『くらげの空で浮かぶ』-3- 願いと遺言のケアハウス (3/6章)/小説
「ねぇ。蒼葉。ちょっと疲れているんじゃない?」
ケアハウスで働き始め一か月が経った。
ようやく業務に慣れてきたころ、元治の部屋を海月と一緒に整えていると、シーツの端を整えながら海月は言った。疲れている・・・のだろうか。
疲れているのだろう。いつもよりずっと体が重い。
風邪は引いていないのに、頭もまた鈍い。
「大丈夫だよ。これくらい。体力はある方なんだ」
そう?とシワ一つなく整えられたベッドを確認し、海月は面を上げる。仕方がないなぁ。と苦笑したまま僕を見た。
「疲れているよ。傍目からわかるくらいだから、蒼葉が思っているよりずっと疲れている。わかるんだよ。普段は仕事で休みは私たちのお手伝い。ちゃんとした休みがないじゃん」
わかるんだよ。と言葉を結ぶ。海月も同じなのだろうに、疲れのひとつも見せないから立派だと思った。こんなにも違うのかと。
「海月だって同じだろう?休みの日はお母さんの介護を続けているじゃないか。変わらないさ」
変わらないと言いつつも僕よりずっと疲れているだろう海月の前で、弱音は吐きたくなかった。ただ格好をつけているだけだとしても。
自分よりずっと辛い境遇の海月を前に、疲れているだなんて決して口に出してはいけない。
あのねぇ。と息を深く吐きながら海月が僕を見た。
「変わるよ。それに違う。私が続けるのは日常でしょ? でも蒼葉は違う。ずっと仕事しているようなもんでしょ?私だって休みもなくケアハウスの仕事をしていたら疲れちゃう」
「海月も疲れているの?」
わかんない。と海月は首を横に振る。そしてベッドの向かいから歩み出すと僕の正面に立つ。奥に向かうほど深い丸っこい形の瞳で見上げた。わからないほど、僕よりずっと日常に介護があるのだろう。
「蒼葉がこんなにがんばってくれるのは、仕事だから?」
僕に与えられた仕事は、このケアハウスの住人にリハビリを行い、介助量を少しでも減らす。そして次に向かう場所を選びやすくするためだ。
次に向かう場所。という言葉を僕は飲み込む。
降りしきる雨が川下に向かう現象と同じ、仕方なく行き着くべき場所に行き着くといった現象だ。望まれた選択ではない。
「ここに来る前は仕事だから。自分に与えられた使命だから必死にがんばらなきゃいけないと思っていたんだけど、違う。海月が普段見ている世界を見ていたいんだ」
思考とは別の場所にある心の声が溢れ、僕はハッと目を丸める。目の前にはわずかに頬を染めた海月がいた。
「本当に蒼葉は真面目だねぇ。でも・・・そんな単純じゃない気もする。私のためにがんばってくれているの?」
「気に障ったならごめん。でも本当だ。楽にしてあげたいのも本当だし、僕自身がもっと知りたいという気持ちも本当だ。うまく説明はできないけど」
ありがとう。と海月はうつむき口元だけを動かす。そして瞬きほどの間を置いて僕を再び見上げる。海月のありがとう。という言葉が僕の何を指すのかはわからない。同情しているとは思われたくない。海月は望まないだろうから。
「ならちょっと休憩しておいで。私たちのことを想ってくれるのならね。体を壊して、蒼葉がケアハウスに来られなくなる方が私は辛いよ」
本当だよ?と海月は目を細めて首をかたむける。
「体力には自信があったとは思うんだけどな。昔のままじゃいられない」
「そうだよ。もうお互い立派な大人だ。いつの間にか。気がつかないうちに。デイルームでしばらくゆっくりしておいて、必要な時には声をかけるから」
そうするよ。と僕は部屋の扉へと向かう。換気のために開かれた窓を閉じる海月を一度振り返り、そして部屋の外へと出た。
仕事と日常。海月の日常は普段臨床にいる僕にとっては休みのない仕事の日々にしか思えない。
次の居場所。と考えて本当に海月が自分の人生を見つける瞬間はきっと、介護が必要な母親を失う時なのだなと考えて、首を強く横へ振る。
それは同時に海月の日々の喪失でもある。行く場所を失い、次の場所を探さなければいけない。住む場所ではなく、新しい生きるべき日々を。
海月は少なからずの罪の意識を抱きながら生きてしまうだろう。
どうにかしてあげたい。しかしまだ方法は思いつかない。
考えながらデイルームに戻ると、中央のテーブルに冴子がいた。車椅子に乗った元治と向かい合い、足を組んだままふたりでステージを眺めている。雅吉はいなかった。
「あれ?雅吉さんは?」
僕が尋ねるとテーブルに肘を乗せ、頬を支えながら冴子が横目を僕に向けた。
「リハビリ中。集中したいんだってさ。熱心だねぇ」
なら僕も顔を出さなければ。と踵を返しそうになって止めた。海月にまた余計な心配をさせてしまうだろう。僕はおとなしく冴子の向かいに腰をかける。おや。と冴子の頬が緩んだ。
「行かなくていいのかい?まっさきに跳んでいくと思ったけど」
「海月にゆっくりしなさいと言われましたから」
それがいい。と冴子は僕へと向き直る。筋張った首筋はいくらか張りを落としている。無理せずに呼吸を続けている証拠だろう。
「あんたも、海月もがんばりすぎなんだよ。あたしと元ちゃんをちょっとでも見習ったらどうだい?日がな一日だらだらとしているからさ」
「それは・・・」
続きを話そうとして口を結ぶ。望んでいても体が追いつかないからであることは明白だ。遠出しようにも冴子の体力は追いつかずに、ケアハウスから出てもすぐに息が切れるだろう。車椅子の元治は入り口の段差をひとりで乗り越えることができない。
選べないのだ。海月と同じだと思った。選択の余地がなく流れ着いた場所で生きるしかない。
会話の節目で僕はステージを見上げる。埃のかぶったドラムセットは暗い照明に溶け込んでいた。埃の量に比例して思い出もまたずっと過去にあるのだろう。
「昔はもっと賑やかだったみたいですね」
僕が言うと、もちろんさ。と冴子が支える腕へと薄い頬を預ける。
「バンドを呼んでさ。あたしだって歌が上手だったんだ。今ではとても歌えないがね。雅吉はベースが弾けるんだよ。どでかいウッドベースをね。汗を掻きながら運び込んでさ。そりゃもう見事だった。全部が昔話だけどね」
「元治さんは?」
「呑む担当。たくさんお金を落としてくれる貴重なお客さん。友達もたくさん連れてきてくれたね。そりゃ稼がせてもらった」
ねぇ。と冴子が元治へと軽く右手を振った。奥で元治が片手を額に当てた後で、親指をぐっと立てて額にシワができるほどの笑みを浮かべる。言いたい言葉はわからない。きっと冴子にはわかるのだろうなと目を向ける。
「ほら。稼がせてやったって言っているだろう? いやだね。若者に昔話をするなんざいよいよもって老いてしまったよ」
「まだお若いですよ。年相応には見えない」
「もっと上手に褒め言葉を選べるようになりな。そんなんじゃ海月を口説くなんざ叶わないねぇ」
それは・・・と言いかけて口をつぐむ。細く緩まる冴子の瞳には嘘や建前を言える気がしない。長く接客業を営んできた彼女の力だろう。
「あんたも将来の夢があったのかい?」
「バスケットボールの選手になるつもりでしたよ。少なくとも高校生になっていろんな現実を知るまでは」
「いいねぇ。華がある。夢には華がないといけない。叶うか叶わないかは別にしてね」
それにしてもねぇ。とため息混じりに冴子が続ける。
「あんたも海月もまじめすぎるんだよ。まともすぎる。とでも言うかね?こんなジジババの相手ばかりして、もっと人生を楽しんだらどうだい?」
人生を楽しむ。僕は楽しんでいるのだろうか。楽しんでいたのだろうか。
祖父母の介護を続ける現状から、優しい母の言葉に甘えて逃げた。
成長してからは臨床に追われ、目の前の高齢者にリハビリテーションを施し、その人らしい生活を再び獲得する。感謝の言葉を何度も聞いた。
悔しい思いもした。その度に奮い立ち、心が震えて前に進めた。
ただそれは人の不幸に手を差し伸べて、承認欲求を満たしているだけではないのか? 身を切るように休みもなく働いて、僕はどこへ向かっている?
