っていた。
「リハビリの先生はなんでもできると思っていたけど、そうじゃないみたいだね」
「えぇと。これは僕が苦手なだけであって他の人はそうでもないよ」
きっと。と僕は心の中で言葉を付け加える。自宅へ帰るために必要なのは歩くだけではない。多くある日常生活を練習する必要があり、もちろん指導する側である自分たちも、指導するべき動作を行える必要がある。
生活する場所で必要な動作を知らなければ指導することはできない。上手かどうかはさておいてである。
昼食の準備をする前にはまだひとりではトイレに行くことができない元治のオムツ交換を行い、食事の準備を終えるとひとりではまだ食事を取ることができない雅吉の食事介助がある。次はそれぞれの入浴であり、その間にも洗濯や買出しといった関連する仕事もまたある。
やってみてあらためてわかったのは、業務の多忙さと、海月の手際のよさである。
病院では看護師や介護士に日常生活の介助を任せていた。そして必要時に動作を評価し、適時よりよい方法を考える。そのため一日中業務を手伝って恥ずかしながら苦労を知った。
僕はあらためて痛感している。経験しなければわからないことばかりなのだ。
海月はよく働いていた。もちろん介護士の中には場所によって何十人をひとりで介護しなければならない状況すらある。人ひとりの生活を支えるだけでも大変だ。
介護の中には転倒や窒息を起こさないという危険も隣り合わせであり、時間も限られている。
学生時代にぼんやりと水槽を眺めていた彼女とはまったく違う。本当の海月を知らなかっただけだな。と海月と一緒に根菜をやわらかく煮込みながら思った。
「さて。雅吉さんの食事介助が終わったらみんなの入浴介助。男手があるのでありがたいです」
「いつも全部ひとりでやってるの?」
「もっと大変な場所で働いている人はたくさんいます。むしろ私は恵まれている方だよ。冴子さんたちも優しいしね。あっ冴子さんは私ひとりでやるから。そういうの嫌がる人だからね」
僕は肩をすくめる。まだまだ未熟だとキュッと胸の奥が締め付けられた。当然のように僕も付き添おうと考えていた。指導するべき内容があるために。
「そうだ。冴子さんの入浴介助する時、試してほしいことがあるんだけど、いい?」
「私にできることならね。それもリハビリ?」
「うん。冴子さんは慢性閉塞性肺疾患だろう? 細い気管支から肺が障害されて呼吸ができなくなる病気で、息を吐き切ることが難しくなって普段通りの生活をしてても息切れしてしまうんだよ」
「息を吸えなくなるんじゃなくて全部吐けなくなるの?」
「そう。だから息を吸えなくなる。なのでこう口笛を吹くように息を吐き切るように伝えて、お風呂に入る時にはまず座って更衣してもらって、その都度、口をすぼめる呼吸を促してもらえるかな。そしてシャワーを浴びる時、とくに頭を洗ったり、洗面する直前にも同じように深呼吸を促してください。それでちょっとは楽になるはず」
ふむふむ。と海月は僕の言葉を噛み砕いて理解しようとしているようだった。一気に話しすぎたかと言葉を選んでいるとわかった。と海月は包丁を置く。
「なるほどねぇ。冴子さんと一緒にやってみる。リハビリって汗水流して運動するってイメージだったけど、それだけじゃないんだね。雅吉さんの時にも思ったけど」
「そうだよ。目的は生活を楽にすることでもあるから。しんどい思いは誰だってしたくはない」
そうだねぇ。と海月は煮物を混ぜる手を止める。口元からふわりと消えていく言葉と、落とされた視線の先に見える景色はどんな景色なのかを無性に知りたくなった。
「さぁ。午後からもがんばりますか!」
もうすでにがんばっているよ。そんな言葉を飲み込んで僕は盛り付けられたお皿を持って、海月と一緒に配膳へと向かう。
食事介助を済ませ、僕は元治と雅吉の入浴を手伝う。真冬とはいえど浴室の温度は当然汗を掻くほど暖かい。元治が立ち上がるのを介助し、雅吉が体を洗うのを手伝った後、それぞれの髪を乾かし更衣を手伝う。更衣を終えるころには疲れで僕は肩を落としていた。冴子さーん。と元気よく声をかかわ海月が、冴子を浴室に入れて扉を閉めるのを確認して、僕は壁にもたれかかった。
