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『くらげの空で浮かぶ』-4- 訪れたことのない遊園地 (4/6章)/小説

【あらすじ】
「クラゲはさ。いったい何を考えながら、水槽の中を浮かんでいるのかな」
 相花あいはな 海月みつきは暗い照明の中で、天井まで伸びる円柱状の水槽を見上げて言った。高校生だった僕である椎名しいな 蒼葉あおばは、夢を絶たれた時、立ち寄った寂れた水族館で彼女と出会った。学校が終わっての一時間。それが僕と海月の時間だった。
 時が流れて、理学療法士としての道を選び臨床で働く僕に『ケアハウス薫』という、半年後には閉じられるケアハウスとは少し違う変わった場所で、次の場所を待つ高齢者のリハビリテーションを行うと言った仕事が舞い込む。そして僕と海月は再開した。
 訪れたケアハウス|薫かおるには三人の高齢者がいる。そこで海月は介護士として働きながら、母の介護を続けているという。
 日々の中にあるわずかばかりの幸福で、僕たちの距離は縮まっていく。
 決して交わらないことは知っていながら、心の距離が近づいていく。
 行き場を失い漂い続ける高齢者と、高齢者に寄り添いながらでしか生きられない僕と海月の日々が始まる。
 現職の理学療法士が記す、臨床とは違う終わりへ向かう物語。
 僕たちは漂う。迷いながら進む道が、前に向かっていることを信じて。

【目次】
-1- アクアリウムで佇む海月           (1/6章)
-2- 向かう場所を失うターミナル   (2/6章)
-3- 願いと遺言のケアハウス         (3/6章)
-4- 訪れたことのない遊園地         (4/6章)
-5- 失われる臨床と理学療法士      (5/6章)(近日公開)
-6- 海月とクラゲと暗気の海         (6/6章)(近日公開)

-3- 願いと遺言のケアハウス(3/6章)←

 桜奈さくらな恭平きょうへいが僕と一緒にケアハウスへ訪れる日、僕たちは最寄りの駅で待ち合わせをした。空には雲ひとつなく、暖かな風が緩やかに流れている。

 よい日だと思った。そしてふたりはどこか緊張した面持ちで僕の隣を歩いている。

「言ってはみたものの、やっぱり緊張するっすね」

 恭平の言葉にうん。と桜奈も相槌あいづちを打つ。

「大丈夫だよ。やることは事前に伝えた通りだしみんないい人だ。それに病院でリハビリするよりもなんだか、ずっと気楽だ」

 本心だった。病院よりもケアハウスはずっとそこで生活する人の本来の姿に近い。入院中はどんな元気な人でもどこか言いようのない影を持つ。入院中は先の見えない闘病生活であり、自分自身に対する不安で影が深くなる。しかし入院生活には希望や期待もまたあるのだろう。

 退院してしまうと一転して現実が襲いかかってくる。ケアハウスに住む住人のように、症状は落ち着いていても決して、自分が思い描いている生活とは違う場所で終末を待つこともある。

 考えてみると病院だけでリハビリをしている時とは違って、視点はどこまでも広がったように感じるけれど、同時に足元が不安定になっているような気がした。見通せていた患者のゴールはただの幻で、ゴールの先に広がる現実はどこまでも果てしなく曖昧あいまいだ。

 三人で最後の打ち合わせ、といってもケアハウスでの利用者の生活、必要なタイムスケジュールとそれぞれの課題。普段行う延長線上にある業務でもあるからふたりの理解は早かった。目の前にはケアハウスかおるが見えてきて、ふむ。と桜奈は腕を組む。

「扉が開き戸がとても狭いね。それに玄関前の段差はちょっと出入りが大変そうだ」

 同じことをいっているなと僕は苦笑する。きっと療法士なら誰しもが同じ感想を抱くに違いない。

「でもさ。椎名しいな先輩の話を聞くなら、ここはライブハウスみたいなもんでしょ? 逆に雰囲気あっていいと思うけどなぁ。音出してもいいのかな?」

 恭平は眉をひそめる桜奈をよそに足取りが軽い。もともとバンドマンであるからか、いいなぁ。と恭平は頬をほころばせる。

 ケアハウスを作った時も冴子さえこや仲間たちは恭平と同じ考えを抱いていたのだろう。僕はふたりを急かしてケアハウスのドアを開く。

 廊下を歩きデイルームへのドアを開けると、カウンターに寄りかかる冴子とステージの前にある机で腰かける雅吉まさよしと、隣にいる車椅子の元治げんじが目に入った。

 それぞれが簡単に挨拶を終えると、冴子はぶっきらぼうに右手を挙げる。きっと人見知りなのだろうなと僕は気がつかれないように笑みを隠す。

 恭平は目線をステージや照明器具、カウンターへと視線を移しながら僕の耳元に顔を寄せる。

「聞いていたよりめっちゃすごいっすね。俺は好きっす」

「好きだと思ったよ。僕もここが好きだ」

 でしょ? と恭平は口角をわずかに上げた。隣には桜奈が緊張しているのかシャツの裾へ不安そうに触れている。そういえば桜奈も人見知りだったなと僕は苦笑する。

 するとステージから斜め下にある居室へと続く開き戸が音を立てて開く。

 海月が顔を出し、隣にはふっくらとした友美ともみが仕事着で並んでいる。いつもなら海月のフォローで訪れているのに、妙なこともあるなと眉をひそめる。

「わぁ。若者がたくさんいる!」

 僕たちを見るなり海月は声を上げて、俺たちだってまだ若いだろう? と雅吉が両手を挙げて冗談めかして振った。しかし海月もいつものセーターとジーパンという格好ではなく、首を包む白いやわらかな記事のシャツをブラウン色のサロペットに包んで立っている。