僕がこれから先に向かう場所は、どこなのだ?
「考え・・・ている。まじめ・・・だ」
元治の声が途切れつつ聞こえて、へっへ。と音の歪んだ笑い声が追いかけてくる。
「本当だよ。申しわけなくなるじゃないか。海月にも同じことを言ったこともあるんだ。なんて答えたと思う?」
「・・・私はこれ以外知らないから」
母の介護を続けながら生きてきた海月はきっと、今の生き方以外を知る術がなかったのだ。僕とは違う。僕にはいくらでも逃げ道がある。選ぶことができる。
海月は違う。日常が介護の場で、僕たちで言うところの臨床である。
「正解。あたしらのことなんて放ってふたりで遊びに行きな。と言いたいところだけどね。もし元治や雅吉が倒れたとしても、あたしじゃ助けられない。逆でも同じだろう? 一度大病を患うとね。死を実感しちまうと常に死がつきまとうんだ。ひとりで生きることが難しくなっちまう。体も心も弱っちまうんだ。お迎えを待ちながら、あの世とこの世の境目にある苦痛に怯えちまう」
「それはそうでしょう。苦しみを自ら望む人なんていない」
「だからかね。多少の苦痛の方がまだマシに思えちまう。できることなら苦しみを避けて、停滞の中でお迎えが来ることを望んじまうんだ。こうやって若い連中から世話されて生きなきゃならない。肉親でもないのにね」
考えもしなかっただろう?と冴子が元治を見て、元治がゆっくりとうなずく。
「それは仕事だから・・・」
「仕事も山ほどあるだろう?選んじまって続けているのは自分さね。あたしにも親類がいたさ。でもあたしはあたしのことが一番大事でね。全部ほっぽり出して生きてきた。友人には恵まれちゃいるけど、それだけだ。長生きするのも考えもんだ。ここがあたしの最後の砦さね。老いと病に攻め込まれて陥落寸前の砦だ」
「でも僕が選んだ仕事ですから」
海月はどうだったのかな?と冴子が言い、海月には選択の余地がなかったことを思い出す。会話の中で薄れていた現実。
分厚い雨雲よりもずっと暗い不幸が降りかかり、雲の切れ間から差し込む頼りない光とよく似た幸運で海月はこの場所にいる。
「高齢者がいなくなっちまえば、海月とあんたはもっと楽に生きられるのかね?明日から老いも病もない世界になるとしたら」
「そうしたら僕は仕事を失いますね。今まで積み上げてきた日々も失ってしまう。耐えられるのかと聞かれたら、自信がありません」
「持ちつ持たれつってことかね。本当に・・・あたしたちはどこに向かうのだろうねぇ」
どこに向かうのか。いずれ訪れる死だろうか。僕は、きっと海月も高齢者を支えているようで、実のところは頼って生きているのかもしれない。
そうでしか自分自身を認めることができない。介護を、リハビリを心のよりどころにしているのだろう。
正直目を背けたいが金銭的な支えでもある。仕事にして生活を営んでいるのだから。
そうして自分自身を犠牲にして、犠牲にせざることでしか生きてこれなかった場所にいる。
僕は望んでその場所に行き、海月は望めずたどり着いた。
次に行く場所が定まらない袋小路へ。
似ているようで根本がかけ離れている。
扉の開く音がした。見ると左手で右手を支えながら挙げる雅吉がいた。
「揃いも揃ってどうしたんだい? 俺には見えないライブでも開かれているのかな」
「そうだよ。いよいよ人には見えない景色が見えるようになっちまった」
そりゃいいね。と雅吉が僕の隣へと座り、遅れて海月が現れる。
「ちょっとは休めた?」
「休めた。さぁ次は・・・どういたしましょう?」
そうだな。と海月が腰の後ろで手を組んだ。仕事・・・とは言えなかった。冴子たちはステージの上を眺めている。
目には見えなくてもきっと、同じ景色を眺めているのだろう。
選択の余地がない袋小路で、過去を見ている。後悔かそれとも過去に起き忘れてきた羨望か。
冴子たちの心に漂い続ける言葉を、僕は尋ねることができずに居住スペースへと足を向ける海月の後に続いた。
-◇-
病院へと出勤する前、家を出る瞬間に悪い予感がしていた。
空気が湿っているせいか、雨雲が街を包み普段よりも暗い道のりは朝が早いとはいえ暗澹としている。
きっと、彼女の命が今日失われるのだろうと、なんとなくわかった。
先日転院してきた彼女は、九十歳を超える老女である。名をタミ子と言った。車で二時間以上かかる山奥の小さな町で生まれ育った彼女は、嫁入りとともに街中へと移り住んできた。
子をひとりもうけ、早くに旦那を亡くしたが、女手一つで育て上げ、ひ孫が三人もいるくらいには長生きした。十分に生きたと言えるかもしれない。
タミ子を担当しているのはまだ一年目の療法士である。患者の死をまだ知らない彼女は口には出さずとも、日に日に暗くうつむいていた。
自分のせいだと感じているのだろうか。雨雲と同じ濃度の横顔をここ数日見かけていた。しかしどうしようもないこともある。仕方がなかったという言葉で締めくくるしかない終末がある。
終末期の心不全に、腎不全も進み尿量も取れていない。脈拍は徐脈と頻脈を繰り返し意識はもう曖昧である。家に帰るどころかリハビリテーションを行う状態でもなかった。運動に耐えられる体ではない。
病院にたどり着き身支度を整えナースステーションへと向かう。
慌ただしさの名残を残し、タミ子のいる病室は閉じられていた。
医師の机に死亡診断書が置かれている。急性呼吸不全。それがタミ子の死因であった。
「やっぱり来ていた。嫌な予感がしたでしょう?」
振り向くと桜奈が立っていた。嫌な予感ほど当たるのは臨床だけではないだろう。
「あぁ。一昨日から状態が悪かったからな。昨日はどうだった?」
「どうもこうも。朝からリハビリ中止」
「担当の子は?」
「落ち着いてはいないね。でもやるだけのことはやってくれていたから。フォローアップはしておくよ。いい子だから」
ありがとう。と僕は返す。ただ慰めるだけではない、担当の子は佳菜美というまだ幼さを残す可愛らしい新人である。ひとつ結びの髪を揺らして、小柄な体で精一杯、明るく患者にかかわれる子である。
くじけずに前を向いてもらわなければならない。
