『坂道と転び方』 -1- 世界から逸脱した暗い部屋 (1/4章) / 小説 【#創作大賞2024】 《完結》
-1- 「世界から逸脱した暗い部屋」
僕の住む街は小高い丘の真下にあって、見上げるとゆるやかに続く坂道がどこまでも続いている。傾斜は登るほどに激しくなり、丘の中腹に小桜 岬の住む家があった。
二階建ての決して広いとは言えない家の玄関には、埃が積もりうっすらと白くなった車椅子がある。そして隣はベージュ色をした幅の厚いベージュのプラスチックで作られた短下肢装具が置かれている。ふくらはぎから踵を包み、足先まで伸びるプラスチックもまた、主人を失い寂しそうに埃でまみれていた。
細い廊下を抜けると岬の部屋がある。
六畳ほどの部屋は小さな時から変わらない広さのままで、中央には小さな円形のちゃぶ台、ベッドには烏格子のかけ布団がある。締め切られた遮光カーテンは昼間なのに部屋を黒く染め、丸い電灯がうっすらと部屋を照らしていた。
脱ぎ散らかされた衣服を隠すことなく、岬は壁際に置かれた大きなディスプレイを持つパソコンの前でキーボードとマウスを操っている。小さな木製の座椅子に身を預け、ふかふかとした赤い座布団は座面からはみ出していた。
肩よりも長く伸びた黒髪には寝癖がついていて、化粧っ気のない細い頬、不釣り合いなほどに大きな瞳は画面の青白い光を反射している。細く整った顎先にはうっすらとピンク色の細い唇がまっすぐに結ばれていた。
岬は昔から整った顔をしていた。綺麗だと僕が言葉にすることができないほどに。
岬は華奢な体付きで右足を抱き、左足は床に投げ出されていた。
足首は下を向いて固く人形のように固まっている。
僕は昔と同じように岬のベッドに腰かけたまま、頭の後ろで腕を組む。
「しかし、企業のCMを作るなんてテレビ局だけの仕事だと思っていたよ」
画面から視線を外さずに岬は口を開く。凛とよく通る声色なのに、言葉はどこか他人との距離を置くような響きだった。
「昔から思っていたけどキミは世間の流れから逸脱しているなぁ。藤森 誠也くん。それとも理学療法士として働いていると病院以外の情報が入ってこないのかな」
「違うよ。僕はもう理学療法士を辞めている。ただの無職な若者Aだよ」
「お互いにそろそろ口が裂けても若者とは言えなくなるけどね」
そりゃそうだ。と僕は後ろの白い壁に身を預ける。僕は今二十七歳であり、二つ年上の岬は次の誕生日で三十歳を迎える。世間からしたら立派に家庭を築き、社会的にもそれなりに安定している年代だろう。
世間の常識や正常、世間一般という普通に照らし合わせばであるけれど。
外からの光を遮りながら僅かに透過して、深い藍色をした遮光カーテンが少しだけ揺れた。
「おばあちゃんは元気かな?」
僕が言うと、岬は左足を伸ばしたまま座椅子に寄りかかる。こわばった指先は形を崩さない。細く伸びた指先は彼女の意志に従うことはなく固まったままだ。
「病院から連絡は何もないからね。祖母のことだから元気にやっているだろう。若い子に囲まれてリハビリを頑張っていると連絡が来たったきり最後だ。きっと楽しんでいるだろね」
「よかった。まぁ僕としては、岬のリハビリを頼まれているわけなんだけど。気にしていなかった?」
ふふん。と岬は楽しそうに顎先をあげた。首元が緩く伸びた白いシャツには遠い昔に買ったバンドのロゴが印刷されている。黒いジャージもまたシャツと同じく岬よりも一回りサイズが大きい。僕もまたGパンとグレーのパーカー姿である。
春を迎えようとして暖かな香りの風が満たし始めた街で暮らすには丁度良い。
「何度も言ったけど私にリハビリは必要ないよ。藤森誠也くんからのリハビリはとくに必要としていない。左の膝から先に力が入らないし、足首より先は固く人形みたいだ。君のような医療従事者が気にする正常値から逸脱した姿形だろうけど、私は気にしていないよ。ともかくいくら祖母の頼みだろうと君からのリハビリを受けるなんてごめんだ」
それに私はもう坂道を下れない。下ることはできない。と岬は吐き捨てるように続け画面に視線を落とし続ける。
「何度も聞いたよ。だからまぁ気が向いたら声をかけてくれ。岬のリハビリよりも、岬の作る作品を見ている方が楽しいから」
呆れたように、岬はあぐらをかいて右手で顎を支える。
「入院していた時みたいに、有無を言わさずリハビリさせられると思っていたけど、君は普通の理学療法士ではないみたいだね」
「だな。僕はもう普通じゃない。理学療法士とも名乗れない。だから僕はこれでいい」
「もう絵は描かないのかい? 誠也のイラストを添えたら、さらに作品の幅が広がりそうなんだけど。外注する手間も省ける」
「イラストこそ、理学療法士よりずっと前に辞めているから、きっと需要はもうないね」
岬は残念だとこぼして、視線をパソコンのモニターへと戻す。モニターには場所も知らないどこかの美容室が映し出されていて、淡い露光でハサミを動かすひとりの女性がいた。岬は個人で動画制作を請負いながら生活しているという。
立派だと思った。すっかりと岬は僕の知らない世界で生きている。
ひとりで生きていくにはとてもじゃないけどお金は足りないようで、岬は子供の頃と同じように自分の部屋に住み、両親のいない彼女は祖母と年金を頼りに生きている。
輝かしく校庭を駆け抜けて、多くの生徒たちから憧れを集めた彼女はもういない。
美術室の窓から眺めていた、多くのクラスメートの中央で憧れを一身に集めた彼女は失われている。
左の足首から先の働きと一緒に失われてしまったのだ。
他人から見て軽く見える些細な傷でも人生を一変させるほどには深い。
さてと・・・と岬は膝を立てて僕を見る。
「お花を摘みに行ってくるから、いつものようにしておいてくれ」
わかったよ。と僕は岬に背を向ける。いつものように瞳を両手で隠した。
ごそごそと岬が立ち上がり、足を引きずる音が聞こえる。
岬は決して自分が歩く姿を僕に見せなかった。こんな調子では彼女の祖母に頼まれた岬のリハビリすることは難しい。岬に触れることは許されず、岬自身がリハビリを望んでいないのだから、手は出しようがない。
音だけでもある程度はわかる。左下肢を杖のように使い、伸び切ったまま固まる爪先は右足の前に出ることはない。体をかたむけ這うように歩いているのだろう。
正常から逸脱した歩行様式。リハビリテーションが必要とされる歩き方だ。
それは歩容と形容される。歩く行為自体を歩行とするならば、歩くという様式、いわゆる歩き方、歩く様相を表現するのが歩容であると思う。
ただ、頼まれたからといって僕にはもう・・・傷を負った人にリハビリテーションを施す資格がない。
そのためか少しホッとしている。情けないほどに僕は、岬の隣で過ごすこの暗い部屋を居心地良く感じている。
僕たちは世間から求められる正常からは逸脱している。お互い知らない間に逸脱してしまった。
正しさという曖昧な言葉を信じることができなくなっている。
正常であることを求め続ける社会から、昼間だというのに暗い部屋の中で、僕たちは逸脱してしまっているのだ。
◇
僕の住んでいた都市には二十万人ほどの人が住んでいるという。全国的に見れば大きくない都市でも、数字とすると途方もない数に感じる。街を歩いても数字を実感するほど多くの人が住んでいるとも思えないし、すべての人が同じ生活をしているとは思えない。
時代が進むにつれて高齢者の割合は当然増える。
そして増える高齢者の割合に合わせて、街にたたずむ病院やクリニックの数も増えていた。
僕が勤めていた病院は市内では有数の急性期病院だった。専門学校を卒業し、無事国家試験にも合格した僕は理学療法士として、その病院に就職した。
リハビリテーションは一概に言えば、足腰が立たなくなった高齢者と一緒に歩く練習をしたり、ベッドの上で一緒に足をストレッチし、筋力トレーニングを行う。そんなイメージがあると思う。
世間の認識は間違ってはいないけれど、リハビリテーションが一般化した現在ではそれだけではない。たとえば僕の働く急性期病院では多くの疾患を扱っている。
脳卒中などの脳血管疾患を発症すると半身が麻痺して動かなくなる。そのため歩く練習は必須だけど、他にも麻痺した手足が昔と同じ動きができるように神経筋再教育、促通といった何度も必要な動作を繰り返す練習が必要になる。呼吸が苦しくなった人に対しては治療の進行に合わせて呼吸練習や体力作り、心臓の疾患に対しては日常生活の指導。といった風に細分化される。
もちろん手術をしたのならば骨折だろうと心臓のオペだろうと、翌日から立ち上がる練習も指示されることが多い。
治療が落ち着くと次は亜急性期、回復期といった具合に今度は日常生活に戻るために積極的なリハビリが増えていく。