 冴子が外行きの格好で来るようにと言っていた。みんなでお出かけでもするのだろうかと僕は首をかしげると、ははーん。と桜奈は腕を組む。

「なるほど。この可愛いお方が、椎名くんが熱心にボランティアに精を出す理由ですか」

 ねっ恭平さん。と桜奈な恭平へ腕を組んだまま視線を向ける。そうですな。と恭平は顎先に触れる。

「たしかにそうですな。桜奈さん。こんな素敵大人女子と一緒に働いているなんて、ライバルが増える前に阻止したいものですから」

 なぁ。とふたりは互いにウンウンとうなずきあっている。僕が絶句していると海月が僕たちの前へと駆け寄ってきた。

「初めまして。相花あいはな 海月みつきです。こう・・・海に浮かぶ月と書いて海月ですね。クラゲとも読めてしまいますが、とにかく今日はありがとうございました。そして蒼葉あおばがいつもお世話になっています」

 丁寧に海月がお辞儀をするとふたりも丁寧にお辞儀を返した。そして首だけで僕をまっすぐと向く。口元はこれでもかというくらいに緩んでいた。

「実は相花さんは高校生の時からの友人で、偶然出会いました」

「へえ。みんなの前では海月じゃなくて、相花さんって呼ぶんだね」

 両手を後ろに組んで体を楽しそうに海月は揺らしている。たしかに照れくさかったのは事実だ。でも嫌な気分はしない。わかりました。と桜奈は一度大きくうなずいてみせた。

「椎名が休みの日にボランティアにずっと通うなんて、大変そうだなぁ。と思って損をしました」

「まぁ先輩は休みの日には勉強やセミナーばっかり、資格取得を諦めたのかとも思っていました。でもこっちの方が全然有意義ですからね。納得です」

 笑顔のままで首をかしげる海月と肩を落とす僕を見て、今度は冴子がたまらず吹き出した。

「なんだい。いい若者じゃないかい。それじゃぁ役者がそろったんだ。あんたらはとっとと遊びに行っておいしいお土産でも買って来な」

 そうなの。と海月は困ったように僕を見上げて、代わりに友美がずいっと僕たちの前に出た。

「話は聞きました。いい若者が若者らしく思い出を残せないのは歳をとってから後悔するよ。それに大丈夫。私はこれでも医療センターの師長まで務めたことがあるからね。若い療法士を手のひらで転がすのなんて慣れてる慣れてる」

 ふくよかなお腹を叩いて笑う友美の言葉に、今度は恭平と桜奈が固まった。

 でも。と海月は困ったように視線を泳がせている。足元が地面から離れてしまったようだ。

 急にやりたいことをやるように言われても、思いつかない。

「ほらほら。さっさと遊びに行かんかい。といってもまだ朝方だから酒は飲めねぇのが残念だな」

 なぁ。と雅吉は元治の肩を取り、元治もうんうん。とうなずいている。それでも動けないでいる僕と海月へ冴子が頭を掻きつつ歩み寄った。

「あたしらだってずっと世話になり続けんのは辛いんだよ。ちっとは楽しんで来な。それにあんたらふたりの時より人員は多いだろう? 不満でもあるのかい?」

 なぁ? と冴子は集まった人たちを振り返り、みんながそれぞれうなずいている。

 でも・・・とまだ動けないでいる僕の背中を恭平が押す。

「まぁまぁ遠慮せずにいってくださいよ。この借りは後々返してもらいますから遠慮なく。責任は全部先輩持ちでしょう? お気軽に」

 おい。と僕は恭平に押されながら反論する。桜奈は恭平と同じように海月の背中を押していた。

「話は聞きましたから。大丈夫ですよ。そこに伝説の看護師である友美さんもいらっしゃいますから。学生時代はスポーツ一筋、働き出してからは勉強一筋という超不器用野郎なんで、椎名くんが失礼なことをしたらいつでもご相談ください。ぶん殴りますから」