精一杯やった。自宅に帰ってひとり苦しむよりもずっと、病院でよかったと。病院でよかったのだろうか? ふと脳裏に浮かんで首を振る。
もちろん自宅で、望む場所で終末を迎えるべきだろう。本人にとっては。家族にとってはどうだろうか。不安に苛まれる日々を過ごしながら、身の回りの介護を行い疲弊していく。愛していたはずの肉親を、恨むことがあるかもしれない。
数こそ少ないが介護を続けられない人もいる。ひとりで背負うには大きすぎる負担に耐えられずに、どうしようもなくなる。世間ではネグレクトと言われるのだろう。肉親の介護を投げ出すことはどんな理由があろうとも、罪の意識が芽生える。
芽生えた罪の意識は世間の声で育ち、自分の首をきつく締め上げる。
悲鳴を出せないほどに、息絶えるまで締め付ける。
ガラガラと病室の扉が開かれる。桜奈と一緒に廊下へ視線を移す。
白衣を着た医師と看護師の後ろを還暦はすでに超えているだろう夫婦が歩いていた。表情はやわらかく、互いによかったね。と言葉を交わしているのが耳に入る。死んでよかったね。ではなく、これ以上苦しまなくてよかったね。という意味だ。
家族の姿が見えなくなった後、桜奈と目を合わせる。
「これでよかったんだよね」
あぁ。と僕は桜奈に返す。冴子の私たちはどこに行くんだろうね。という言葉が胸裏に響く。行き着く先は僕たちだって同じだ。死の帳の向こうだろう。帳の向こうにある景色はわからない。
どこに向かうかなんてわかっている。問題はどうやって向かうのか。である。答えなんてあるはずがない。
願わくは思い望む形で、望む場所にいながら苦しまず、家族に看取られ逝くのが幸福であるのだろう。今では絵物語のように難しい。
「さぁ。書類の確認をしておくよ。桜奈は・・・よろしくな」
「もちろん。女心なんて微塵もわからない蒼葉くんには任せられないからね」
「最近、いやずっと同じことを言われ続けているな」
でしょう?と桜奈が笑みを残して病室を去る。
さて。と僕は残された問題に取り掛かる。管理者の代わりに書類の管理を任されているため、必要な書類がまだ取れていないことは知っている。
リハビリテーション総合実施計画書。月に一度、リハビリテーションの進捗と計画を家族に提示する大切な書類である。
リハビリの必要性を家族に説明し、同意した上でサインをもらう。タミ子の今月分にサインはない。それほど急な寿命への到達であったのだ。今からでもサインをもらうことはできる。
でも・・・家族と今は一緒に過ごしてほしい。ケアハウスの住人たちが脳裏でちらつく。後で報告しなければな。と僕はナースステーションを後にした。落ち着いたころに書類を郵送対応にすること、家族との最期の時間を過ごしてもらうことにすることもまた伝えておこうと考えた。
しばらくリハビリ室で業務をこなし、始業間近になって山伏主任が眠気まなこをこすりながら管理者のデスクへ向かうのを確認する。
さて今日一番の大仕事だ。と僕は席を立つ。
「主任。報告があるのですが」
席に腰掛け伸びをする山伏主任へ声をかけると怪訝そうに目を細めた。
「なんだ?朝からどうした?」
「はい。今朝方、先日から状態が悪化してリハビリが介入できていな方、畑山タミ子さまがお亡くなりになりました」
「そうか」
淡白な返答である。一瞬、眉間をしかめるのが見えた。報告は行っていたのだが、把握はしていなかったのだろう。もしかしたらタミ子のことを知らないのかもしれない。波立つ心を落ち着かせ、僕は報告を続ける。
「カルテを確認しましたが、家族に看取られ穏やかに亡くなられました」
「それで?書類は大丈夫なんだろうな?」
「今月のリハビリテーション総合実施計画書が取れていません。家族は今、タミ子様と面会中です。お見送りまで一緒におられるということなので、のちに郵送対応にしようかと思います」
郵送対応?山伏主任に眉が片方だけ上がる。口元だけで歪な笑みを浮かべる。僕を責め立てる理由が見つかったのだろう。首を伸ばして朝礼のためにリハビリ室へスタッフが集まりつつあることを、わざわざ確認までしている。立派なことだとため息を吐きそうになり、こらえる。
「今までチャンスはあっただろう?なぜ後回しにしたんだ?」
「先月のカンファレンスからまだ日が浅かったので、家族が来られたのは本日のみです」
「なら今から行ってくればいいだろう?社会人として当然だ」
社会人として必要な書類を処理する。大切なことだ。しかしタミ子と家族の最期の別れまで奪う必要はない。強く思った。
「ですので、郵送対応を行います。問題はないかと思います。病棟とも話し合いましたので」
山伏主任の口が堅く結ばれる。根回しをしておいてよかった。正しいかどうかは問題ではない。僕のエゴでもあるだろう。
それでも・・・やはり僕の中にはすでに海月たちが住み着いているらしい。冴子たちからしたらきっと、タミ子の最期はようやく与えられた終末であるのだろうから。
「言い訳ばかりだな。そもそも、お前がちゃんとしていれば問題はなかったのじゃないか?ほら、得意だろう重症患者のリハビリをするのが。資格なんかとっても無駄だな。勉強しているふりだけ上手になって、聞いてあきれる」
山伏主任の声が張り上がる。反抗されたことが気に食わなかったらしい。
僕は黙ったまま言葉を受け止める。
「お前がちゃんとしていなかったから。お前の責任だな。しっかりと報告しておくからな」
言い捨てると僕へとわざとらしく肩をぶつけてすれ違い、ざわめきと一緒に僕たちを遠目で眺めるスタッフたちへと山伏主任は足を向けた。
お前がちゃんとしていれば、あの人は歩けたんじゃないか?働き始めたころに言われた言葉だ。棘の鋭い蔦が心に絡みつきながら、脳裏へ至る背中に傷を思い出させながら伸びてくる。
お前がしっかりしていないから、あの人は家に帰れなかっただ。
お前が馬鹿だから。状態が悪いことにも気がつけなかったんだろう?
お前が後輩をないがしろにして、自分の勉強ばかり続けるから、後輩が育たないんだ。
お前が偉くなっても資格を取って研究ばかり。実際は人として問題ばかりじゃないか。
・・・あの人が死んだのは、お前の責任だろう?