リハビリテーションはラテン語で、再びその人らしく、もしくは再び適したという意味がある。目的は自分らしい生活の再獲得であり、多く療法士は正常を目指して目の前にいる患者に対してリハビリテーションを施すのだ。
リハビリテーションが発展するために残された数多くのデータ。目標とするべき正常で健常な人のデータによって到達するゴールが決められることも多い。少なくとも僕の働いていた病院ではそうだった。正常と異常は無機質な文字の羅列と示され、多くの研究者の努力によって得られたデータによって決められる。
医師や看護師と比較するとまだ歴史が浅い理学療法士の歴史で、これだけ世間に認められているのは先人たちの努力の上にいるからだ。そして目の前にいる患者の予後、寿命とよく似た健康寿命、どれだけ自分らしく暮らせるかのためのリハビリテーション。
だからこそ僕の同僚も、正常である動作、もしくは異常であるとされた患者がどうやって正常に近づけるか。もとどおりの動作を獲得するために日々リハビリテーションを施し、臨床の合間で研究にいそしんでいた。
僕は正常を目指すことに依存していた。正しいと思っていた。
しかし今では、僕が依存していた考えは過ちだったと気がついている。二度と立ち上がれないほどの思い出と一緒に、懺悔の言葉や後悔の念といった自責の棘が手足の先まで満たし、痺れを与える。
過ちだと考えていながら、先にある答えが思い浮かぶことはない。
そうして僕は理学療法士を辞めることにした。
これ以上、理学療法士として臨床で働くことはできないし、許されない。
それほど罪深いことを僕は、僕の誤った正しさという認識で、犯してしまったから。
僕が理学療法士を続けられなくなってしまったのは、高校時代で生じた一度目の転倒に由来する。
そして僕は今日、二度目の転倒をするのだ。
転倒とはリハビリテーションの大きな障害となる。健常な、いわゆる正常な僕たちならば、一度転んでも立ち上がることはたやすい。しかしリハビリテーションの場で転ぶということは、もちろん怪我にもつながるし、目には見えない場所で深い挫折を生んでしまう。
自分は昔と同じように歩くことはできない現実を痛感させられる。転んでもすぐに立ち上がれる人が少ないのは人生と同じだ。
誰もが強いわけではない。
その点に関しては患者も療法士も同じだ。
「本当に受け取ってもいいんだな?」
思索の中から我に帰ると目の前で、部長がデスクで僕の手渡した封筒を握ったまま僕を見ている。
僕は、はい。と静かにうなずいた。
病院の規模からしたら少なくはあるが、僕のいた三十名ほどのリハビリテーション部は、数多くの研究結果を発表する県下では有名な病院だった。病院の立ち上げから働く、百戦錬磨の理学療法士が僕の前で疲れた表情を浮かべている。
丸顔に刻まれた深いシワ、彫りの深い顔立ちとかつてはラグビーで鳴らしたという広い肩幅。ふくよかに蓄えられた腹部と高くはない身長。優しい見た目をしていても眼光は鋭い。僕は部長に新人の頃から目をかけられて、厳しくはあったけれど多くのことを学んだ。
僕は手渡した退職願と共に部長の期待を裏切ろうとしている。
「家庭の理由で退職させていただきたいと思います。今まで本当にお世話になりました」
嘘だった。僕が多分円滑に辞めることができるであろうと考えた嘘である。きっと僕の嘘は部長に伝わっているのだろう。退職理由には何も言わず部長は椅子に背を預けて、目頭を抑えた。
「理由はまぁいい。一つの病院で死ぬまで働くなんて生き方は昔の話だ。リハビリテーションの目標と同じで、自分の進むべき道は自分で選んでいい。それでも・・・こういうことは言うべきでないのだろうが、残念だ」
すみません。と僕が頭をさげると部長は静かに首を横に振った。どれほどの患者が自分の結末を選べているのだろうか。僕は心に浮かんだ考えを振り払う。
「藤森は新人の頃からよく頑張っていたからな。まぁ俺も厳しくしたことはあったが、みんなが期待していたよ。研究もたくさん手伝ってくれた。そろそろ中心になってほしいと思っていたんだがな。そればかりは仕方がない。なぁ。次の就職先は決まっているのか?」
いえ。と僕は首を横に振ると部長はデスクに両肘を置いて指先を組んだ。そして座ったまま僕を見上げる。
「そうか。家庭のことが落ち着いたらいつでも戻ってきていいからな。人生には休む時間が必要なのは、俺もこの歳になってようやくわかったから何も言わない。どこかの学術集会で会ったならまた呑もうや。引き継ぎだけはしっかりやってくれ」
なっ? と部長は精一杯の笑みを浮かべている。まぶたの深いくぼみの奥で静かに瞳が閉じられた。
◇
「そうかいそうかい。御栄転ってわけじゃないのかな?」
車椅子に乗った老人は、長い廊下の先を見据えながら言った。右手には細く背の高い彼からしたら頼りない太さの杖が握られている。
「えぇ。いろいろ考えてみようと思ってですね」
若いっていいねぇ。と山岸 達夫はつるりと髪の剃られた頭にシワを作る。病衣の胸元にあるボタンは開かれており、痩せた胸元が見えた。見た目は八十歳という年齢どおりに見えるが、年齢に対して気概はまだ若い。
僕は山岸のボタンを閉じる。今日は僕が彼に行う最後のリハビリテーションになる。それを告げると山岸は陽気に笑って、若いのはいいねぇ。と目を細めて何度も言った。
山岸は二週間前に自宅で転倒し、左の大腿骨頸部を骨折した。両足と骨盤、体の要となる部分をつなぐ大切な部位であり、骨折すると折れたままでは歩くことができなくなる。
高齢になればなるほど骨折のリスクは高まり、どんなに高齢でも手術を行うこと自体にリスクが少なければ、人工の骨に入れ替える人工骨頭置換術といった手術療法が選択される。
山岸もそのひとりで、術後から僕が担当している。手術の痛みもどうにか収まり、術後から歯を食いしばりつつ立ち上がる練習を続けた山岸は、先日にようやく歩く練習にこぎつけた。
年齢の割に鍛えられた体は僕が思っていたよりもずっと強く、すでに杖での歩行練習もスタートしている。リハビリが軌道に乗ってきたと思えても、移動に慣れた時こそ転倒は起きる。自分ができると思っても周りから見たらまだ危なっかしい。
意外と自分では転倒するとは思わないものだ。だからこそ指導する必要がある。
二度と転倒しないように、病院を出て行ける日を迎えるためにリハビリを続ける必要がある。つい先ほど山岸のリハビリを引き継いでくれる先輩の療法士に申し送りをしたばかりだった。
「歩行器歩行から杖歩行練習へと移行しています。術部の炎症症状は落ち着いており、術後廃用も高度ではないと思います。認知面もしっかりしていますし、できる範囲で自主トレーニングも行えていますから、自宅復帰が目標ですね。とくに浴室の改修を行う必要はあるかと思います。介護保険の申請はもう少し先になりそうです」
ふむ。と先輩はカルテに記された各種のデータを覗き込みながら口を尖らせた。銀縁のメガネは画面を反射して、短く刈り込まれた黒髪は針金のように太い。
「順調・・・と言いたいところだけど、まだ術側に十分な荷重をかけられていないな。そのために立脚期の時間も短く歩幅は正常と比較しても足りない。十メートル歩行速度もまだまだだな。まだ痛みも残っているのだろう。ここからもリハビリテーションの腕の見せどころだな」
なっ! と先輩は自身に満ちた満面の笑みを僕に向ける。退職していく僕へ心配はないと言わんばかりの優しさに満ちた表情。
正常と比較しても足りない。先輩の言葉だけが引っかかる。僕が病院を辞めて、理学療法士として働くことも辞める理由だ。
かつての僕は正常であることを否定された。誰かと同じでは成し遂げられないと。
だからこそ正常を求められる場所で安堵していた。答えがあるから。ただ疲れてしまったのだ。自分自身に失望したということが正しいのではあるのだけど。
正常を求めること。もとどおりの生活を求め努力し続けることは決して悪いことではないし、理想であると思う。
正常を確立するために行われる療法士たちの努力は賞賛されるべきなのだ。
もちろん僕以外の理学療法士であって、僕自身ではない。
「さて。先生! そろそろ行こうかな」
顔を上げると山岸は廊下の向こうを見据えている。右手に握る杖にも力が入っていた。
「先生は止めてください。ではもう一度歩く練習を始めましょうか。さすがに元気ですね」
「もちろんだよ! しっかり歩けるようになって、どこかの呑み屋で先生にばったり会ってな・・・酒をおごるのが今の目標だな」
「お酒は控えないと。今回の骨折も酔っ払って転倒したのが原因なんですから」
そうだったっけな? と山岸はつるりとした頭を左手でさすりながら笑い声をあげる。
僕はため息を吐きながら、山岸の明るい性格に救われながら左腋窩へ手を入れる。呼吸を合わせて立ってもらい、車椅子から山岸は一歩足を踏み出した。