 えぇ。と背中を押されながら困惑する海月の隣で、物騒なことが聞こえるな。と僕は目を細める。

「さぁさぁ。お土産話とおいしいお土産はたんまりよろしくね!」

 友美の声がドアの向こうから聞こえてくる。ドアは閉められて僕と海月は玄関に向かう廊下の上で顔を見合わせた。

「困ったことになっちゃったね。時間を持て余しちゃう。お母さんもデイサービスにいっているし、こんなに時間が余っているのは初めてだ」

「だな。だからといって戻るに戻れないしな。どうする?」

「んー。とりあえずお散歩でもしますか。しっかしお互いに不器用だねー」

 不器用? と靴を履きながら僕は海月に尋ねる。一足先に靴を履き終わった海月はケアハウスから外に通じるドアを開けた。

「休日の過ごし方を知らないなんて、考えることも気がつくこともなかったから。もっとやりたいことがあったはずなのにね」

 残念だね。と僕は海月の後に続いた。

 遠くから甘い花の香りが風に乗って運ばれてくる。こんなことにも気がつかなかったんだな。僕と海月は同時に伸びをして、互いの姿を見て笑う。

 空はどこまでも高く、暖かく降り注ぐ日光に気が抜けた僕はあくびをこぼした。

 なんだか眠くなるねーと海月は気持ちよさそうにもう一度伸びをした。

「それでぽっかりと空いた休日に何をして過ごすか。難題だな」

 僕がふーむ。と空を見上げると海月ねぇ。と同じように空を見上げて口を開く。

「遊園地に行ってみたい」

「遊園地? 子供みたいだな」

 いいじゃん。と僕の一歩前に出て、海月は振り向く。そうかと僕が気がつく。僕たちはきっと行くべきだった場所を知らない。海月は向かう先よりもずっと知らないのだ。

「この歳になるまで一度も行ったことがなかったんだからさ。行ってみたい 遊び方を私に教えて」

「うーん。正直、僕も行ったことがないからなぁ」

「蒼葉も? みんな必ず行ったことがあると思ったけど」

「いやさ。母親は祖父母の介護でほとんどかまってもらえなかった。父は早くに亡くしたし。だから・・・うん。僕も遊園地に行ってみたい。子供みたいだけど、子供のころにできなかったことをやりたい」

「なんだ。私と一緒じゃん」

 海月はうれしそうにくるりとその場で回って、表情を見せずに僕の前を歩く。ぜんぜん違うと僕は言葉出さずに言う。海月と違って僕は生き方を選べたはずだったから。

 街を横断するように走る市電の終わりから、遊園地へと向かうシャトルバスが出ていると海月は言った。

 海月の言葉に従い、僕たちは駅から市電に揺られて、他愛もない会話で時間を潰す。

 内容のほとんどがケアハウスのことで、みんなうまくやっているかとか、元治が最近は片手で折り紙を折れるようになったこと、雅吉さんが記憶をたどるように幼い甥っ子の話ばかりをしていること。

 冴子さんはどうやらケアハウスを閉じると違う街に行ってしまうといったことだった。

「冴子さんね。遠くにいる子供さんの近くに住むんだって。ケアマネージャーさんが連絡を取ってくれたらしい。ずっと心配していたんだって。でも同居は嫌だからひとり暮らしをするって言ってきかないの。小さいころに娘にかまってやれなかったから、今さら頼ることはできないって。頑固だよね」

 海月は窓の外を眺めて言った。平日の昼間であるから路面電車は閑散かんさんとしており、僕たちは手足を存分に伸ばすことができた。

「それが冴子さんらしいといえば冴子さんらしいけど。でもよかった。僕が来た時に比べてとても体力がついたからな」

「うん。蒼葉のおかげだねぇ。冴子さんから健康のために! なんて言葉が出るとは思わなかったよ。あっ! そういえばリハビリっていつもいっている割にはよく意味がわからないよね。語源とかあるの?」

「えぇと。リハビリはラテン語が語源になっていて、リのReで再び、ハビリのHbilisは取り戻す、適するって意味がある。一般的に言われるのは再びその人らしい、人間らしい生活を取り戻す。って意味になるね」

 へぇ。と海月は両足を伸ばしたまま天井からぶら下がり、揺れている広告を目で追う。僕も海月に合わせて視線を泳がせると、知らない病院の広告がスタッフを募集している記載が目に入った。どの病院も患者で溢れておりスタッフは足りない。そして溢れる患者の多くが高齢者で行く末を案じている。

「その人らしい生活って誰が決めるの? 療法士さん? それともお医者さんかな?」

 独り言のように海月の口元から漏れ出た言葉で僕は言葉に詰まる。ちょっと前までの僕ならば当然のように自分の望む生活が困難でも、望む生活に近しい生活を他者の力を利用しながら過ごすこと。なんて答えを口に出していたと思う。

 意思決定にも対象となる人の意見は、もちろん反映される。しかしすべてが叶えられるわけではない。どこかで現実に折り合いをつけなければならない。

「リハビリとは! なんておこがましくていえないけれど、少なくとも納得する理由を探すために行うのがリハビリなのかもしれないね。自分自身らしい生活がいつまでもできるように。でも話しているとわからなくなるな」

「珍しいね。蒼葉はいつも自信満々で答えを持っていると思っていた」

「それは関節の動かし方とか上手な立ち上がり方、生活の仕方であって、生き方じゃなかったから。今の僕は椎名蒼葉だよ。理学療法士の先生じゃなくて海月の同級生だった椎名蒼葉だ。弱音くらい言うさ」

「はは。やっと人間らしくなったじゃない。再び、人間らしく・・ってことだね」

 どういうこと? と僕が海月を見ると、さぁね? と海月は目尻を和らげる。海月の周りに存在する空気は、車窓から流れ込む日差しに当てられて心地よい温度を保つ。

 その時、海月が僕は心底好きだと思った。こんなにぽっかりと空いた時間だから、素直な心が偽りもなく浮かんでくる。

 でも僕たちの間に存在するどうしようもない距離感もまた存在している。僕は病院で働き続け。海月は母の介護とケアハウスの仕事、ケアハウスが閉じられてしまっても生活するために介護と仕事に追われている。

 僕たちの間には自分の時間がない。他者を受け入れる余裕。それが僕たちの間に存在する誰も立ち入れない距離感の正体だった。ずっと昔の水族館で感じた一歩分の距離の正体でもあった。