体力には自信があったのだけど、スポーツとは違う疲労を感じる。入居者の生活を守りながら同時に、怪我をさせてはならないという緊張感が常にあるからだろう。
気がつくと黄昏時に窓辺から差し込むタンポポ色をした西日が差し込み、居室へと続く廊下へ格子型の影を伸ばしていた。
デイルームへと戻ると元治や雅吉はおらず、夕飯の準備は昼食と並行してもう終わっていた。
窓のないデイルームには静かな照明に包まれている。壁際に灯る足元灯が段差の部分だけを照らしていた。上映中の映画館へ足を踏み入れた感覚とよく似ている。
ほどなくして冴子さんはつやつやとまだ湿った髪をまとめながら気持ちよさそうにカウンターに寄りかかり、隣には得意顏の海月がいた。
「蒼葉に教えてもらったとおりにやってみたら冴子さんすっごい楽そうだったよ」
入浴前に指導した、病院では当たり前のように行われる呼吸法。たったこれだけで。とあきれるくらい単純な方法でも、知っているのと知らないのとでは違う。
「よかったよ。冴子さんもどうでした?」
僕が冴子さんの顔を覗き込むと、まずまずだね。とそっぽを向く。素直じゃないなぁと海月がクスクスと笑みを含むと、玄関のチャイムが鳴り、続けて扉が開く。
「それじゃ本日最後の仕事。夜勤をしてくれる看護師さんへの申し送りだよ」
「了解。どんな人?」
ケアハウスで働いているくらいだからきっとド派手な格好の・・・と予想した僕はドアを開き、舞台へと足を踏み入れた看護師を見る。
ピンクのスクラブに身を包んだ女性は、ふっくらとした体型をしていた。
茶色の髪には白髪が混じっていて、丸い顔と同じくらい丸い瞳がくるくるとあたりを見渡している。まるで可愛らしいフクロウを思わせる女性は、あら! と僕を見るなり口元に手を当てた。
「看護師さんの中山 友美さん。ベテランの看護師さんだよー。事業所から交代でうちに来てくれるの」
お世話になりますと頭を下げ、あらあらあら! と声を上げながら小走りで僕に近付き顔を見上げる。
「なんてまぁ。話には聞いていたけど若い療法士さんが来たものねー。それになんだかもう仲良しさん?」
それは・・・と僕が口を開くのを待たずにへへ。と海月が口を開く。
「なんと高校の同級生だったのです。びっくりだよね」
あらぁ! と小柄な背筋をピンと伸ばして友美は僕と海月の顔を交互に視線を移す。仕草はまるで本当のフクロウみたいで僕は笑った。
「ええ。しばらくの間こちらで可能な範囲ではありますが、生活指導や運動療法を行うことになりました。えぇと申し送りですが・・・」
うんうん。と海月と一緒に友美へと今日に行ったリハビリとケア、体調の変化などを申し送る。それでも普段と大差なかったから申し送りはすんなりと済んでしまった。
「それじゃ。お夕飯の準備を手伝って帰るね」
海月がエプロンの紐を解こうとすると、友美はまっすぐと右手を伸ばして首を振る。有無を言わせない張られた胸に、海月も、海月を手伝おうとしていた僕も止まる。さすがに迫力があると病院の看護師、それも師長の姿を思い出した。
「夕飯の支度はいいから。今日はもう帰りなさい。いつも働きすぎてるんだから。それに・・・リハビリのお兄さんはしっかりと海月ちゃんを駅まで送ってあげてね。こんなに可愛い若い女の子なんだから絶対よ!」
いつもひとりじゃんと海月が口を尖らせても、頑として友美は首を縦に振らない。
「それではお言葉に甘えて、基本的に僕が休みの水曜日と金曜日にうかがうことになると思います」
「あれ? 土日が休みじゃないんだ?」
海月は僕を見上げて首をかたむける。説明していなかったなと、僕は首筋に汗を拭う。
「うん。僕が働いている別府院は毎日リハビリがあるんだよ。患者にとっては大変かもしれないけれど、シフトで休みが決まってるんだ。僕は上司が基本的に休みを取る土日は出勤だから、自然と休みは平日になるんだよ」
「へぇ。それじゃ患者さんが大変だ。でも平日に休みだったら街も混まないでいいね」
「まぁ休みといっても研修やらセミナー。資格も取らなきゃ行けないし、何年も遊びに行ったことはないなぁ」
真面目だねぇ。と海月が言って、そうだよ。と僕は答える。