僕は術側の左足へと重心を寄せるよう誘導しながら、長い廊下を山岸と歩く。果てはぼんやりとしか見えない。
正常から逸脱しないように、転倒しないようにリハビリテーションを行った。目指すべきところに向かって、いつものように。
正しさと、正常を信じられない自分のままに、山岸を支えて手の甲で浮き上がった肋骨の感触を味わいながら、臨床でのリハビリテーションを終えた。
担当する患者の引き継ぎと日勤が終わり、ロッカールームで荷物をまとめているとバッグの中で携帯端末が震えていた。端末を取り出し画面を開くと母からのメールが届いている。
『お疲れさま! いつ帰ってくるの?』
端的なメールに僕は明日帰るとだけ返事をする。同じ県下であるけれど僕は生まれ育った街から離れた場所で暮らしていた。むせかえるほどに街で漂う思い出から逃げ出したかったのだ。
本当に逃げ出してばかりだなと思い、僕はもう立ち上がれない。そんな気すら感じていた。
◇
部屋の片づけを終えて、僕は車の鍵をポケットにしまう。部屋の隅に置かれたデスクには学生時代に使った教科書や文献の束が置かれていた。
リハビリテーションと関連する医療の情報が記された教科書は、折り目がついたまま表紙の角が曲がっている。
もう使うことはないのだろうな。
僕は部屋のドアを閉め、車へ乗り込むと生まれ育った街へとアクセルを踏む。
車でわずか二十分ほどの距離。たったそれだけの距離なのに働き出してから、僕はほとんど実家に帰らなかった。定年を間近に控えてた父は言葉少なく新聞をリビングで広げ、父に悪態をつきながらも笑顔で忙しなく家事をこなす母。
一戸建ての決して広くない家は父と母が結婚して僕が生まれる時に建てられた。
誰もが想像する当たり前の日常が実家にあって、当たり前の日常がどれだけ難しく、特別なのかを今の僕は知っている。
普通に、正常に、そして社会で生きる人たちと同じように生きるということは途方もない努力の上に成り立っているのだ。
たとえば家の上がり框を昇れなければ家に入ることはできない。なんとかひとりで歩くことができなければ自分の部屋にも入れないだろう。
車椅子で家の中を移動するには広いスペースが必要であり、生活するためには手すりの設置や段差の解消。多くの手段はあるけれど、普通に生きていた時よりもずっと手段が限られる。
いつかきっと両親が年老いた時には、さまざまな手段の選択が必要だと思う。まだずっと先のことだけど。
市内から少し離れた実家に近付くにつれて、坂道が多くなった。他の街よりずっと坂道が多い街であるけれど、潮の香りを感じなくなってきた頃には平地よりも坂道がさらに多くなる。生まれた時から街には勾配の異なる坂道が街を包み、平地よりも多い坂道は坂道を坂道だと感じないほど街を縦横に巡る。
二車線の車道を行き交う車が少なくなってきた時、僕は坂のふもとにある実家へたどり着いた。玄関先に車を止めて、幼いことから見慣れたドアを開ける。土間には綺麗に磨かれた革靴とサンダルが並び、なんとも言えない懐かしい香りが漂った。
生まれ育った家の香りはどうしてこうも肌に張り付くのだろうか。甘辛く煮付けられた料理の匂いや、畳間から流れるイグサの匂い。人の温度をまとったまま流れる香りは多くの思い出と一緒に漂っている。
「あらぁ。早かったんだね。どう? 無職になった気分は?」
若かりし頃はほっそりとしていた体付きも、今ではすっかりと丸い。母は膝まで伸びるエプロンで手を拭きながら悪びれもしない表情で言った。
丸い顔にはふわりと浮かぶ栗色をした髪が乗っている。キッチンの戸は開かれており新聞を読む青いパジャマ姿の父が見えた。
「まぁ悪くはないね。貯金もあるし、しばらくはゆっくりするよ」
「いいなぁ。お母さんも早く定年を迎えなきゃなぁ。そしたら何をしたらいいのかしら?」
「母さんはできるだけ働いていた方がいいんじゃない?」
そんなことはない。と母はきっぱりと断言して、キッチンから鍋の吹きこぼれる音がする。おい。と父が声をかけ、僕と父は目が合い、父は静かに笑みを含む。
もとは会社員だった父と母は幼馴染で高校から付き合いがあるという。ふたりのなり初めは聞いたことがなかったけど出会いだけは知っていた。
母は介護士として地元の小さな病院に勤めている。快活でパタパタと駆け回る姿が実際に見ていなくても働く姿が想像できた。
「ほら! さっさと荷物を置いてお昼ご飯にしましょう? どうせ大した食事をしていないんでしょ?」
家を出た時と変わらないセリフとやりとり。僕は力なく返事して目の前の階段を上る。二階には僕の部屋があり荷物を降ろすと、家を出た時と変わらない景色が広がる。
学習机は子供の頃と同じように壁を向いており、薄いレースのカーテンは開かれた窓の風を受けて揺れていた。小さなテレビの横には本棚があり、ベッドカバーにはシワひとつない。
なんだか申しわけないな。と思いつつ僕は、ベッド脇に置かれたダンボールの中いっぱいに敷き詰められた画材が目に入る。絵の具の匂いを感じた。
段ボール箱に押し込められた思い出こそが、一度目の転倒である。きっと僕はまだ立ち上がれてはいない。転倒したまま地に伏せて、這いずりながら転んだ場所から距離を取ろうとしただけだ。
小さな頃から僕は絵を描くのが好きだった。好きなキャラクターを真似してスケッチブックを埋め尽くし、景色や小物を描くのも好きだった。
そしていつしか自分の頭の中に存在する情景をキャンパスの上に映し出すようになり、高校では美術部に入った。高校二年生になる頃には漠然と絵で生計を立てようとすら思って、両親に無理を言って美大を目指すための塾にも通った。
「ありふれていて普通だな。君自身が見えないよ」
塾の講師に言われたのはそんな言葉だった。その時にはまだ意味がわからなかったけれど、言葉の意味をやっと理解した時、僕が筆を折ると決めた。
僕には個性がない。自分の世界観は他の人たちと同じであり、心に浮かぶ情景も模写でしかない。
だからといって特別で、世間とはかけ離れた感性で創られる作品に定められた手順があっても答えはない。
僕みたいなありふれた感性では他人の心を動かすことができないと。
絵はうまいと褒められることはあった。しかし画家として生きることはオススメしないとも言われた。それでも僕は絵を描き続けた。いつか誰かが認めてくれると思っていたからだ。
世間一般の誰と比べても遜色ない当たり前な自分の感性だとしても、認めてくれる人がいる。
もちろん他力本願な努力ではもちろん小さな賞も取ることができず、高校に入ったばかりの年、僕の代わりに友人が受賞した時に筆を折った。
挫折を何度も乗り越えながら、成長することでプロの画家として成功するのだろうけど、僕に立ち上がる力はなかったのだ。
たった一度の挫折じゃないか。
僕のうちから響く声から耳を塞ぎ、夢と現実に折り合いをつけるという理由で、挫折の汚泥に身を沈めたのだ。
岬に告げると彼女は誰よりも、僕よりもずっと悲しんでいた。
いよいよ持って進路を決めなければならない時、僕は病院で勤める母の勧めで理学療法士という道を選ぶ。そこに大した理由も特別な事由もなかった。
理由はなくても学んでいくうちに僕は理学療法士としての生き方が好きになった。誰かに寄り添い生きる。目の前で困る人の思いを叶えるために働く。
筆を折った時に世界から全否定されているように感じていた僕は、誰かのために働くことで自分が世界に肯定されていると、空いた心を他力本願的思考で、満たしていた。
少なくとも正解はあった。正常値というある意味、世界の基準があることに、僕は安堵していた。
異質で特別だなんて霧に浮かぶ曖昧な価値よりもずっと、正常や当たり前といった基準値が、心地よく感じていたから。
しかし世界は僕が思うように甘くない。
患者がもとの生活に戻るために必要な基準値。正常であるとされる動作や行為。
そして歩き方。障害を抱えていてもリハビリテーションを行うことで、世間一般の人と同じように動き、振る舞うことができると信じていた。
多くの障害を負い、リハビリを続ける患者と目標を共にしながら臨床で理学療法を続けた。周りの環境もそうであったのも幸いして、僕は没頭することができた。
今までの人生を否定しながら、臨床で正常であることを求め、固執した。
自分自身に望んでいた。特別から否定された自分の世界は、正常の中にあると願っていたのだ。
正しいかどうかは今となってはわからない。少なくとも正解ではなかったのだとは痛いほどわかっている。
臨床を思い返すと、僕より一回り年上の、額に汗をかきながら平行棒を握り立ち上がる女性が浮かぶ。両足にかける力はコントロールできず、硬くこわばっていた。
「なぁ。誠也ちゃん。もっと歩く練習ばっかりさせてくれない? いつまで経っても歩ける気がしないよ」
車椅子に寄りかかり彼女は言い、僕は決まり切ったセリフを言う。