 路面電車に終点を告げるアナウンスが流れる。僕は一足早く立ち上がった海月の後を追い、駅の改札を通り外に出た。

 駅前には『サンセット公園行き』と書かれた看板の前にすでにバスが止まっていて、僕たちはシャトルバスへ乗り込む。

 バスに揺られて三十分ほどで目的地へとたどり着き、僕たちはバスを降りた。

 目の前にはさまざまな色をしたチューリップが円形の広場を包む花壇かだんに咲きほこり、わぁ。と海月が子供のように大きな花壇へと駆け寄る。

 広くはないさびれた遊園地ではあるけれど、今の僕たちには十分だった。

 平日であるからかよけいに閑散かんさんとしており、花壇の奥にある改札にもよく似た出入り口には、チェック柄の異国風な衣装を着た中年の女性がいた。

 僕たちは恐る恐るスタッフからチケットを購入する。

「それでは一日をお楽しみください」

 係員から声をかけられて両手で大切にチケットとガイドマップを握る海月は、上目使いのままお辞儀をして僕も海月に習った。

 園内にはお菓子の家を思わせる建物や、見上げるほどの観覧車。近くに流線型のジェットコースターがガタガタと音を立て縦横に走っている。奥にあるメリーゴーランドには白馬や馬車といった乗り物が誰も乗せずにぐるぐると同じ場所を回り続けていた。

「なんだか。緊張するもんだねぇ。ほらチケットを買うのも知らなかった」

 海月は僕にへへ。と笑みを含みながらチケットとガイドマップを見せる。慣れない日常はこうも緊張するのかと、手の汗をきながら僕もだよと返す。

「そうだなぁ。まさか遊園地の遊び方を調べるなんて思わなかった。正直、僕も緊張していた」

「でしょ? なんか口数が少なかったもんね。でもこういうことは子供のころにきっと経験することなんだろうなー。うーん。ならまだできないことが山ほどありそうだね」

 だな。と返事をしながら僕はどこか切なくなっていた。僕も子供のころにどこかに連れて行ってもらったことはない。その点は海月と一緒だ。

 目に浮かぶのは忙しそうに祖父母の介護をする疲れた母親の姿。わがままを言うことは許されないと幼い僕でもわかっていた。

「とにかく楽しもうか。夕方には帰らなきゃいけないから、時間は限られている」

「だね。制限時間があるのはいつもと一緒だ。でもいつもよりずっと余裕はあるね」

 小さくも広い遊園地には本当に僕たちだけしかいないように、流れるメロディーが視界を包んでいく。その後、僕たちはとりあえず一番怖そうな乗り物から試していこうという海月の提案で、まずはジェットコースターに乗り込む。

 先頭にふたりで乗り込み、硬直する僕を海月はたいそう笑った。しかし乗り終えると海月は目を回しており僕が海月をからかうと、海月は口を尖らせて僕を小突こづく。互いに見合わせ笑みを含む。

 乗り物を巡りミラーハウスでは、屋内に張り巡らされた鏡に反射して無数に増えた。

「これくらい数が多ければ、ケアハウスの業務もずっと楽になれるよね」

 海月は僕に笑みを向けて、僕は笑みで返す。歩き出した僕が盛大に鏡へ頭をぶつけると海月はお腹を抱えて盛大に笑った。

 頭を押さえながら僕も笑った。ここに来てからは笑ってしかいない。こんなに他人の気持ちを考えずに笑ったことがあっただろうか。

 流れ続ける懐かしいメロディーに包まれながら僕たちは笑っている。

 子供のころに経験するはずだった時間の中で、子供のような笑顔で海月と僕は笑っていた。

 ミラーハウスを出ると海月はお腹が空いたと露天へと向かい、僕も後を追う。

「ここはもちろんクレープでしょう。コンビニで買うよりずっと大きいね。蒼葉は甘いものは大丈夫?」

「うん。大好物だよ」

「なんだ。知らなかったなぁ。そういえばお互いの話をしないもんね。いつだって利用者さんのことや仕事のことだから。もっと蒼葉の話を聞きたいよ」

 袖の広い白い調理用の服を着た男性から、僕たちはそれぞれまだ暖かいクレープを受け取る。あそこで食べましょうか。と海月は遊園地の中央にあるベンチを指差し僕たちはベンチへ向かい腰を下ろした。

 腰を下ろして足が疲れているのに気がつく。それほど夢中になっていたんだなと思い、体力までは子供みたいにいかないなと僕は苦笑する。

「今日は笑いっぱなしだね。頬が痛いよ。そんなに笑っていなかったのかな?」

 海月はおかしそうにクレープを口へと運び、ほぅ。と目を丸めた。

 僕たちは青空を見上げながら、クレープを無言で口に運ぶ。ただ隣に海月がいるだけで音のない時間に安心している。口いっぱいに広がるチョコレートとクリームの甘さは忘れないだろう。

 目の前に髪の長いロングスカートに身を包んだ女性が、ベビーカーを押しながら歩いている。幼児が僕たちを見て手を振り、海月は子供へと手を振り返す。

「ねぇ。蒼葉には将来の夢とかってある?」

 突然だなぁ。と僕が腕を組むと、いいじゃんと海月は頬を緩める。

「将来の夢、というより目標はあるね。病院でリハビリを受ける人たちがすぐに自宅に帰れて、自分の望む生活を行えるように、いろんな職種の人と連携してリハビリを行うこと。そのために定期的に話し合いをしたり、勉強会をしたりする。でも今の職場ですぐそれを実行するというわけにはいかない。上司が僕の自由を許さないからね。だからもっと偉くなる。たくさん実績と資格を取って多くのスタッフに認められて・・・もっと自由に職場で働ける環境を作る。それが目標であり夢」