努力というベールに包み隠していた言葉が蘇る。蘇りながら傷がつき、脳から血が流れている。
流れ続ける淀んだ血が心臓にたまり、体を巡って暗く暗く末端まで流れ、温度を奪った。温度を奪い続けながら心の深い場所へと到達し、消えた。
代わりにミズクラゲが浮かんでは沈み、隣にエプロンを着た今の海月が見える。会いたい。情けないほどに。
朝礼は散々なものだった。口では書類管理の必要性や、患者の予後を予測しての適切な動き。社会人として立派な働き。
どこかの自己啓発本から選んできたような言葉で、僕の隣で山伏主任は理想を語り続け、辟易としたころに足を鳴らして山伏主任はリハビリ室の扉へ向かう。
「このことはちゃんと報告しておくからな」
山伏主任は嫌味たっぷりに言い残してリハビリ室を去った。主任同士で交わされる自身の感情でたっぷりと脚色された報告内容は聞かなくてもわかる。
足音が消えて、ふぅ。と僕は肩の力を抜く。ともかく大仕事はクリアできた。たくさんの傷は残れど、終わったのだ。
「いやぁ。今日は一段とやられてましたね。大丈夫っすか?」
恭平が僕の隣に並び、肩に手を当てた。
「最善は尽くした気はする。まぁいつものことさ」
「それ、やばい感覚っすよ。気をつけないと」
なぁ。と恭平はいつの間にか正面へ歩み寄っていた桜奈へ言った。隣には佳菜美がいる。
「すみません。私がちゃんとしていれば・・・」
目を伏せて両手を合わせてて握る佳菜美へ、僕は見えるように首を横に振る。佳菜美には責任を感じてほしくはない。タミ子へ最期まで寄り添い続けたのは担当であり、肉親でもない彼女だけなのだから。
「ちゃんとしていたよ。やることはやっている。ちゃんとタミ子さんのことをありがとう」
ほぅ。と桜奈の両眉が上がった。物珍しい生き物を見つけたかのように。
「でも、蒼葉さんが・・・」
「気にしなくてもいいよ。いつものことだから。僕に責任があるし、もし佳菜美ちゃんが僕の代わりに怒られていたのなら、その方が耐えられない。慣れているから大丈夫。一緒に家族に送る書面を作ろうか。文面の作り方を教えるよ。それに・・・」
「それに?」
「最期は家族に看取られて逝けたらしいよ。家族に会いたいのがタミ子さんの望みだったね。佳菜美さんのカルテにはちゃんと書かれていた。望みを叶えたんだよ」
最期の一瞬。意識があるかはわからないけれど、望みは叶えたのだ。
これが精一杯の言葉だな。と佳菜美と視線を合わせる。ぽかんと口を開いたままで、佳菜美は首をかたむける。
「どうした?まずいことを言った?」
「いえ。蒼葉さんはどこか・・・頭がいいし勉強ばかりしている、生真面目臨床マシーンだと思っていて」
言い終わって飛び上がるほどに驚いた佳菜美は、今度は口を開いたままの僕へ口に手を当てたまま髪を揺らす。なるほど。影ではそう呼ばれていたのだなと気がつき、愉快な気持ちになる。その通りだ。その通りだった。
「すみません!すみません!変なこと言っちゃった」
いいや違う!と恭平が佳菜美の隣に立つ。
「正解だ。紛うことなく大正解! でも最近はちょっと変わったんだ」
なぜだろうねぇ。と恭平が目を細めて、うんうん。と桜奈が首を縦にふる。
「その通りだね。もしかして今やっているケアハウスの業務のせい?」
どうだろうな?と僕は視線を外して首を掻く。紛れもなくそうだろうなと感じつつも言葉には出さないことにした。
動き始めた臨床で、タミ子も多くの患者の一生が刻まれたカルテに埋もれていくだろう。
ただ記憶には残る。記憶と呼ぶには曖昧な心の奥底にある揺らぎの中で残り続ける。残り続けるのだ。
-◇-
海月との再会と、ケアハウス薫で過ごす日々が始まってから、あっという間に季節がめぐった。冬の寒さは日増しに強く、街を歩く人たちはコートやダウンジャケットの袖口を強く握り、身をかがめて歩いている。
年末の空気が漂い始めていた。
休みの度に僕はケアハウス薫へと足を運び、それぞれのリハビリを行いつつ海月の業務を手伝った。海月は土日が休みだというが母親の通うデイサービスも休みであるため一日中、介護に追われているという。
「まぁ学生の時から生活は変わらないから。いまさらなんとも思わないなぁ」
洗濯物を海月は畳み整然と手元で折り畳む。変わらない日々だ。変えようとも方法がひとつも思い浮かばず、ずっとこの日々が続くのではないかと考えている。
それでも歩みよりもずっと遅い速度で変化はしていく。
元治はひとりで移動できるようになり、立ち上がって手すりを持ったまま立っておくことができるようになった。トイレにも少しずつ介助は必要だけど移動ができるようになっている。
雅吉の両手はだんだんと浮腫みが取れ、動かせる範囲は増えてきた。上着の袖に腕を通し、徐々に食事が自分で取れるようになっている。
冴子さんは呼吸の仕方を覚えて、僕が行うリハビリに着いてきて、あれやこれやと楽しそうに口出しするくらいまで元気になっていた。当面は順調に進んでいる。
その間、病院で行わられる二三雄へのリハビリも着実に進んでいた。僕はナースステーションでカルテを開いて目を通す。
寝たきりであった彼も徐々にベッドから離れて過ごす時間が増えている。酸素療法は終了し車椅子に座ってナースステーションの前で食事をとり、通りがかるスタッフへ満面の笑みを振りまいていた。
病棟で定時に行われている体操にも積極的に参加し、誰よりも張り切って両手を上げ下げする彼の姿に僕たちも笑顔になった。もともとの性格が明るいのだろう。
認知症となっても歩んできた時間が失われるわけではない。自然と周りに人が集まってくる彼の生き方が立ち振る舞いに現れていた。
「なぁ。今度一緒に飲みに行こうや。いい店を知ってんだよ」
リハビリで歩く練習をする時、必ず二三雄は同じ内容の話をする。右手をコップに見立てて口元へ運び、話し終わると天井を見上げるのだった。
「俺にも甥ができたんだよ。生涯独り身でいいと思っていたけど、小さなガキがいると思うとさ。結婚して子供を育てるのもよかったと思うんだよ。いつか一緒に酒を呑みてえなぁ」
好き勝手生きて、賭け事や酒に溺れどうしようもない人生だと二三雄は自嘲気味に笑う。それでも産まれた甥の話をする時、二三雄の表情は和らいだ。きっと二三雄の時間はその地点で止まっているのだ、人生で最も幸福だった瞬間で。
元気になってきたように見えても、食事を自分で準備をしたり、社会的な手続きを行うことはできない。身の回りの介助量が減ってきただけで、ひとりで暮らすことはできない。
二三雄の部屋は人が住んでいたとは思えないほど、荒れ果てていたと担当するソーシャルワーカーから聞いた。ゴミが散乱しひどい臭いは同じアパートに住む人々を悩ませているという。退去の話もまた進んでおり、居場所を失おうとしていた。