「時間はかかると思いますが、正常で綺麗な歩き方を一緒に練習しましょう。でないと病院でも転倒してしまいますから。気をつけましょう。怪我を治しに来て怪我したなんて冗談にもなりませんよ」
そして次に必ず思い浮かぶのは、最後に彼女がストレッチャーで運ばれる直前の言葉。
「・・・がむしゃらに歩いたらどうにかなると思ったけどそうじゃなかったね」
彼女とはそれから一度も会うことはなかった。
部屋の片隅に置かれるダンボールの中に、封じ込められた画材がまるで夢の残骸に見えた。
「早く降りておいで、ご飯が出来たよー」
階下から母の声が響き、過去の思い出から僕は現実へと引き戻される。考えても仕方がない。しかし今後はどうやって生きていこうか。
ゆるやかに訪れた人生の休息期間。僕は部屋を出てキッチンへと向かう。
キッチンに入るとテーブルには出前の寿司が置かれており、目を丸めた。
「こんなに贅沢しないでいいのに」
「たまの帰省でしょ? それにお母さんたちだって贅沢はしたいもの。いい理由じゃない?」
ね? と母が父へと目配せをすると、父はうむ。とうなずいて冷蔵庫から缶ビールを取り出し、僕にも一個投げてよこした。
「まぁ。たまにはいいだろう。国家資格なんだから次の就職先もすぐに見つかるだろうしな」
それもそうだけど。缶ビールのプルタブを引き上げると乾いた音がした。
僕たちはそれぞれ箸を寿司桶に伸ばす。近況報告といった他愛もない会話をしながら、誰も僕が辞めた理由を聞かなかった。高校を卒業するまで育った地元だから、母は僕の同級生の事情にも詳しかった。誰が結婚して、誰が夢を叶えて都会に行った。ありふれた話だ。
あっ! と母が思い出したように僕を見た。僕は首をかしげる。
「そういえばね。岬ちゃんは元気にしてるの?」
小桜岬。僕はできるだけ考えないようにしている内に、消え去った懐かしい言葉の響きに胸が満たされる。
「高校を卒業してから連絡を取ってないよ。元気にしているかはわからない」
「あらあら。あんなに仲良くしてたのにねぇ。お母さんも本当の娘ができたみたいに思えていたけど残念」
母から視線をそらすと、何かを察したのかそれ以上岬については触れなかった。まだ胸の奥には鈍い痛みがある。僕たちの間には十年以上の月日が流れているのに、思い出が暖かく心を満たす反面、手足はひどく冷えていた。
小桜岬とは坂道の多いこの街で一緒に生まれ育った。
当時は母の職場で岬の祖母、小桜 礼子も働いていて面識があったのが出会いの理由だ。
礼子は僕たちの家に訪れて隣にはまだ小さな岬もいた。母が言うには小学校に上がる前だったという。
物静かな僕と対照的に、岬は幼い頃からよく笑う快活な少女で、僕を連れて町内を駆け回った。まるで本当に兄妹みたいに僕の世話を焼き始めて岬に、ひとりっ子である僕は正直甘えていたと思う。何一つ自分で決められない僕の代わりに、岬は僕の手を引き前へと進んだ。
岬が僕の手を引くのは小学校を卒業しても続き、みんなが思春期を迎える中学校でも同じだった。いつも一緒にいるものだから最初の方はからかわれることがあったけど、あまりに兄妹のように振る舞うものだから、周りは当然だと受け入れていた。
僕は漠然と岬との間に流れる、ぬるく穏やかな関係性に甘えていたのだ。
本当に言うべき言葉もないまま、ずっと一緒にいるのだと考えていた。
好きだと言う心は言葉にせずとも伝わっていて、ずっと岬の隣へいることができるのだと、甘えていた。
好きであったのにもかかわらず、伝えるべき言葉はもはや伝えることも叶わずに、失われている。
岬は僕の絵を昔から大好きだと言った。誰かの描いたキャラクターを真似することができない僕の絵を、毎日のようにせがんでいた。中学校になってもお気に入りのキャラクターや、当時ファンだったアーティストの写真を持ってきては僕に描くように言った。
今思えば僕は、岬に褒められるためだけに絵を描いていたのだと思う。褒められて勘違いした結果、分不相応な夢を目指してしまったのだ。
僕が高校に上がると岬は受験を目の前に控えており、ギリギリになっても進路が決まらないようだった。
僕が筆を折る前の西日が深く刺し込む美術室。キャンパス台に立てかけられた青いペガサスを描く僕の隣に岬はいた。まるで絵本の挿絵みたいだね。と僕が言うと岬は照れくさそうに目尻を緩める。
「誠也は画家になるの? こんなに絵が上手なんだし」
「まだわからないよ。でもさ、ずっと絵を描き続けていたいから、いつかはなりたいと思う」
「絵を描き続けようと思うのは私が喜ぶから?」
僕の隣で椅子に腰かけたまま岬は体を揺らす。木製の椅子はギシリと音を立てた。照れ臭くなった僕は無言で筆を走らせる。沈黙が答えのようなものだった。
しばらく沈黙が続き、校庭からは吹奏楽部の奏でるまばらな音が聞こえた。
「ねぇ。この前ね。私・・・告白されたの。付き合わないかって。仲が良い同級生で真面目な人。進路に迷っているなら同じ大学に行こうって」
岬は視線を床に向けて言葉をもらす。長い髪が岬の表情を隠していた。僕の筆は止まる。
「岬は元気が良すぎるし、なにも考えずに突っ走るくせがあるから、真面目な人なら良いかもね」
僕は自分の口から出る言葉をコントロールできていなかった。言葉が意思を持っているかのように勝手に紡がれ宙へ放たれる。
そっか。と岬はうと立ち上がり、美術室から出て行った。僕は出て行く岬の後ろ姿を眺めながら取り返しのつかないことをしてしまったと立ち上がる。
追いかけることはできなかった。たった今、決定的な何かが破綻したということは胸の痛みが教えてくれたから。
その後、岬は僕の知らない街の大学へと進学して行った。岬と僕は最後まで別れの言葉を交わさないまま、僕と岬の兄妹ごっこは先を迎えることなく終わった。
今でも美術室で立ち尽くしながら感じた鈍い胸の痛みは鮮明に覚えている。
岬の想いは確かに僕と同じであったことに気がつき、そして伝えるべき言葉も、受け取りたい心を失ったまま、僕は大人になった。
自分の半身とささやかな夢を失ったまま、どうしようもない今に至っている。
「ねぇ。夕飯はどうする? 何を食べたい?」
母の声で再び現実へと引き戻される。生まれ育った土地や場所というのは、いつだって思い出の中へ引きずり込もうと虎視眈々に狙っている。気を抜けばすぐに現実が遠のく。
僕は首を横へ振る。
食器を洗う母が僕と父に問いかけて、すっかりとお腹がいっぱいになった僕と、頬を染めて緩んだ瞳をしている父は顔を合わせる。なんだか申しわけないなと僕は母にごめんと両手を合わせる。
「友達と呑みに行く約束をしてるんだ。早めに言っておけばよかった」
なんだ。とつまらなそうに母はエプロンで手を拭いている。父はぼんやりと天井を眺めていた。
「まぁ母さん。時間はあるんだ。誠也もだらけすぎないようにな」
お父さんもしっかりとね。と目を細めた母が父の隣に立ち腕を組む。はいはいと僕は椅子を立ち上がり自分の部屋へと戻る。思えば携帯端末を置きっぱなしにしており、家に着いたらすぐに連絡をするという染野 知之との約束を忘れていた。
端末を開くとすでに知之からの着信が何件か入っている。相変わらず忙しないと受話器のボタンを押した。通話がつながると共にスピーカーから響く声で音が割れる。
「遅い、遅いねん! 今日の朝出発するって言ってたやろ!? どんだけ時間経っとんねん!」
関西訛りの甲高い声が響き、僕はホッとしている。心が穏やかになる理由はわからない。
「悪かったよ。いろいろバタバタとしてさ」
「車で二十分くらいの実家に帰るだけやろ! 何をバタバタすんねん。まぁええわ。その分! 今晩は楽しませてもらうわ! 弥生ちゃんも楽しみにしとんで!」
山中 弥生は前の職場で出会った看護師である。そして彼女は僕と同じ高校だったというから驚きだ。最初出会った時、彼女をまるで覚えていなかったことにとても憤慨していた。僕が臨床で三年目を迎えた時、地元にできた新しい病院の立ち上げメンバーとして職場を後にしたが、今でも連絡を取っていた。
「わかったよ。店の手配はもう終わってるから。気をつけて来いよ」
「気をつけるも何も、電車ですぐやないかい! 子供とちゃうで子供とは!」
受話器の向こうでガシャンと何かの倒れる音がして、あぁ! と知之の声が響く。
まったくもって忙しないと、段取りの確認を終えた後、僕は通話を終了させた。
知之は前の職場で知り合った義肢装具士である。義肢装具士はいわゆる失われた手足の代わりとなる義肢、失われた機能を補助する役割の装具を医師の指示のもとで製してくれる。彼とは僕がまだ新人の時に出会い、同年代だったこともあってかすぐに打ち解けた。