 立派だねぇ。と海月は肩の力を抜いた。

「海月の夢は?」

 僕の問いに海月は固まり、指先を組んで大きく伸びをする。わかんない。と海月は空を見上げた。

「聞いておいてなんだけど、私は将来の夢がわからない。思いつかないんじゃなくて、わからないの。そりゃ子供のころは当たり前に結婚をして、子供を産んで、お母さんになるのかなぁとか思っていたよ。でもお母さんの介護をずっとする中で忘れちゃった。思うんだけど、夢ってさ。今までたくさん当たり前のことを経験した先に、できるんだと思うんだよね」

 夢を抱けるのは心に余裕があるからである。切迫した日常で描く願望と、将来に希望を抱く夢の質は違う。前者はあきらめによどみ、後者は希望に満ちている。

「蒼葉だって仕事をしていて、リハビリをという道を選んだからその夢や目標があるんでしょう? そして学生時代は友達と部活や普通に授業を受けて、今そこにいる。働き出してもあんなに楽しそうな同じ年頃の友達もいてさ。ちょっと嫉妬しちゃいました」

 海月は舌の先端を出し、僕を見上げる。僕は海月の言葉に一言も返せなかった。

「ねぇ。働き出してから居酒屋とか行ったことある? お酒は飲んだ? お酒ってどんな味がするのかな? いつ夜中に病院へいかなきゃならないと考えると、私はお酒を飲むことが怖い。どんなに興味があってもね。ねぇどんな味がするのかな? その後カラオケとか二次会で行ったりするのかな? 教えて?」

「おいしいとはいえないけど、きっと楽しむために飲むのかもしれない。もちろん甘いお酒だってある。居酒屋にはたくさんの料理が並んでいる。今日手伝いに来てくれている恭平は昔バンドをしていて、すごく歌がうまい。優しそうに見える桜奈は酔うと感情の起伏が激しくなって、怒った次の瞬間には大声で笑ったり、とにかく忙しい」

 意外だね。とクスクスと笑みを含む海月の横で、僕は言葉を選んで話している自分に気がついた。手を差し伸べたいと心から思う。

「子供の時に流行っていた歌を知っている? テレビ番組は? 予想はついても、私は知らないの。蒼葉以外のクラスメートと話した記憶はない。だからかな。私は人よりも劣っている。経験すべきことを経験していなかったから。夢なんてわからないくらいに」

 海月はずっと昔から、本質的には今の海月だったのだ。ひとりでなくても孤独である。孤立していると言ってもいいだろうか。もう寂しいとは感じてほしくない。

「いろいろ考えてみたんだけどさ。海月の役に僕は立てないかな? たとえばお母さんのことだって短期の入所、レスパイト入院といった方法で一週間くらい施設に入ったり、病院に入所することで海月にもっと時間ができるかもしれない。他にもし僕が海月の家に行ってお母さんのリハビリをさせてもらえるなら・・・」

 言い終わる前に海月が僕の方を向いて、右手の人差し指を僕に伸ばして額へと当てる。指先はひどく冷たい。指先が触れているはずなのに海月の実態はまだ遠いところにある。

「言ってくれると思った。けどね。まだ蒼葉にはそこに踏み込んできてほしくないの。決して嫌ではないよ。でもね。それは私が選んだことで、全部が嫌ってわけではないの。私は小学校のころから母の介護しか知らないからかもしれない、お母さんだって好きでそうなったわけでもないし、もう私のことはわかっていないかもしれない。でもケアハウスで働いていることや蒼葉のことを話すと喜んでくれているように見える。デイサービスでも楽しんでいるって聞くとうれしい。全部が全部嫌ってわけでもないし、自分のことを不幸だとは思いたくない。私はちゃんと私として生きているから。不幸じゃないの。蒼葉にだけは、私が不幸だと思われたくない」

 海月の瞳の奥に光が反射して薄茶色に見える。もちろんそうだと僕は体の力が抜けるのを感じた。今まで僕は知らず知らずのうちに、海月のことを不幸な女の子と見ていなかっただろうか。

 病を患う患者はもちろん不幸だ。だからといって大切な人を介護する人が必ずしも、不幸であるわけでもないのだ。もちろんすべての人がそうではない。でも海月は、海月と母との世界の中で生きている。僕と同じように。

 海月にはもっと自由に生きてほしいと思う。遊園地で子供のように笑う海月は本当に綺麗だったから。海月の住む世界はこんなにも広いのだから。

 僕も隣で。せめて一歩分の距離があったとしても、生きたい。

「こう・・・患者がいる生活に慣れてくるとこんな当たり前のこともわからなくなるんだな。目の前で困る人を全員救わなければいけないと思ってしまう。その人がまだ救われるのを望んでいなくても、勝手に不幸だと思って救おうとしてしまう。傲慢ごうまんだ。見方によってはわがままなエゴイストかもしれないね」

「ふふ。でも蒼葉の優しさで救われる人はたくさんいるよ。間違っていない。間違っているなんて考えないで。私がただ人よりひねくれているだけ。蒼葉だけにはかわいそうだって見られたくないの。わかるでしょう?」

 僕はうなずく。もし海月に今の僕を不幸だと思われて、大丈夫だよと声をかけられる。もしかしたら心の中で同情されることを望んでいる自分がいるのかもしれない。でも海月に同情されて、対等ではないと知ったらきっと、耐えられない。あなたとは別の人間だと言われていることに等しいから。