毎日リハビリがあったとしても患者が疲れていたり、体調を崩した時に当然リハビリが休みになる。休みだからと言って苦しみから、解放されるわけではない。
悩み続けて苦難の日々は退院まで続く。退院してからもずっと続く。続くからこそ僕もまた私生活を切り取って努力しなければならない。
僕は周りの人と同じように仕事だからと割り切ることができない。
想いを割り切ることができないのは自分の未熟さだと僕は知っている。結局のところ、罪悪感から逃げているのだろう。
幾度も繰り返した思考は祖父母の介護を続ける母と、疲れ果てて小さくなる祖父母の後ろ姿で締め括られる。
考え込む僕の瞳を海月は覗く。海月の視線に気がついてはっと僕が目を開くと、代わりに海月が口元を緩めた。
そういえば記憶の中にあるミズクラゲの水族館でも彼女は度々考え込む僕の瞳を覗いていた。まるで瞳の奥にある僕の心を覗いているかのように、わずかに笑みを浮かべながら。そんなことを思い出していると友美がパン! と両手を叩き僕は現実へと引き戻される。
「それじゃぁ後はおばさんに任せて、若者はさっさと帰りなさいな」
だね。といつしか友美の隣に立つ冴子はあきれたように腕を組んでいたよ。
また頼むよ。と冴子の声が僕たちの背中を追いかけてくる。
胸の奥に暖かい液体が満たされ、お礼の言葉は頭の中の温度を上げた。
だからこそ理学療法士は辞められないのだ。ケアハウスにある細い縦長のドアを開けながら僕はあらためて思った。
-◇-
僕と海月がケアハウスから出ると、伸びた西日は色味を濃くして街を染めていく。
住宅街の一角であるためか、誰かの家で作られるカレーライスの匂いがどこからか漂ってきた。
「なんで夕方の街を歩くとカレーの匂いがするんだろうね」
海月は楽しそうに体を揺らす。僕はなぜだろう? と腕を組む。しかしこんな偶然もあるのだなと思った。親しく学生時代を一緒に過ごしたわけではないのに、特別な思い出が少しあるだけで、彼女との間に感じる距離はこうも近く感じる。昔よりもずっとだ。もっと知りたい。僕の知らない海月の日常を知りたいと思った。
水族館での一時間も知りたい。海月を縛る日々をもっと楽にしてあげたい。
「なぁ。この後、食事でも一緒に行かないか?」
「ごめん。言ってなかったっけ? そろそろお母さんがデイサービスから帰ってくる時間なの。家に帰ってくるから待っておかなきゃなんなくて。ごめんね」
「謝らなくてもいいよ。そっか。だから学生の時は教室にあまりいなかったんだね」
「そうそう。朝のお迎えが終わって学校に行くから自然と九時前に登校して、帰ってくるころには家にいなきゃならなくて。ほら。私たちの学校は八時半から掃除が始まってそれからホームルーム。九時過ぎから授業が始まるでしょう? だから先生も事情は知っていたからギリギリ授業が始まるのには間に合ったけど、みんなには嫌われてたなぁ。掃除もしないで授業ギリギリに来て、休みも多くて休み時間は寝てばっかり。あっ寝てばっかりだったのは蒼葉と一緒だね」
それは・・・と言い出しかけて僕は口を一度閉じる。
僕は海月の事情は知らなかったし、他のクラスメートも同じだった。話してみればこうも普通なのに、昔は普通だとは思えなかったのだ。
「事情をみんなに話したらよかったのに。僕も知らなかった。知れば違ったと思う」
違いとはなにか? と考えても答えは出なかった。無責任な慰めととらえられてしまわないか不安になる。
「うーん。正直にみんなに話すことも考えたけど、だからといって状況が変わるわけでもないし、同情されるのは嫌だったからね。かわいそうだと思われちゃったら、対等に生きていける気がしなくて」
海月は右手でひさしを作って西日をさえぎる。対等・・・という言葉が引っかかる。対等ではないと思ったことはない。ないはずだ。
落とされた影で海月の表情は すっかりと隠されてしまっていた。だからね・・・と海月は続ける。