忙しなく感情のままに働く彼は危なっかしくとも可愛らしく、とくに高齢女性の患者から好かれていた。僕の勤めていた病院は急性期であり、脳卒中の患者を多く担当していたから、麻痺した手足をサポートする金属の支柱がついた装具を共に作成した。ほんのちょっと前の話なのに、遠い昔に感じる。
わずかな間で僕が理学療法士という仕事から、心がすっかりと離れてしまっている証拠だなと苦笑した。
もしくは離れてしまいたいのか。
端末を机に置いて、僕はベッドに寝転がる。窓から流れる風がレースのカーテンを揺らし、風は甘い香りを含んでいた。すっかり春だな。と僕は目を閉じた。
◇
「それでは藤森誠也理学療法士の引退を祝ってかんぱーい!」
ガヤガヤと居酒屋には人が詰めかけており、一番隅の席に陣取った僕たちの前で知之は盛大にビールジョッキをかかげた。
僕の家から続く坂道、その中腹には商店街のアーケードが横に伸びている。商店街の一角に地元民の集まる居酒屋があり、五席ほどのこぢんまりとした店である。新鮮な魚介類を扱っており、知る人ぞ知る名店で地元民がよく通っていた。
「引退はしていない。引退は!」
反論する僕の言葉が聞こえていないのか、知之は目の前に運ばれてきた黄金色の液体を呑み干した。仕事帰りなのか白いシャツとストライプの入った上着が椅子にかけられている。
「ねぇ。本当に病院を辞めちゃったんだ」
隣には弥生が頬に手を当て、心配そうに眉をひそめる。耳元で短く揃えられた髪はゆるく流れている。栗色の髪が柔らかな店の照明を反射した。ふわりとした白いワンピースとブラウンのジャケット。耳には大きな輪を作るイヤリングが揺れていた。黒い小さなバックが隣に置かれている。
「まぁね。五年近くも働いたからちょっとくらいゆっくりしたいよ」
僕は病院を辞めた本当の理由を話せないでいた。説明するにも時間がいるし、理解はされないだろう。
「まぁまぁ。人生には立ち止まって考える時間も必要やさかいな。しゃあない。そんで弥生ちゃんのところもええ感じに軌道に乗ってんな」
まだまだだよ。と弥生は納得していないようすでビールジョッキを口元に運ぶ。
弥生が働いているのは回復期病院であり、坂ノ上病院と言った。病院の名前が坂の多い街に建てられてから、といった安直な理由で名づけられたことは考えなくてもわかる。百床ほどの病院で、急性期を脱した患者が次に向かう場所である。
治療が主体になる急性期から今度は生活の中心がリハビリテーションになる病棟だ。僕が勤めていた病院から何人もの患者が弥生の病院へと転院していった。
知之は僕の勤めていた病院に加え、坂ノ上病院も管轄しており弥生とも面識があった。
世間は狭い。狭い世間が連なって細くつながっている。
店員が盛られた刺身と小鉢を幾つか僕たちの前に並べ、知之は歓声を上げた。
「ほぉー。ええなぁ。誠也くんもええところで生まれ育ったなぁ」
弥生ちゃんもやったっけ? 知之が弥生に視線を向けるとそうだよ。と眉間にシワを寄せる。
僕は刺身に箸を伸ばし口元に運ぶ。
「いやぁ。堪忍な。ってことは、ふたりは幼馴染なん? まったくこんな可愛い子と幼馴染なんて誠也くんは幸せもんや」
知之は美味しいなぁ。と感嘆の言葉をもらしながら、次々と口の中に料理を放り込む。
いいこと言うじゃん。と頬を染めた弥生に背中を叩かれて少しむせた。
「でもねぇ。藤森くんにはもっと綺麗な幼馴染がいるんだよ? だから私のことなんて忘れてしまってたんだから」
「そりゃひどいな。男兄弟で育った俺に謝ってほしいわ」
何をだよ。と僕が言うと知之はへへ。と口元を歪めた。
それに・・・と弥生は続ける。
「だから、小桜先輩が入院してきた時はびっくりしたよ。先輩はちゃんと私のことを覚えておいてくれたけどね」
僕は箸を止めて弥生を見る。弥生は首をかしげた。
「岬が・・・入院?」
「知らなかったの!? もう結構前だけど。他の県で事故にあってね。術後の治療が落ち着いたから地元の回復期病院に転院してきたの。知らないの? あんなに仲良くしてたのに!?」
「知らなかった。うちの母も岬が入院したなんて一言も話してくれなかったよ」
「うーん。言い難かったのかな。でも素敵な婚約者さんと一緒にリハビリを頑張って退院していったよ。もしかして・・・知らない?」
弥生は困ったように首をかしげて、僕は目を丸めたまま静止する。岬の婚約者。たった一言の言葉が、深く心臓の奥底へと沈み込む。
知らない。と僕は首を横に振る。そっか。と弥生は息を吐く。
「知っているとは思ったし、患者さんの情報を外には出せないから言えなかったけど。本当に知らないとは思わなかった。ずっと一緒だと思っていたんだよ」
「高校からずっと連絡を取っていないから。・・・そっか」
なんやなんや? 知之は僕と弥生の顔を交互に見た。
「知之さんも知っているでしょ? 五年くらい前かな? うちの病院で装具を作ったじゃない。小桜岬さんっていうモデルみたいな患者さん」
「んー。そないな人やったら俺は絶対忘れへんけどな・・・あぁ思い出した! 交通外傷で腓骨神経麻痺を起こした人やな! 全然動かへんくなって・・・そんで装具を作った人や! 覚えとるわ」
次々と情報が増え、僕の頭は理解していても心が追いつかない。腓骨神経とは足首を反らせる筋肉を支配する神経であり、障害されると当然足首が反らせなくなる。
歩いていても足首をそらすことができない。足を前に進ませることが困難になり時には痛みを伴う。車椅子姿の岬を僕は想像できなかった。
でもなぁ。と知之は悔しそうに額へ手を当てた。
「ちょっと悔しかってんから、よお覚えとるわ。ベージュのシューホーンを作らせてもらってん。下腿の筋萎縮が高度やったから剛性の高いやつをって医師と担当の理学療法士からオーダーがあってんけど、ほんまに良かったんかなって。トリミングも浅すぎた気がするし、厚みもなぁ。太すぎて不恰好に見えてん。まぁそん時は今よりもペーペーやったから発言権もなくてな・・・ちょっと悔しくてん」
ベージュ色をしたシューホーン装具。ふくらはぎから足先まで硬いプラスチックで包み動作をサポートするための短下肢装具。臨床で最も見ると言っていいくらいに処方される。もちろん。他にも装具には多くの種類があり、何を作製するかは医師を含めチームで相談する。
理学療法士が主体となることも多い。病院に所属しているわけではない製作所の知之ならば、担当する人によっては従わなければいけないこともある。保険が利いても安くはない金額だから。
「別にシューホーン装具が悪い訳じゃないだろう。ロングセラーの立派な装具じゃないか。僕だって好きだよ。何度も依頼したじゃないか」
「でもなぁ。俺が言いたいんは、岬さんにとって良かったんかっていう話や。まぁ、もはやどうにもできひんけどな」
むぅ。と口をへの字に曲げてジョッキに口をつける知之は至極不満だと、言葉にせずに言っていた。検討を続けた結果だろう?と言ってもでもなぁ。と曖昧な返事を繰り返している。
「小桜さんはリハビリをすっごく頑張って、歩けるようになって退院していったんだよ! すごいよね。昔からなんでもできて、男子からも女子からも憧れの的で、大人になっても変わらず綺麗で・・・なのにずっと藤森くんが独占しているんだもん。妬けたなぁ」
なんやて!? と知之が身を乗り出して口元から白い泡が飛んできた。
「汚いな。小さい頃からずっと一緒だったから当然だろう。兄妹みたいに育ったんだから」
「それはあれか!? 家が隣同士でこう・・・窓越しに会話とかしたんか!? もしくは朝の弱い誠也くんを起こしに来てたんとちゃうんか!?」
「昔のドラマみたいなことはなかったよ。朝は僕の方が強かったし、家も離れているんだから」
なんやつまらんと知之は椅子に背中を預けて、やりとりを見ていた弥生は頬を染めてけらけらと笑った。なんだそれ? と弥生が言って、俺の夢や。と知之が返す。
苦笑しながら僕は、知らない岬の話をふたりから聞くのは、胸が痛んだ。とっくの昔に違う道へ進んでいるのにもかかわらず、胸の奥に錆びた釘が沈むような、鈍い痛みが続く。
互いの間に時間は流れているのだ。僕の中にいる岬は高校で、最後に会った美術室で見た、ブレザー姿のままで止まっている。
「ともかく! 誠也くんには俺の実績を上げるために、大手の病院に就職してもらわなアカンな。培った経験と実績は十分やろ?」
「なら、うちの病院に来る? まだ新しい病院だから小綺麗に見えても中はしっちゃかめっちゃか! 藤森くんも来てくれたら嬉しいなー」
すっかりとふたりの頬は朱に染まっていて、僕も顔の温度が上がっている。それでも心の中は冷めきっていた。岬はきっともう街にいない。
岬の婚約者と共に違う街で幸せに暮らしているのだ。僕はどこかで岬と再会することを望んでいたのかもしれない。理学療法士という仕事に追われている時には思いもしなかったのに。
ポッカリと空いた穴を思い出の中にいる岬で埋めようとしていたのだろうか?