 だから・・・と海月はそっと指先を話すと両手を膝の上に揃えて目を伏せる。

「いつか私がひとりで耐えられなくなったら、ってくれるだけでいいの。お母さんも年々弱っていっちゃって、お医者さんからも自宅で生活するのは限界かもしれないと言われている。でもお母さんが死んだら私はいよいよひとりになる。何も知らないままで。だからといって私を決して救わなくてもいいし、支えてくれなくてもいいの。疲れた時に横にいてくれて、立てなくなったら寄り添わせてくれるだけでいい。それだけ約束して」

 約束するとはっきり答えた。海月は僕との間にある一歩分の距離を詰めて、僕の肩に寄りかかる。首筋に当たる栗色の髪がくすぐったい。僕も海月に体を預ける。目の前には誰もいない遊園地で、観覧車がゆっくりと回転していた。

「いろんなことが落ち着いたら旅行に行こう。他にも海月のやったことがないことをたくさんやろう。僕も・・・今までやらなかったことをやろうと思う。休日はしっかりと休んで、海月と一緒に遊びにいく。やったことがないことをやる」

「いいの? その時にはきっと、おじいちゃんとおばあちゃんになっているよ?」

「待つさ。それに高齢者にとって外出の機会は身体機能を維持するため必要なことだから」

 なんだそれ。と海月はささやくように言って目を閉じる。僕に身を寄せる海月を支えた。もしかしたら一方的に誰かを救おうとするのではなく、こうやって寄り添うことが、本当に必要なリハビリテーションではないだろうか。

 寄り添いあって漂い続ける。水槽の中で浮かぶミズクラゲがまぶたの裏で漂い続けている。空へ空へと向かうように浮かび上がっては沈む。

 僕は海月の温度を感じながらそんなことを考えた。

「あっ! やって見たいことがあったんだよね」

 海月はベンチから立ち上がり、僕の右手を左手でつかみ、引き上げると照れくさそうに笑っている。そのまま歩き出し、僕は隣に並んでゆっくりと足並みを揃える。違う歩幅であっても同じ速度で進めるように。

「昔さ、お母さんがまだ元気なころだけど、こうやって一緒にお散歩してたんだよね」

 海月は手をつないだまま視線を前に置いた。視線の向こうにはきっと過去が映っているのだろう。未来ではなく、まだ知るはずだった過去を追いかけている。

「なぁ。どうして小さいころの思い出ってなんで突然浮かんでくるんだろうね」

「さぁ。正直今まで忘れていた。もうお母さんはひとりで立ち上がることもできないから。でも過去は懐かしくても羨ましくは感じないのが不思議だ。きっとこうやって生きていくんだろうね。いろんな楽しいことを思い出しながら。ケアハウスがなくなっても、みんなきっと思い出すんだろうね」

「僕たちに話してない思い出がたくさんありそうだ。若いころは想像できるけど、僕たちの想像よりもずっとにぎやかだろう」

 過去には決して戻れないけれど、思っていた未来とはまったく違う未来でも、人は生きていける、その胸に過去を抱くことで思い出の中でも生きていける。

 障害を持ち、昔のように生活をできなくなることは、決して不幸だともう思えない。僕が勝手に不幸だと決めつけていただけだ。少し前までの自分が恥ずかしい。

 リハビリテーションの目標は過去にあるわけではなく、きっとこれからにあるのだ。当たり前のことでも、痛いほどわかる。

 再びではなく、これからなのだ。

「さて。でもやっぱりケアハウスのみんなが心配だなー。お土産買ってゆっくり帰りましょうか」

「連絡がこちらに入ってこないということは、うまくいっているということだけど、ちょっとみんなに会いたくなった」

 だね。と海月は僕を見上げる。海月から伝わる左手の温度をたしかめる。指先が絡み握ると、海月が握り返した。

 海月の隣で、同じような陽だまりをゆっくりとした歩幅で歩きたい。

 どこまでも。道のりの果てが見えなくても歩きたい。

 遊園地から街中へとシャトルバスに乗って戻ると、小さな商店街が見えてくる。商店街にはシルバーカーを押す老人や、夕飯の支度だろうか、中年の女性の姿も多くあった。

 僕たちは人の流れに合わせて、肉屋でコロッケを買い、一緒につまみ食いしながら店先に並ぶお刺身やイチゴのパックを手に取った。

「元治さんは飲み込みが少し悪いから、このネギトロなんか食べれるんじゃない?」

「だね。雅吉さんはなんでもおいしそうに食べそうだけど、冴子さんは何が好きなんだろう?」

「ふふー。冴子さんはああ見えて大の甘党あまとうで、羊羹ようかんが大好きだから、後で買っていこう」

「甘党なのは意外だな。甘いお菓子は絶対に食べない人だと思ってた」

 人は見た目によらないね。と海月がクスクスと笑い、僕は同意する。後はみんなで食べれるような惣菜の詰め合わせを購入し、海月のお母さんには・・・と口を開きかけて僕は言葉を飲み込んだ。

 きっと海月の母親はいわゆる寝たきりの状態であるのだろう。当然好きな食べ物を食べようとしても低下した嚥下機能えんげきのう、食べ物を飲み込む力では誤嚥ごえんしてしまう。気管きかんから肺に入り込んだ食物で、簡単に高齢者は誤嚥性肺炎ごえんせいはいえんを発症する。そして誤嚥性肺炎の発症は時に致死的ともなるのだ。