二三雄は厳密に言えばひとりではなく、遠方で住む甥がいて、医療相談員によると幼いころに交流のあった彼だけは、二三雄と同居することを考えているらしい。僕とほとんど歳が変わらないはずなのに立派だ。
後は自宅での生活を加味しつつみんなで打ち合わせをして必要な各種サービスの手配を行い退院となる。
僕の仕事は在宅を支えるスタッフへと引き継がれる。ちょっと前までの自分だったらその結末に満足していたのだろう。予定調和の結末だと。
これで二三雄は今まで住んだ場所を離れたとしても家族とともに過ごすことができると。
二三雄の結末を考える度に僕は海月のことを思い出した。
ひとりで生きられないことは仕方がないのかもしれない。甥が生活の面倒を看ることは、本人も望んでいるのならば当然だろう。
でも本当にそれでよいのか。そればかりが頭の中を縛っている。
そろそろ行かなきゃな。僕は病室を出てリハビリ室へと向かう。
ケアハウスで行っている業務の中間報告を行う必要がある。
管理職のいるデスクへ向かい、いつものように僕を見ようともしない主任と副主任がいた。僕はケアハウスの間取りやケアハウスに住む人の状態や環境、そして指導や介入を行った運動療法について説明する。
僕の話を聞いた山伏主任は隣の柿原副主任へと唇を歪めて視線を向ける。
「おい。聞いたか? ここは狂ってんな」
僕は波風を立てないよう必死に表情を固める。心の中はフツフツと沸騰しそうなほど温度が上がっていた。
「本当によく今まで経営できてましたね。入居者もあれじゃないですか? 脛に傷があるような・・・」
だな。とふたりは下卑た笑い声をかかわ。最初のころは少なからずは反抗する意思があった。
だけど事を荒立ててケアハウスの業務から外されるのは嫌だった。少なくとも上司は僕が大変な業務に苦しんでいる間は、業務から外すことはない。
逆に望んで行っていると知ったのならば、嬉々として業務から外すだろう。
困難な現場で苦悩していると思われていることは好都合だった。
いつの間にか僕はみんなと一緒に、海月と共にケアハウスで過ごす時間を望んでいた。
失礼しますと。できるだけ表情を作らないように僕が頭を下げると、まぁがんばれよと笑い声が僕を追いかけてくる。
そんなことがどうでもよくなるくらいに、僕の心はケアハウスに向いている。心の向き先の延長線上にいるのが海月だということは認めざるを得ない。
再会した海月から、学生時代のアクアリウムで過ごした一時間の理由を知って、笑顔を振りまきながらケアハウスの住人に愛される彼女を眺め続けた。可憐だとか一生懸命だからという理由だけではない。光ではなく海月に内在する闇に惹きつけられてしまっている。
どうにかよい方法を探す。よい方法・・・と考えても一つも浮かばない。
妥当な答え、終着点はある。考えに至る度に出所のわからない罪悪感が僕の心を染めていく。
「まーた。立ち止まって。考え事?」
振り向くと桜奈が腕を組んで僕を見ている。目尻がやわらかな曲線を描き、僕はため息と共に頭を掻いた。
「いやすまん。廊下の真ん中で迷惑だったよな」
「昔からそうじゃない。考え事に迷い込んで唐突に立ち止まってこうやって、口をへの字に曲げてさ。どうしたの?」
いや。と僕は首を振る。自分の中ですら考えがまとまっていないのだ。ここでまとまっていない胸の内を話しても仕方がない。まぁいいか。と桜奈はため息を吐く。
「今日は飲みに行こう。たまにはいいでしょう? 恭平も誘ってさ。もう昔からの同期は少なくなっちゃったからねー」
「そうだな。今日はできるだけ仕事を早く終わらせるよ」
やった。と桜奈は両手を叩き、僕も肩の力を抜く。こういう時には同期の存在はありがたい。ひとりではないという気分にもなるし、煮詰まってしまった考えを整理するには丁度いい。
早足で病棟から去る桜奈を眺めながら僕は、今頃海月は何をしているのだろうか。何を想っているのだろうか。そんなことばかりを考えていた。
-◇-
「はぁぁ! それってパワハラじゃん! 椎名くんの休みがないってことでしょ!?」
ガヤガヤと賑わう昔から通っている居酒屋の隅で、桜奈は顔ほど大きさのあるビールジョッキを机へと盛大な音を立てて置いた。口元には白い泡が付き、その点だけは可愛らしいな。と僕は苦笑する。
僕はふたりにケアハウスでの仕事を簡単に話していた。その成り行きもまた話すと桜奈は自分のことのように激昂し、恭平はあきれて口を開いたままにしている。
僕は海月のことについてはふたりに話せなかった。不思議だった。
隣で恭平はあきれた表情のまま、テーブルへ肘を突いてため息混じりに首を振る。
「人がよいと言いますか、自分に無関心だといいますか」
行儀が悪い! と桜奈の鋭い視線を受けて、はい! と恭平は箸を下ろす。飛んだとばっちりだなと僕は口元に日本酒の入ったグラスを近付ける。久しぶりに喉を通るアルコールがゆっくりと食道を通過するのがわかった。
「ともかく学会参加が困難になって、資格試験の要件をクリアするは絶望的になってしまったけど、まぁ得るものは大きいと思うんだよ」
だけどさぁ。と桜奈は歯噛みしながら店員へとビールを再び注文している。恭平は助けを求めるように僕へと視線を向けたが、僕は首を横に振って視線に応える。酔うと桜奈は止まらない。
「そんで先輩。さっき例のケアハウスの話をしてくれましたけど、あと半年後には潰れてしまうんでしょ? でもいい所っぽいっすよね」
「だな。趣味の合う仲間で作り上げた自分らしく過ごせる場所。って感じがする。とても居心地がいいんだよ。構造は変わっているけど。法的な部分にかんしてはうまくやっているのだろうね」
そうですかぁ。と桜奈はすっかりと朱色に染められた頬で、運ばれてきたビールの水滴をおしぼりで拭った。
「それで、休日返上で働いているってわけね。ボランティアだとしてもさ! 休みの日がないじゃん。まぁ昔から? 休みの度に学会行ったり、セミナー行ったり? ゆっくりする間もなく勉強してたのは知ってるけど、なんでそこまでしなきゃならないの?」
「そりゃ、目の前に患者がいて毎日リハビリをがんばってるからな。僕もがんばらなきゃと・・・」
本当のこと? と桜奈は静かな瞳で僕と目線を合わせる。瞳は僕の心の奥底まで射抜き、酔った頭では言い逃れることができない。
いやそれは言いわけだ。僕はこの話を誰かに話したかったのかもしれない。漠然としていた自分の想いが、海月と出会って心の奥から浮かび上がってきているのだ。
「いや。半分は本当だけどそうじゃないかもしれない。昔さ僕の母親はずっと両親の介護をしていたことは話しただろう? 祖父母は孫の僕をすごく可愛がってくれたんだよ。誰にも頼らない立派な人間にならないとって。でも介護が必要になって、母がふたりをずっと介護していた。ずっと見ていた」
いい子だったんだね。と桜奈が目尻を和らげ、恭平は黙って聞いている。いい子とはどういう子なのだろうか? 自分を犠牲にして、犠牲になっているとも知らずに、犠牲だと言う言葉も知らずに、献身的に介護を続ける子を言うのだろうか。 傍目から見たらそうだろう。ただ違う。きっと違う。