都合が良すぎるな。僕はジョッキをかかげて黄金色の液体を一気に飲み干す。
ふたりは互いに目を合わせた後、僕を見る。
「ともかく。僕はしばらくゆっくりするから。でも再就職する時はよろしくな」
そんなつもりがない嘘と建前を言いつつ、罪悪感が胸を刺す。もちろん。と弥生は腕をまくって見せて、そやなぁ。と知之は腕を組んだ。居酒屋の扉が開き風は流れ込んでくる。
春が目の前というのに坂の上から吹き下ろす風はまだ冷たかった。
時刻が深夜をすぎるまで僕たちは他愛もない話を続けた。それぞれ違う場所に勤めているからか話は途切れることなく時間がすぎていく。
店を出る頃にはしたたかに酔っ払った知之の足元はおぼつかず、肩を貸す僕に知之は寄りかかった。
「ほんまになぁ。なんで辞めてしまうねん。五年目の理学療法士さんやろ? まだまだこれからやん。これから一緒にいろいろできそうやったのに」
本当のことは話せない。話したとして彼や弥生は僕を励ましてくれるのだろう。
臨床ではよくあることだから仕方がない。とふたりからは励まされたくなかった。それに僕の根幹にある想いをうまく伝えられる気もしなかった。
酒臭い息と共に知之が管を巻いている。何度か飲み会にも参加している姿は見かけたが、呂律が回らなくなるまで酔っている知之の姿は初めてだった。
「まぁ。いろいろ考え直したい時期もある。これで縁が切れたわけではないだろ?」
もちろんや。と知之は胸を張る。
「袖振れ合うのも他生の縁《えん》。というからな。俺は触れ合った袖を決して離さへん。ええ話があったらまた頼むで」
わかったよ。と苦笑していると目の前にタクシーが止まり、僕と弥生は知之を後部座席に乗せる。扉が閉まるとタクシーは夜の闇へと消えていった。
「大丈夫かな。見事に酔いつぶれちゃったけど」
「まぁ。大丈夫だろ。でも知之があんなに呑むのは珍しいな」
わかってないなぁ。と弥生はうーん。と大きく伸びをした。
「ちょっとだけ酔い覚ましに付き合ってくれる? お散歩しましょう」
アーケードはわずかな街灯を残したまま静まり返っている。シャッターの下ろされた店がずっと先まで並んでいた。
いい気持ちだねぇ。と歩き出した弥生の隣に並んで足を進める。
タイルは少しだけ濡れていて街灯の光を反射している。岬に手を引かれて駆け抜けたアーケード街と、まだ賑やかだった街並みを思い出した。
「しかしここらへんは変わらないなぁ。小さい頃によく走り回っていたよ」
「小桜先輩と?」
うん。と僕が答えると弥生は立ち止まる。小さなバッグを両手で握り体の前に置く。
いつしかアーケードと坂道が交差しており、坂道をさらに登ると岬の家があり、下ると僕の家がある。待ち合わせはいつもこの場所だった。
「小桜先輩は入院中、一度も藤森くんのことを聞かなかったよ。だから私はずっと連絡を取り合っているものだと思ってた。違ったんだね」
「うん。話を聞いてすごく驚いたよ。でもちゃんと歩けるようになって退院したって聞いて安心した。婚約者がいることも・・・なんか安心した」
本当に? と尋ねる弥生に僕は本当に。と答える。本当だと思いたかったから。
「そっか・・・ねぇ。本当に坂ノ上病院に来ない? 一緒に働こうよ」
「僕は急性期しか知らないから、役に立てないよ?」
ふん。と弥生は両手を腰に当てて胸を反る。
「まだまだ五年目の理学療法士が何を悟ったようなことを言いますやら!」
「だな。考えておくよ。でもまだちょっとゆっくりする」
いつまで? と問う弥生の言葉に僕は答えなかった。
岬の家に続く長く暗い坂道を見上げる。坂の向こうに僕が知っている岬はいないと思うと、目に見えるよりもずっと先が見えなかった。
ヘッドライトが長く伸びてタクシーが坂ノ上から降りてきた。珍しいこともあるものだと僕は右手を上げて、タクシーを止める。
「それじゃ藤森くん。早く立ち直って就職活動を始めるんだよ。私が口を聞いてあげるから」
「それほど立場なのか? ぜひとも時期がきたら頼むよ」
「へっへー。結構私は顔が利くんだよ? 師長さんもリハビリの主任さんも仲良しなんだから。それじゃぁ考えておいてね!」
弥生が言い残しタクシーの扉が閉められ坂を下っていく。エンジン音が遠くに聞こえて、僕は再び坂を見上げる。目線の先に前髪が映り、だいぶん髪が伸びてしまったな。と前髪に触れた。
この先には小さな公園があって、小さな頃から僕は岬に髪を切ってもらっていたことを思い出す。
今まで忘れていたのに、地元に吹く風と音は本当に厄介だ。
「いつか私が美容師さんになれるまで、練習に付き合ってもらうからね」
「僕が岬に髪を切ってもらうのは練習なの?」
「うん。限りなく本番に近い練習。大丈夫。間違っても坊主になるだけだから」
それは・・・と公園の中央で僕はどこから持ち出してきたのかわからない、古ぼけた椅子に座り、小さな岬はハサミを動かす。初めて岬に髪を切ってもらったのは小学生に上がったばかりの時だった。岬は幼い頃、美容師を目指していた。祖母に連れられていった美容室で、初めて髪を切ってもらって憧れたらしい。
なんとも単純な理由だと思う。でも憧れとは些細なきっかけなのかもしれない。
空は青く雲が散り散りに浮かんでいた。甘い花の香りが公園を満たしており、緑色の葉っぱが風に吹かれて揺れている。
僕は目を閉じて岬が調子良く動かすハサミの感触に身を任せていた。眠たくなるほど幸せな時間。
最初はひどい出来栄えだったな。と僕は笑みを含む。
ガタガタと不揃いになった髪を見て、岬の祖母はカンカンに怒り、代わりに僕の母はお腹を抱えて笑っていた。泣き出した僕の隣で岬は不服そうに口を尖らせている。
懐かしい時間。セピア色の思い出にはどこかカビ臭くとも幸せな香りをまとう。
岬はこりずに僕の髪を切り続け、僕も岬に髪を切ってもらい続けた。
小学校を卒業する頃には岬の腕前も玄人はだしとなり、流行りの髪型にセットされた僕はクラスで少し浮いていた。その話を聞くと岬は嬉しそうにいつも笑っていた。
岬との思い出をたどる度に、笑顔で景色が染められる。
僕はポケットに手を入れて坂道を下る。眼下へと続く街灯は僕の家まで続いていた。
岬を家に送り終えた後にたどる帰り道。思い出とは違う逆方向へと足を進める。
一つの思い出が終わってしまった。僕と岬の思い出はもう古ぼけたアルバムの中にしかない。目を背け続けていた過去はいつしかひとりで歩き出し、僕を置き去りにしてしまった。
遠い昔に岬へ抱いていた想いだけが胸の奥へ沈んでいった。
◇
知之や弥生とのささやかな飲み会が終わった日から一週間が経った。僕はまるでだらだら日々を過ごしている。
忙しくてできなかったことをたくさんしよう。そんな決心はすぐに鈍った。
いつか見ようと思っていた映画を借り、読み溜めていた漫画を並べて一日中読んでもすぐに飽きてしまう。
一度だけ勤めていた病院までドライブに行ったこともある。病院は変わらずに町の中央で多くの救急車を受け入れていた。世界は別に僕がいなくても十分すぎるほどに回っている。僕は社会からこぼれてしまっている。
回り続ける日常から、ひとり立ち止まってしまっている。有り余る自由であるはずなのに、罪悪感がジワジワと腹の底から広がっていく。
部屋で横になりながら本棚を眺めると、画材と専門学生の時に使っていた教科書に埃が積もっている。
僕は焦る自分の心から目を背けて、いつものように惰眠を貪っていた。
そんなある日のことだった。母が血相を変えて僕の部屋に飛び込んできた。
何事かと僕が跳ね起きると、母は息を切らして勢いよく開かれたドアの前で息を切らしている。
「小桜さんのお婆ちゃんが倒れて病院に運ばれた! 急いで準備して」
「礼子さんが!? どうしたの!?」
「冷蔵庫を開けようとして転んだんだって。動けなくなって昨日の夜に、救急車で運ばれたって。連絡が来た! お母さんが働いている病院に運ばれたの」
母の勤める病院は小さなクリニックである。病床は三十に満たない。古くからある地元の人が集まる病院。高度な医療はないが、街の人はまず母の務める病院に運ばれて、重大な病気であったら県の中央にある医療センターや、僕が前に勤めていた病院へと運ばれる。
小桜礼子は小柄で少し背中の曲がった小綺麗な女性だった。鮮やかな目元は岬とよく似ている。
僕が最後に姿を見たのはもう十年以上前になる。いつも白い割烹着を着ていて、僕が岬の家に遊びに行くといつもお菓子を焼いてくれた。ホットケーキを作る要領で揚げられたドーナッツの甘い香り。必要以上にかけられた白い砂糖が舌を撫でる感覚を僕は思い出す。
「急がなきゃ! 車は僕が出そうか?」
ベッドから立ち上がると母は首を横に振る。
「あんたは大丈夫。お母さんが会いに行くから。誠也は・・・岬ちゃんのところに行って」
「岬? まだ街にいるの? 結婚して遠くに行ったんじゃないの?」
「お母さんも同じことを思っていたんだけどね・・・どうやら事情は違うらしいの。電話先で礼子さんは岬が家でひとりだから・・・誠也ちゃんに会いに行かせてって。岬のリハビリをお願いって言っていた」
どういうことだと、僕が首をかしげていると母はドアを勢い良く締めて階段を降りる音がする。岬は婚約していて、事故にあって、婚約者と一緒に退院していった。
てっきり僕はもう家にはいないと思っていたのに。なぜ?