 ふと僕は花屋が目に入る。店先に並ぶ鮮やかな花々が並んでいて、赤や白、ピンク色や紫といった色で花弁の多い花がある。アネモネと書かれた花はしっかりとした幹でまっすぐと立っている。

「海月のお母さんの好きな色は?」

「どうしたの? 突然。えぇと。紫色が好きだと思う。お洋服はたくさんあるし」

 よし。と僕は花屋へと向かい店先で花を整えている店員へと声をかける。白色のバンダナとタンポポ色のエプロン、そしてやわらかく目尻にシワを刻んだ女性。背筋はまっすぐ伸びいる。僕たちの母親くらいの年齢だろうか。

「あらあらいらっしゃい。花をお探しですか?」

「えぇと。そちらのアネモネと書かれたお花をください。紫色を」

「そちらのお嬢さまにですか?」

 店員は幸せそうに頬を緩めた。僕は、はいと答える。

「この人と、お母さんに」

 まぁ。と花屋の店員は口元に手を当て、すぐに準備しますね。とアネモネを手に取る。やりとりを見て、海月はゆっくりと目を細めた。

「いつの間に・・・覚えたの?」

 海月の弾んだ声に僕はすっかりと照れくさくなり視線をそらす。視界には長さがまちまちの花々が見えた。胸の鼓動が耳で鳴る。自分らしくはないと思いながら、今までやったことをないことをやる。そして寄り添うのだと約束した。約束したからには行動しなければならない。と言いわけばかりが鼓動に合わせて並ぶ。

「えぇと。部屋の中に花があると気分がいいと昔、担当していた患者さんに聞いたことがあるから・・・」

「なるほど。安心した」

 安心? と聞き返す間も無く店員はすぐに硬いビニールに包まれたアネモネの花束を海月に手渡す。

 僕は代金を支払い、店を出ようとすると店員は一度深々とお辞儀をした。

「それではお幸せに」

 追いかけてくる言葉に僕は赤面したまま会釈をする。隣を見ると海月は静かに耳を真っ赤に染めていた。

「さぁ。ケアハウスがどうなっているか。早く帰りましょうか」

だな。と海月に答えて僕たちは言葉もなくもと来た道を歩く。海月に抱かれたアネモネの花はまるで水中で漂うかのように、踏み出す足に合わせて揺れていた。

-◇-

 ケアハウスに帰り、舞台のあるデイルームの扉を開こうとすると中からギターの音がした。アコースティックギターの宙に浮いては消えていく軽やかなリズム。その音に合わせて歌声もまた聞こえる。きっと恭平だなと僕は隣で首をかしげる海月と一緒にそのドアを開く。

 ステージの中央で椅子に座ったままギターを弾き、目の前でたたずむマイクへと言葉を紡ぐ恭平が見えた。曲はわからないけれど、どこかで聞いたことのあるような英語の歌詞である。

 ステージの下に置かれたテーブルには桜奈が突っ伏している。普段のリハビリとは違う疲労で、最初は僕も同じだったなとちょっとだけ同情した。

 雅吉は元治の隣で椅子に腰かけ、腕を組み恭平の歌に聞き入っている。僕よりずっとうまくいっていた。

「あぁ! 帰ってきた! しっかもすっげぇラブラブじゃん!」

 僕たちに気がついた恭平は歌を止め、マイクを通してそう叫んだ。僕と海月はまだ互いに手をつないだままだったことに気がつき、その手を離して背中に隠す。海月の右手にアネモネの花束があり、僕の左手にはみんなへのお土産が紙袋いっぱいに詰められている。

「おやおや。花束なんかしゃれてるねぇ」

 右横のカウンターから、口元を歪めるよう笑っている冴子が僕たちに歩み寄る。

「蒼葉がくれたんだよ。いつこんなことを覚えたのやら」

 海月は照れくさそうに冴子へ話し、僕は言いわけもせずに目線をそらす。

 ふくよかな身体をした友美が額の汗を拭きながら、居住スペースへ続く扉から姿を現した。

「あらあらおかえり。ずいぶんと楽しめたみたいだね。それにこのふたりはとってもがんばってくれたわ」

 ふぅ。と息を吐きながら友美は言った。桜奈はテーブルへと突っ伏したまま右手を挙げる。

「まさに伝説の看護師ここにあり! って感じだったよ」

 桜奈は手を上げたまま息もえに言った。僕は視線を感じ、その方向を見ると雅吉がこちらを見ている。言葉もなく作られた笑みは、ただその状況を楽しんでいるのではなく、自身の思いが叶った後のような、やわらかな笑みだった。

 僕たちはみんなに手伝ってもらい、買ってきた惣菜そうざいや刺身、コロッケといった統一感のない食事をテーブルに並べる。たまにはいいねぇと冴子は口元に手を当てた。

「体によろしい食事ばかりじゃ、心に毒だからね」

 それはどうだろうと僕は首をかしげる。いつもだったらみんなが食事をしている間に、海月は次の食事の準備をしていた。思えばみんなで食卓を囲むというのも、初めてかもしれない。

 雅吉は持ち手の太いスプーンで器用に刺身を拾い上げて口に運ぶ。前は腕を上げることができなかったのに、今や雅吉はほとんどのことをひとりで器用にこなしていた。ボタンを止めることや、趣味である盆栽の剪定を行うことはまだできない。できないことはもうそれくらいだった。