「学校が終わってお母さんが帰ってくるまでの一時間が、私が私でいられる時間だったの。ぼーっとクラゲが漂うのを眺めて、いつのまにか怪我をした蒼葉が隣にいて、なんか私もみんなと同じ学校生活を過ごせている気分になった。リハビリがしんどいって、行きたくないって言ってたクラスメートの愚痴を聞いて、冗談を言って、そんなこと。お母さんを残して修学旅行も行けなかったし、学生時代の思い出といえばそれくらい。ブレザーはもう着れないしね」
ありがとう。と海月は振り向き黄昏時の影で染まった顔を向ける。口元だけが影から逃れて笑みを作った。
そうだったのかと僕は海月の言葉をゆっくりと飲み込む。
主介助者が若いことは介助力がある。就労中でも金銭的に余裕があれば、お金や行政のサービスを使って生活を行うことができる。介護の負担を減らせば患者を自宅に帰すことができる。
それは大きな利点だと、今までずっと信じてきたし学んだ。
だけど・・・隣を歩く海月を見ていると今ではとても同じセリフを吐くことができない。
「ならさ。僕が海月のお母さんのリハビリをするよ。できることがあるかもしれない」
「どうかな? もうずっと家では寝たきりだし、手足も自分を抱き込むみたいに固くなっちゃってる。車椅子に乗せるのもやっとなんだよ。食事もなんとか取れてるけど体はもうガリガリだし」
僕は必死に思考を巡らせる。長期臥床による廃用症候群の進行。関節の硬さはマシにできるかもしれないけれど、もとの生活に戻せるとは思えない。
結局のところ自宅で生活を続けるには海月の介助が必要になる。ならば施設か療養型の病院へ・・・と考えた時ケアハウスで過ごす高齢者の姿を思い出す。
ケアハウスの入居者たちを思い出すと、僕は結論を口に出すことはできなくなった。必死に学んできたつもりなのに、答えが出せない。
腕を組みながら口をへの字に曲げていると、海月はそれに・・・と言葉を続ける。
「私が蒼葉と知り合いだからといって、そこまでしてもらうのは傲慢だね。私たちはまだなんとか生活できているし、リハビリが必要な人は病院にたくさんいるでしょう? 私のお母さんより大変な人だっているはずだよ」
遠くから路面電車の走る音が聞こえてきた。海月はうーん。と大きく伸びをした。
「まぁともかく私は大丈夫。だって今以外の生き方を知らないしお母さんがいなくなったら、どう生きていいかもわからない。でも、もし蒼葉の働く病院にお母さんが入院したら担当してくれる?」
もちろん! と僕は胸を張り右手で叩く。その後、盛大にむせ込んだ僕を見て海月はケラケラとお腹を抱えて笑う。でもきっとそうなった時に現状の生活は終わってしまうだろう。
それだけでいいよ。と海月は速度を落として近づく路面電車へ目を向けた。
海月が母の介助をしながら過ごした日々の終末。客観的にはよいことかもしれない。無理しない範囲で面会に通う程度の生活は、間違いなくお互いにとってよいはずだ。
今まで僕が繰り返し患者に提案してきた妥当と考えられる選択肢である。
駅へと到達した路面電車は僕の住むアパートは反対の方向へと向かう。海月は電車に乗り込むと、じゃぁまたね! と手を振り、僕もまた手を振って返す。離れていく路面電車を眺めながら僕はターミナルケアという言葉を思い出していた。
ターミナルとは終末期医療とも言われる、余命が残りわずかになった人に対して行われるケアとも表現される。最期まで自分らしい生き方を模索して、穏やかな死を目指すこととも言われる。
そしてターミナルとは交通機関の終着点でもある。今いる駅は終着駅の途中であって、ターミナルに海月の母も、ケアハウスで過ごす人、そして新しく病院で担当になった二三雄もまた同じなのだ。
海月の乗った路面電車はすっかりと夜の帳が降り始めた家へと向かっている。僕は海月の乗った路面電車が見えなくなるまでずっと眺めていた。
→-3- 願いと遺言のケアハウス (3/6章)(近日公開)
【心揺さぶるストーリー!理学療法士×作家のタナカンによる作品集!】
小説の中では様々な背景や状況、そして異なる世界で生きる人々の物語が織りなされます。その中には、困難に立ち向かいながらも成長し、希望を見出す姿があります。また、人々の絆や優しさに触れ、心温まるエピソードも満載です!
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