疑問ばかりが頭の中をぐるぐると回る。礼子も礼子で心配だ。高齢者が冷蔵庫を開けようとして、後方へ転倒する。
よくある話だ。重症ではなくてもしばらくは痛みで動けない。どんな骨折や打撲だったとしてもだ。その後はリハビリを必死に行い自宅へと帰る。
帰ることができるほど、順調に物事が進めば・・・である。
ならばリハビリが必要なのは礼子の方ではないか。
あぁ。岬には事故の後遺症がある。
左の腓骨神経麻痺、外傷に伴う運動障害。
いまさらなぜ?
家の外からエンジンの音がして、居間に行くと母はおらず、父は仕事にいっている時間だから、話し声の絶えない家の中が妙に静かだった。
耳が痛くなるほどに。
立ち止まっていても仕方がない。僕は身支度を整えて家を出た。
目の前には岬の家に続く長い坂道がある。僕は坂道を登り、途中賑わう商店街を通り、小さな公園を脇見に坂道をさらに進む。あたりには住宅街が広がり、住宅の数が増えるのに比例して傾斜は急になった。
曲がり角を曲がり小高い山の山肌がコンクリートの構造体により固めらえている。高くそびえるグレーの壁を見上げると竹林が見えた。
小さな頃にはどんなに急な坂道でも駆け抜けることができた。でも今はこんなにも息が切れる。息が切れるのは体力の衰えだけではない。
それ以上に高鳴る鼓動が呼吸のリズムを乱していた。混乱した頭で言われるがまま坂道を登りながら、僕は一度立ち止まる。
坂の中腹に岬の家はあった。二階建ての狭いベランダには物干し竿がたたずんでいる。危ないからと礼子は幼い僕と岬をベランダに出したがらなかった。しかし僕たちの好奇心をさらに引き立て、こっそり忍び込んだベランダから水たまりのような海を岬と並んで眺めていたことを思い出す。
開き戸の横には小さな手作りの縁側と窓が見える。分厚いカーテンが閉められておりまるで外界を拒絶していた。並んで腰かけて空を見上げた縁側がとても小さく頼りない。
岬の家は記憶のままで僕の中に存在しており、縁側の脇にある花壇で咲き誇っていた花々は、すぎ去った年月で枯れている。
どうしようかと、僕は立ち尽くす。十年振りに訪れた幼馴染の家。なんて声をかけるのが正解なのだろうか。久しぶりだろうか。それとも元気? だろうか。
誰に対して答えを求めているのだろう。言い訳にも似た思考を僕は振り払い、玄関のインターホンを押す。歪んだ電子音が響く。
しかしいくら待っても反応はない。人の気配すらない。もしかしたら僕は自分にとって都合の良いように勘違いしているのではないだろうか。
自分より岬の心配をする礼子。理由は岬が僕のまだ知らない重い病を患っているからではないのだろうか。ひとりでは生活できないくらいに。事故とは関係なく。
岬の婚約者ではなく僕に声がかかっている。背筋に冷たい汗が流れた。
「岬! 大丈夫か!」
自然と声が張る。開き戸に手を当てると鍵はかかっていなかった。不用心だと思いつつ僕は部屋の中でひとり倒れている岬を想像する。最後に見たブレザー姿のままで。
玄関を開くと土間には車椅子が一台置かれていた。小さな車輪の大きい車椅子。畳まれた車椅子の上にはベージュ色をしたプラスチックの短下肢装具が置かれてる。
知之が依頼されて作成した装具だ。車椅子と装具はうっすらと埃が積もっていた。ずっと使っていないのだろう。目の前にまっすぐと伸びる廊下は暗く、人の気配はない。
「岬!」
僕がもう一度、岬の名前を大声で呼ぶ。ガタリと動く音と人の気配がした。
「聞こえているよ。入ってくれ。私の部屋がどこにあるかはわかるでしょう?」
岬の声がした。遠い記憶のままでちょっとだけ低く、力強く響く声。靴を脱ぎ僕は上がり框に足をかける。昔ながらの作りだからか、ずいぶんと高い。
廊下には手すりが伸びていて、入ってすぐ右手に岬の部屋がある。磨かれたブラウン色のドア。ドアノブは暗い銀色をしている。
僕は部屋のドアを開ける。
部屋の中には衣服が散乱しており、中央に置かれた丸いちゃぶ台にはペットボトルがひとつだけ置かれている。隣には大きなパソコンのディスプレイが淡い紫に光り、大きなベッドの向こうには分厚い遮光カーテンがあるはずの窓を隠していた。
岬は僕に背を向けたまま小さな座椅子に座りマウスをしきりに動かしていた。艶やかだった黒髪は水気を失い、肩先まで伸びた髪に寝癖がついている。
白く厚めのセーターからは細い指先が伸びて病的に思えるほどに華奢だった。真っ黒のジャージは岬の華奢な足に沿って伸び、投げ出された左足の先端は指先を下に向けて硬く尖っている。
尖足だ。話に聞いていた岬の障害と目に映る生活の痕跡で、思い至る。目を背けたいほどに。
「まったく身支度する時間すらくれないなんて。君はせっかちになってしまった」
呆れたように岬は僕を振り向く。黒く大きな瞳は昔と変わらないように僕を見つめた。ただ感情のままに彩りを変える表情は失われており、疲れたように口を歪める。
「礼子さん。倒れたって聞いたよ。岬を頼むって。一緒に病院に行こう」
僕たちの間にあったはずの十年間は、空気中へと溶けていた。あれほど適切な言葉を選びながら悩んでいたのに、自然と心から言葉が出てくる。
「今、病院に行ったってどうする? お婆ちゃんは入院した。腰椎の圧迫骨折だってさ。君の方が詳しいんだろう。理学療法士の先生なんだから。たとえ病院を辞めて無職だったとしてもね」
岬はディスプレイから顔を上げずに言い、驚いた僕はたじろぐ。
「なんで知っているの?」
「聞かなくてもいいのに。お婆ちゃんが話してくれるから、君のことはなんでも知っている・・・つもりかな。それにね。私はもう家から出られない。坂道を下ることは叶わない。こうなっちゃったから」
岬は左足は膝から先にあるはずの膨らみが消えており、枯れ木のように痩せていた。足首からは固く尖ったような形は崩れずにそのままだ。
「話は弥生から聞いているよ。事故にあって入院していたんだろう? 歩けるようになったとも聞いた」
弥生ちゃんか。と岬は天井を見上げる。細い首もとで荒れた毛先が揺れていた。
「いい子だよね。熱心に私へ世話を焼いてくれた。君はああいう子と結婚するべきだな。きっと幸せな普通の家庭が築けるよ」
消え入るような声色で話す岬の言葉に、僕はなぜか苛立っていた。なぜ苛立つかはわからない。記憶の中と乖離する強かった岬の、諦めてしまったような声色に苛立っていた。
僕は岬の足に触れようとして手を伸ばす。僕に気がついた岬は眉を吊り上げて、触るな! と僕の手を払いのけ、僕は立ち尽くす。
「理学療法士になった君なんかに触られたくない! こんなに硬くなって、もう装具も入らない。普通に歩くことなんてできない」
「でも車椅子があるだろう。歩き方にもよるけど歩く方法はまだある。礼子さんから僕は岬のリハビリを頼まれたから」
「勝手なことだな。私は君のリハビリなんかを受けるつもりはない。お婆ちゃんの方が必要としているだろう」
「だとしても会いに行かなきゃ。きっと心配している。ほら。立って。僕が手伝うから」
たとえひとりで歩けなくても、側方や後方から体を支えて共に歩くことはできる。家から出た後はどうしようか、車椅子で坂道を下るのは大変だが問題はない。すべて今まで学んできた知識や技術でなんとかなる。
僕は膝を折って岬に手を伸ばす。岬は目を丸めて困惑した表情を浮かべた後、僕の手を強く引き、反対の手で僕の胸ぐらを掴んだ。バランスを崩した僕を床に引き倒し、岬が僕へ馬乗りになる。