「でも見ているだけだったんだ。見たくなかったんだよ。弱っていく好きだった祖父母の姿をさ。母も気がついていたんだろうな。だから僕に介護を手伝わせようとは決してしなかった。違う。僕は逃げているだけだったんだ。母は僕の本心を見抜いていて、手伝わせようとしなかった。それでもさ、ちょっとはいいところを見せようとしたんだよ。小さな時の夢を叶えた僕を見せて、祖父母の介護をせずに努力した結果を見せることで、心の帳尻を合わせようとしたんだ。でも、結局怪我をしてしまって、因果応報というやつさ。最後の大会には出られなかった。おかげで理学療法士にはなれたけどね」
桜奈も恭平も僕の話を黙って聞いている。話しながら僕は本当に今になって自分の気持ちを理解し始めていた。結局あんなに可愛がってくれて何も恩返しをできなかった、祖父母の姿を目の前で苦しむ患者に当てはめて、罪の意識から逃げ出そうとしただけだ。
逃げ出した先で、さらに多くの患者に触れて、僕は僕を追い詰めている。気がつくことができないくらいに追い詰められていた。
山伏主任が言うことは誤っているとは否定できない。正しいとも言えないかもしれない。僕ひとりのせいではなかったのかもしれない。
でも僕が担当した患者の末路は、きっと僕の責任なのだ。すべてが。
かかわった患者が幸福な終末を迎えられなかったことは、仕方がなかったのかもしれない。しかし否定ができないからこそ、僕は自分を許すことができない。
だからこそ僕は停滞に耐えられない。立ち止まってしまうと罪の意識に押しつぶされそうになるからだ。
後ろ髪をつかまれ引き戻された先は、ずっと昔の僕である。母や祖父母の苦悩から目をそらし介護から逃げ出した僕だ。
日常を続けながら、前に進み自分の気持ちの奥底にある真実から目を背けるしかない。結局のところ自分のためにしか生きていない。逃げてしかいない。
醜いのだ。慈善や自己犠牲という煌びやかなベールで包まれた僕の奥底はこんなにも醜い。
逃げ続け、流されるままたどり着いた場所で、行き場を失っている。海月やケアハウスの住人たち、患者や多くの高齢者たちと近くても遠い場所にいる。近く言うことが傲慢なくらいにまだ安全な場所で漂っているだけだ。
苦しみをわかっているなんて嘘だ。知らないのに等しい。救いを求めることもできない。深く深く沈み込む思考を恭平の声が引き戻す。
「ふーん。なんかようやく先輩のことを知れた気がしますよ。でも先輩! 人にはそれぞれいろんな苦労があって、その苦労や仕事、自分の人生との折り合いをつけて生きています。誰かのために生き続けるなんて、その見ず知らずの誰かは望んでいると思えます?」
反論ができなかった。誰かのために生きることを免罪符にして僕は過去から逃れている。海月とは違う。海月は生きていくうちに環境に飲み込まれて、望まない環境の中で生きている。普通の学生生活を送ることもできずに、本来あるはずだったたくさんの思い出を作ることもなく海月は生きている。
海月の母はきっと海月の生活を犠牲にして生きることを望んでいないだろう。でも海月の介助なしに生きることはできない。そして海月もその生き方しか知ることができなかった。選択の余地がなかったから。
僕は望んで自分を犠牲にすることを選び、海月は望まず自分が犠牲になることを選ぶしかなかった。
誰かのために生き続けることを、誰かが本当に望んでいるのだろうか。望んでいなくともそれ以外の選択肢がないだけではないのだろうか。
僕はため息を吐いて、姿勢を整える。やはり僕が立ち止まることは許されない。
「後輩に諭されるような日が来るなんてな。なんだか頭がスッキリしたよ」
嘘だった。答えは出ていない。僕と海月はどこに向かっているのだろう?
どこにも向かってはいない。先の見えない長い道のりの中で、足踏みを続けながらただ空を眺めているだけだ。
でしょ? と恭平は顎先を少しだけ上げて腕を組む。でもだからといっていまさら生き方を変えることはできない。そんな言葉を僕は飲み込む。
「ううー。私、桜奈は椎名蒼葉くんのボランティアを今度、手伝うことをここに表明します」
急に立ち上がった桜奈を僕と恭平やギョッとして見上げる。いつの間にか頬には涙の跡が刻まれ、酔えば酔うほど感情が豊かになるものだとあきれて笑った。
泣き出した桜奈を眺めていると、恭平はテーブルへと身を乗り出し、僕の耳元へと口を寄せる。
「俺ももちろんご一緒します。あんなにケアハウスでの仕事を楽しそうに話されてますが、きっとそれだけじゃないんでしょう?」
ねっ? と口角を片方だけ上げた悪戯っぽい笑みを恭平は浮かべる。鋭いな。と僕は泣き続けながら酒を口へと運びつつける桜奈を見た。
母親とたったふたりで家の中にいる海月を思い浮かべた。
暗い部屋で静かに。いつかは破綻するだろう日々を過ごしている姿を。
-◇-
巡る季節は街を包む香りを気温と一緒に変えていく。細やかな年末年始も仕事に追われ、身を切るような寒さがマシになってきた時にはもう、目の前まで春が迫ってきていた。
換気のために開けられた雅吉の部屋で、僕は剪定用のハサミを握り、恐る恐る伸びきった枝へと手を伸ばす。
「ほらほら。そんなへっぴり腰でどうする。あっその枝はダメだぞ? 下の・・・同じ幹から伸びているだろう? もうちょっと下のだな。そうそう・・・その枝を・・・ほらほら。男の子だろう?」
雅吉は苦笑混じりに、悲壮な表情でハサミを握る僕を眺めた。
僕がハサミを入れると、自分のことかのようにホッと肩の力を抜いた。両手にあった浮腫みが目立たないくらいに消えていて、動きもまた増えている。衣服のボタンを留めることはまだ難しいが、親指と人差し指で物をつまむことができるようになった。
丸首のシャツを被ることができて、ズボンもまたゆっくり身をよじりながらだけど引き上げることができた。食事も長い時間をかけて自分で行えるようになっている。
思っていたよりもずっとよくなっている。僕のリハビリというよりも本人の努力であることは明白だ。
剪定用の硬いハサミを握ることのできない雅吉の代わりに、僕は盆栽にハサミを入れている。恐る恐ると。
「いやぁ。なんだか人にやってもらうのは自分でやるより緊張するもんだな」
くっく。と腰に手を当てながら雅吉は汗ばむ僕を笑う。過去には職人として後続を育てたことがあるだろうに。声色からずいぶんと楽しんでいるらしい。僕はハサミを握る力を抜く。肩がひどく重い。
「いいえ。とてもいい勉強になりますよ。さすがはベテランの庭師さんですね」
「まぁ庭の手入れとそれはちと違うけどな。まぁ。死ぬまで一生現役をうたってはきたけれど、まさか腕が動かなくなるとはね。だがまぁ。今は悪い気分ではない」