「そういえば恭平くんに聞いたんだが、仕事がとっても大変そうじゃないか」

 雅吉は口元を動かしながら僕にスプーンの先端を向ける。僕は視線をそらした恭平へ眉をひそめる。

「いや。それほど大変じゃありませんよ」

 僕が雅吉に答えると今度は桜奈が、またそればっかり、と口を挟む。

「主任がやるべき仕事までやって、主任が取るべき責任まで取らされて。目標の資格取得まで邪魔されて、よく言えるねぇ」

 うんうん。と雅吉はうなずき、海月は僕を見上げる。

「それは話してくれなかったね」

「えぇと。まぁ話すことでもないかなと」

 聞きたかったよ。と海月は口を尖らせる。僕はここにいる間は職場の話をすることは極力避けていた。職場での感情や空気が介在することは嫌だった。海月の周りはただただ平和であってほしい。

 まぁそれはなぁ。と刺身を飲み込んだ雅吉が綺麗になった口を開く。

「上司が熱心で優秀な部下の成長を恐れて邪魔することなんてよくあることだよ。でもな。その時点で蒼葉くんは勝利しているから別に競わなくてもいいし、気にする必要がないんだ。ただ自分のやりたいようにやればいいんだよ。こうやって同僚も後輩も付いてきているんだから。見なくてもいい景色は見なくていいんだ」

 な? と目配せする雅吉の言葉になんだか僕は答えを得た気分になった。長い間僕を苦しめていた問いの答え。誰も教えてくれなかった答え。当たり前のことだけど目の前にいる患者や利用者は、僕よりもずっと長い間、社会で生きている。

 普段リハビリを指導することばかりに慣れていると、そんな当たり前にことすら気がつかなくなってしまうな。僕は素直に反省した。

「なんていうか焦っていました。僕の目の前には患者さんがたくさんいて、自分ひとりでどうにかしなければいけないと、そんなことばかり考えていました。患者さん自身を含めて、こんなにも周りに人がいるのに」

 素直に自分の気持ちを伝えることができるのは、海月のおかげだと思う。ケアハウス薫に来ることがなければそんな当たり前のことを忘れたままだっただろう。元治は言葉なくうなずいている。それでだ・・・と雅吉はテーブルへと身を乗り出して僕と海月を交互に見た。

「今日、おふたりさんがどんなことをしてきたか、おじさんはとても興味がある」

「それは私も私も! ねぇねぇ! まさか一緒に買い物してきただけってわけじゃないわよね」

 口いっぱいに食べ物を詰め込んだ友美さんは、忙しく口を動かしながら手を挙げる。期待は裏切るだろうなと考えて、それもいいと思った。

「えぇと。一緒に遊園地に行ってきたんだよ。ふたりとも今まで一度も行ったことなかったから・・・」

 海月が僕を見て僕もうなずく。遊園地ぃ? と冴子があきれたように肩の力を抜いた。

「いい歳した大人が揃いも揃って遊園地かね。まぁ、あんたらしいといえばそうだけど、遊園地ねぇ・・・」

 あきれる冴子の隣で、くっく。と低い音の笑い声を元治が飲み込む。だねー。とうれしそうに笑う海月の横で僕は首を掻く。

 目の前の恭平と桜奈もまたニヤニヤと僕を見ていた。

「頭の中はリハビリや医療のことしか考えないリハビリロボットだと思っていたけど、椎奈くんもちゃんと人間だったねぇ」

 どういうことだよと目を細める僕に、さぁね。と桜奈は腕を枕にしてそう言った。恭平もまたうんうん。とどういうするかのようにうなずいている。

「やっと先輩の人間らしい部分が見れました」

 お前らと肩の力が抜ける僕の袖を海月が少し引っ張る。

「これもリハビリテーションってことでしょ? 再びその人らしく・・・」

 そうだな。と答える僕に海月はふふん。と得意げに鼻を鳴らした。

 楽しい夕食だった。それぞれが好きな食べ物へと手を伸ばし、腹を満たした恭平はステージへと再び立つ。アコースティックギターの音がケアハウスの中に響いた。

 本来の役割を取り戻したケアハウスが奏でる音楽を、誰もが互いに対等な立場のままで聴いている。患者や利用者、療法士や介護士といった境界きょうかいは存在せず、ただ共に過ごした時間だけが過ぎていった。

 雅吉は恭平の歌をテーブルへ肘を付き、体を揺らしながら聞いている。時折目を伏せ、感情で思い出を触れていた。

「なぁ。引越しが終わったら遊びに来てくれよ。もちろん海月ちゃんと一緒にな。俺の甥っ子をまた会えた時に紹介できるようにしておくよ。なにせ小さいころの姿しか知らねぇからな」

 舞台へと視線を置いたまま雅吉は、何度も聞かされた言葉を添えて言った。僕はうなずく。

「必ず行きます。ちゃんと自主トレーニングを続けていたか、確認させてもらいますね」

 厳しいな。と雅吉は笑い、僕はうなずく。歌詞の中に埋もれた雅吉の言葉に僕は心を満たされていて、奏でられるメロディーが、いつまでのこのケアハウスの中に流れている。

 しかし雅吉との約束が果たされることはなかった。

 雅吉はケアハウスを退所した一か月後、自ら命を絶った。

 たったひとりで、誰にも看取られることもなく。

 自ら命を絶ったのだ。

→-5- 失われる臨床と理学療法士(5/6章)(近日公開)


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