予想外の抵抗に僕は目を白黒とさせる。瞳を怒りで黒く染める岬が僕を睨みつけていた。歯を食いしばり、僕の首袖を両手でさらに強く握る。馬乗りになる岬の重さは病的なまでに軽かったが、僕は動くことができなかった。
「もう私はダメなんだよ。何もできない。家の前にある坂道を下ることもできない。満足に歩くこともできない。どこにも行くことができないんだ。足を引きずって歩く私を見て、理学療法士になった君は言うんだろう? もう少し患側に重心を乗せて、体幹に力を入れて姿勢が崩れないように。好きな靴を履けなくても、私には似合わない装具をつけて、正しく・・・普通の人みたいな、正常な歩容で歩けと強いるんだろう! 生憎だが私はもう歩けない、こんな暗い場所で引きこもって、普通にだって暮らしてはいない」
もう私はダメなんだと、岬の張り裂けるような言葉に、僕は岬の瞳を見つめるだけしかできなかった。
岬の言葉には聞き覚えがある。
辞める前まで、僕が臨床でよく使っていた言葉だ。綺麗に歩けるようになるために、正常に、みんなと同じように、そして依然と同じような生活ができるように。
歩くことができなくなっても、代わりの手段を一緒に考えて、前向きに自分らしい人生を歩めるように。
がんばりましょう。
患者を奮い立たせるために必要な言葉。必要だと思っていた言葉だ。
僕が臨床で理学療法士として働き続けることができなくなった、言葉でもある。
「君たちの言う正常で正しい動作は私にとっては呪いの言葉でしかないんだ! 正常から逸脱した私はもう普通じゃない。私はもう普通に生きることはできない! それに・・・歩かないでいるうちにこんなに足は固まってしまった。私はもう・・・ダメなんだ」
「ダメじゃないよ。他の人と同じように生活ができなくなっても、周りには岬よりずっと、重い障害を持っても頑張っている人たちがいる。助けを必要とする人を手助けするのが僕の仕事だ」
僕は何を言っているのだろうか。まるで言い訳するように、自分を擁護するような言葉。岬に言いたかった言葉とは程遠い言葉を吐いている。
それではダメだと知ったはずなのに、僕の口から生まれる言葉は変わらない。
自分の口から出た言葉なのに信じられず、ゾクリと背筋が冷たく張り付く。
岬が掴む力はさらに強まる。体重を乗せて呼吸が苦しくなるほど、首元にかかる重みが増していく。
岬は・・・泣いていた。
瞳から溢れる涙が頬を伝って顎先で水滴を作る。そして顎先から落ちた涙は僕の頬へと落ちた。
肌と同じくらいの温度はぬるく、そして僕の胸裏を焼き尽くしてしまうほどに熱かった。
「そりゃ半身が不随になってしまったり、両足が動かなくなってしまった人、寝たきりにならざるを得ない人。この世を見渡せば私より不幸な人はたくさんいる。私なんかよりずっと強く生きている。私は左足が、それも足首が動かないだけだ。比較したら軽い障害だ」
岬は大きく息を吸い込む。涙で濡れているはずの目元が、伸び切った前髪に隠れて見えない。辛うじて僕は首を横に振る。だからなんだ? と岬は構わず続ける。
「障害を負いながら頑張っている人がいる。想像を絶する苦労をしても、たくましく生きている私よりずっと強い人たちがいる。多くの人がそうだ。ただ私にはもう無理だ。重い障害を持った人に比べたら軽い障害でも・・・立ち上がれない。頑張ることなんてできない。足首がうまく動かないだけで、うまく生きていけない私がいる。おばあちゃんが倒れた時、私は何もできなかった。抱えることも、支えることもできなかった」
礼子が運ばれた夜。ふたりきりで生きてきた岬が、立ち上がれない祖母を見た胸中に浮かぶ感情は、軽々しく言葉にはできない。
ただ僕にも、わかる。今の僕になら痛いほどにわかる無力感と罪の意識だ。
病室で転倒した担当する患者。小南 華苗という彼女は、ひとりで歩き出そうとして転倒した。見つけたのは僕で、ひとりでどうしようもできなかったのも僕だ。
華苗を追い込んだのも僕だ。
岬も縛られる呪いの言葉で追い詰めた。目の前の患者を思ってだけではなく、僕自身の正しさを押しつけるような言葉。
そして同じ言葉で僕はこりもせずにまた、人を追い詰め傷つけた。
あれほど悔やんだはずなのに、僕にも染みついた呪いが岬の傷跡を引き裂き、さらに奥へと傷つけてしまっている。心底、愚かで馬鹿だと自分を自分で殴りつけたくなった。
ただそうすることで、さらに岬を傷つけてしまうことも知っている。
「必死に助けを呼んで、救急隊に任せて・・・お婆ちゃんは謝っていたの。何もできない私の方が悪いのに、すべてを諦めてしまった私の方が悪いのに。謝っていたんだ」
腕の力が抜けて岬は僕の首もとへと額を当てる。流れる涙の温度と感触が僕の首元を伝っていく。暖かいと思った。そしてひどく重たかった。
「ごめん。僕は馬鹿だ。ずっと昔から変わらない」
思い出の中に入る岬はいつだって強かった。何事も決められない僕の手を引っ張って、いつだって街を駆け抜けていた。いつだって一緒にいた岬の弱さを僕は考えもしなかった。
「もう十年以上も経ってしまったよ。何度も助けてほしかったのに、君は私を助けてくれなかった。装具も入らなくなった。知ってるよ。悪いのは装具じゃない、私なんだ」
「知らなかった。いや聞かなかった僕の言いわけだ」
「私が言わなかったからだよ。君にとって理不尽なセリフだとは知っている。でも許せない。自分勝手でも許せないんだ。君が私から離れてしまったから」
遠い昔の美術室で、岬が告白されたと伝えてくれた時、引き止めることはできなかった。岬が望んでいた未来はどんな景色をしていたのだろうか。
暗く閉ざされた部屋ではないことは、考えなくてもわかる。
結局のところ、僕は岬に依存して何も考えられていなかったのだ。親離れのできない子供みたいに。
僕の逃げ出していた過去が、彼女を変えてしまっていたのだ。
「ごめん」
僕が言うと岬は首もとへ顔を埋めたまま、首を横に振った。毛先が鼻先に触れてくすぐったい。
「もう謝らなくていい。ごめん。なんて言わないで」
「最後に・・・三つだけ謝らせてくれ。一つは岬の足に触れようとしたこと。触診しないと障害の程度はわからないから。でも岬に了承を取らずに勝手に触れようとしたことは本当に悪かった。二つ目は僕の考えを押しつけて勝手に立たせようとしたこと。全然岬のことを考えていなかった」
「三つ目は?」
「学生時代、岬が告白されたと伝えてくれた時、僕は引き止めたかった。どこかに遠くに行ってしまうような気がして寂しかった。でも素直になれなくて・・・本当にごめん」
「一つ目と二つ目は許すよ。でも・・・三つ目は絶対に許さない」
ありがとう。と僕が言うと岬は首を縦に振った。
「たとえお婆ちゃんの遺言だとしても、私は君のリハビリは受けない」
「遺言って・・・大丈夫。圧迫骨折はよほどのことじゃない限り、患者の命を奪わない」
「わからないよ。でも・・・どんなに私が誠也を拒絶しても絶対に諦めないで。私が君のリハビリを受けたくなるように声をかけ続けて。ひとりにしないで」
わかった。と答えると岬は身を起こして頬を緩めた。記憶の中にあるような、無邪気な笑みを浮かべている。
「よろしい、今日から君は私の理学療法士だ。私の・・・理学療法士だ」
※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。登場する内容は一人のセラピストの意見ですのでご容赦ください。
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