雅吉は部屋の外を眺める。降り注ぐ日光はすでに暖かい。季節の変化と共に緩やかとそれぞれの転帰先も決まりつつある。それぞれのケアマネージャーが入居者でありながら、管理者でもある冴子とこまめに連絡を取っていることは海月から聞いていた。
雅吉は遠方に住む甥が面倒を見ると言っているらしい。
あぁそうだ。と雅吉は思い出したように口を開く。
「俺の甥っ子がアパートを手配してくれているらしいんだよ。一緒に住むにはいろいろ準備がいるからって。しばらくは用意してくれたアパートで暮らすことになりそうだ。大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ。身の回りのことはできるようになってきたし、洋服もボタンが付いていなければ楽に着れています。食事も上手です。後は買いものですが・・・今は惣菜も充実していますからね。大丈夫でしょう。いつでも連絡してください」
「そうかい。困ったら遠慮なく連絡させてもらうかな。それになんだ。ゴム紐のズボンじゃぁ、久しぶりに会う甥っ子の前で格好つかねえな。かといってベルトは閉められる気もしねぇし」
「それはバックルの、留め具の種類にもよりますかね。ピンが飛び出たピン式のバックルはまだ難易度が高いかもしれません。でもこう引っ張るように占めるバックルならば今の力でも大丈夫ですよ。ちょっと緩くなってしまうかもしれませんが、それはリハビリということで」
なるほどねぇ。と雅吉は今度買ってもらうわ。と笑みを浮かべ僕も笑みで返す。
手段を選ばなければいくらでも方法がある。生きようとさえしていれば、どうとでも生きていける。
僕は病院で受け持っている二三雄と雅吉を重ねていた。思えば笑った時の表情が似ている。雅吉は窓から僕へと視線を移す。垂らした両手の指先をゆっくりと動かしながら、目尻をやわらげた。
「それで。海月ちゃんとはどうなんだい? お互い独身でいい歳だろう?」
「なんにもありませんよ。同じ職場の同僚っていった感じですね」
「なんだもったいない。まぁそればっかりは当人たちの自由だし今は昔と時代も違うからな。でもな。俺は生涯独身を貫いちまったけど今になって思うのはやっぱり結婚して子供ができていたら、こんな気分になったんじゃねぇかなってことだな」
どういう気持ちですか? と僕は剪定用のハサミを机に置くと、雅吉も置かれたハサミを見た。横には剪定のために切られた枝葉が落ちている。僕の出来栄えは雅吉にはどう映っているのだろうか。
「こうやって仕事を教えたり、小さいころに面倒を見た分、面倒を見てもらう。そんな当たり前のことだよ。いつしか自分よりもしっかりとしてしまった息子を持つとこんな気分になるのかな」
「どうでしょうね。まぁでも甥っ子さんと一緒に住むことになりそうなんでしょう? 海月から聞きましたよ」
海月は雅吉の転帰を報告する時、うれしそうでありながらどこか悲しそうに目を伏せた。雅吉の気持ちは今の僕にはよくわかる。
良くも悪くも別れは寂しい。雅吉は僕を横切りベッドに腰をかけた。
「小さいころからほとんど会っていないからなぁ。俺のことを覚えていたことの方が驚きだよ。小さいころから可愛くて賢い子でなぁ。俺のことにもよく懐いてくれてたんだ。一緒に仕事にもいったことがあるんだぞ? でもまぁ情けない話だが、まったく知らない土地だから不安は不安だよ。こればっかりは腹を括って成り行きには任せるしかねえよな」
「大丈夫ですよ。雅吉さんならどこでもやっていけますよ」
だな。と雅吉は答えて腕を組む。まだ指で二の腕はつかむことができないため、手のひらを乗せる形ではあるけれど。
「それと、椎名先生には一つ頼みがある。というより約束だな。男と男の約束。俺も元ちゃんも、冴子もあと三月もしたらここからいなくなっちまう。そしたら海月ちゃんは介護が必要な母親とふたりっきりだ。正直、俺たちもあの子のことが不憫に思っちまう。でも海月ちゃんの手を借りなきゃ生活はできない。きっと海月ちゃんの母親もそうだろう。気持ちはどうであれ、体が動かないんだ。そして動かない体に心が諦めちまう。でも俺も元ちゃんも結構いろいろできるようになってきただろう?」
元ちゃん・・・元治もまた日々リハビリに励んでいる。危険だからといくら注意をしても廊下の手すりで自ら立ち座りの練習を繰り返し、つるりとした頭が汗で光っていた。
「元さん! 頭が・・・」
海月がお腹を抱えて笑い出し僕も一緒に笑った。病院とは違うずっと日常に近い温かな陽だまりの中で。
だからな・・・と雅吉は続ける。
「だからこそ海月ちゃんのことが心配になるんだよ。このままさ・・・俺たち高齢者のためだけに生きて、そして介護するだけしか知らずにいつか死んじまうんじゃないのかって。本来なら同じ年頃の子が経験するはずだったたくさんの幸せな思い出を置き去りにして、俺らと一緒に死んじまう。そんな気がするんだよ。椎名先生だって同じだろう?」
先生は止めてください。と言葉に詰まっている僕が、やっとのことでそれだけ言うと、そうかいそうかい。と雅吉は口元を緩める。
「椎名くんだって平日は病院でリハビリ、休日はここでボランティアだろう? 聞けば今の仕事に就いてからずっと休みの日には、勉強やらセミナーやらばっかりだったんじゃないかい」
「海月が言ってました?」
「心配してたよ。自分も同じようなもんなのにな。あれだ。俺たち高齢者は決して自分たちのためにだけに生きろなんて言わないよ。まぁ手はかかるがな。願わくは自分のためにも生きてくれ。そう・・・海月ちゃんにも言ってやりな。俺が死んだ後でいいから」
「まだまだ長生きするでしょうし、自分から海月に伝えたらどうですか?」
「そりゃまぁ世話をしてもらってる俺の口から言えるかよ。そんなこと言っちまったら遺言になっちまうじゃねぇか」
ははは。と目を細めて笑う雅吉に僕もまた笑みを返す。遺言。冗談めかせた軽い口調とは違う、真実味を含んだ重量がある。
「わかりました。それに甥っ子さんの街に行っても遊びに来てくれるでしょう?」
「そんときゃここはもうなくなってるだろう? まぁ椎名と海月の結婚式には行ってもいいかな?」
またその話ですか。と僕が肩を落とすと雅吉はへっへ。と口元を歪めて笑う。
すると廊下から蒼葉ー! と海月が僕を呼ぶ声がして、僕は返事をする。
部屋を出る直前に、雅吉が手を振っているのが見えた。左手の力を使い一緒に右手を上げて、少しだけ動くようになった指先を器用に振り続けていた。
ケアハウスの居住スペースにある障がい者用トイレの前に元治と一緒に海月はいた。障がい者用と書かれたプレートから目を背ける。当然のように眺めていた障がい者という言葉が歪んでいた。
「ちょっと見ててよ。元さんもうほとんどひとりで乗り移りが上手にできるんだよ」
おぉ! と僕が目を丸めていると元治は左手の親指をぐっと立てる。
リハビリを行いながら元治は自身で、わずかな間であるけれど立っておけるようになった。それだけで介助する側と本人の負担が段違いである。
元治は自ら車椅子をこぎつつトイレへと近付き、ブレーキをかけ、左手を伸ばして手すりを使用し立ち上がる。そのまま左足を軸に反転すると壁に寄りかかりながら、器用に左手を使ってズボンを下げて便座に座った。
元治は笑みを浮かべたままちょいちょいと左手で厚いアコーディオンカーテンを閉めるように急かす。立ち上がるときには呼び出しボタンを押してくださいね。元治に念を押して僕と海月は廊下に出た。
壁を背にして、腕を組む。上手になったとはいえ慣れるまではこうやってひとりにすることはできない。もし転倒してしまったら元治の努力がすべて水の泡になってしまう。
並んで廊下に立っていると海月が細い顎先を上に向けながら口を開いた。
「んー。実際に見てみるとやっぱりリハビリってすごいなぁって思う。みんな元気になってる。病院では当たり前なのかな?」
「んー。どうだろう。どんなに練習しても難しい人はたくさんいる。ここの人たちはもともと力があったからね。それに熱心に自分でも練習してくれるから・・・」
そういうことじゃなくて・・・と海月は横目で僕を見る。言い淀みながら言葉をまとめている。
「なんかさ。みんな明るくなったじゃん。雅吉さんだってよくお散歩するようになったし、元さんだってどんどん自分で動けるようになってる。冴子さんも蒼葉の前じゃ絶対にやらないけど呼吸の練習や、体力作りだって自分で運動してるんだよ? 動きじゃなくて人が変わったみたい」
「どうだろうな。まぁできることが増えるのはうれしいことだよ。誰かに頼らなきゃいけない状況が続くとやっぱり落ち込んでしまうから。だからといって自分で何もかもしなければならないというのもまたできない。個人的には身近で支える人の存在が一番重要だと思う。すぐによくできたらいいのだけど」
傲慢だなぁ。と海月は笑みを含んで首を壁に預ける。耳にかかる栗色の髪が少し揺れた。傲慢か。海月のいうとおりだな。とすんなりと耳に痛い言葉が体に馴染む。僕もまた変わり始めているのだろうか。
「最初はさ・・・ちょっと悔しかった。みんなが元気になるのはいいことなんだけど、私にはリハビリができなかったから。もし私もたくさん勉強してリハビリができたら、みんなを元気にできたんじゃないかなぁって。そんなことを思った。だから蒼葉のオムツ交換がすっごい下手くそだったり、料理ができなかったり、利用者さんへのケアがダメダメだったのは・・・正直安心した」
へへ。と廊下の壁を眺めながら笑みをこぼす海月に、僕は腕を組む。
「まぁ。知っていてもできることは少ないから、今後も努力しないといけない、病院にいるとさ、スタッフの数も多いから誰かに頼めばやってくれる。でもここにはほとんど海月しかいないだろう? 他のアルバイトさんも何人か見かけたけど、僕が来れる週二日、その間にいるのは海月だけだ。だから海月に頼るしかない。海月がいてくれたから、よくなったんだよ。僕はきっかけを与えただけだ。どんなにリハビリをがんばっても日常生活で使えなければ意味はないと僕は思う。だから実のところ僕ではなくて海月がリハビリしてくれてるんだよ」
結局のところひとりで思い悩んでも変われない。変えることはできない。ケアハウス薫に来て、そう思えるようになった。
自分ひとりで変えられることなんてたかが知れている。お互いにかかわりながらゆっくりと自分や周りを変えていく。ひとりでは何も変えることはできない。
私がリハビリをね。と海月は一度天井へと視線を伸ばすと、僕の方を向いた。
「みんなすっごい元気になってお話しする時間も増えたんだよ。蒼葉のリハビリで教わったことをやってくれて、私を手伝おうとしてくれる。これで少しは楽になるだろうって。それもリハビリ?」
「うん。大切なリハビリだよ。しかしみんなで何を話しているんだ?」
「ふふーん。蒼葉のこともみんなよく話しているよ。さっさと一緒になれって冗談交じりに雅吉さんがいつも同じことを言ってる」
「僕も言われたなぁ。後、雅吉さんから・・・」
ん? と海月が目を丸めると、ノクターンの曲が流れ始めた。元治が僕たちを呼ぶ音である。僕たちは話を中断して元治のもとへと向かい、立ち上がろうとしている元治を支え、ズボンを上げる。そして車椅子へ乗せて手を洗うと、元治はひとりで車椅子をこぎ出して、デイルームの方向へと向かった。ゆっくりではあるけれどたしかに前へと進む元治さんの後ろを、僕たちもゆっくりとついていく。
日差しは春の陽気で廊下を照らし、僕がケアハウス薫に来て半年になるということを教えてくれる。この日々がもう半分にも満たないということもまた一緒に。
デイルームの扉を開けると中央にあるテーブルには雅吉と冴子が向き合って話し込んでいた。薄暗い照明の下で並ぶふたりを見ていると、やはりどこかのライブハウスにしか思えない。ふたりは僕たちに気がつくと話を止めて雅吉が右手を挙げる。
「よう! おふたりさん! 元ちゃんも一緒かい」
元治は左手を上げて冴子に応える。まったく・・・と冴子はテーブルに右手を乗せて顎を支える。
「ふたりして元気になっちまって、いっつもデイルームにいるじゃないかい。あたしはひとりが好きだってのに」
「はいはい。昔っから言ってるけど、誰よりも寂しがりじゃないかいあんたは。変わらねぇな」
胸をそりながら話す雅吉にうるさい。と冴子は眉を吊り上げる。きっとこれも昔から続いている会話だろう。
「ねぇねぇ。ふたりでどんなお話しをしていたの?」
海月が尋ねると、雅吉は一度目を伏せて、海月と僕を交互に見た。
「どうやら俺がいち抜けさせてもらうことになりそうなんだよ。甥っ子とケアマネージャーが話したみたいでさ。ちっさいアパートを借りてくれて、今は無理だけど、いずれは甥っ子の家で同居の準備を始めてくれるってさ」
そうですか! と返事をしつつ僕はどこか寂しさを覚えていた。病院で働いている時には一度も感じることのなかった気持ち。
雅吉の向かう場所が決まったのはとても喜ばしいことである。それなのに僕の心にぽっかりと穴が開いていた。
きっと海月も同じだろうなと思うとどこか安心している。
「まぁ。俺もひとりである程度は、できるようになってきただろう? 後は生活の中で実戦訓練だな。甥っ子に迷惑はあまりかけたくないからなぁ。しばらくはヘルパーさんのお世話になるけど、まぁそれもいい」
「自分勝手に暮らしていたあんたを引き取ろうなんて奇特な甥っ子だねぇ。まぁあんたは昔っから周りの人だけには恵まれていたからそれもいいかもね」
憎まれ口を叩く冴子は視線を雅吉からそらす。だろうと雅吉は腕を組む。
「こればっかりは俺の人徳だな。小さいころから優しい甥でなぁ。小さいころしか知らねぇから、どんな顔をしてるかはわからないけど、まぁそれも楽しみだな」
普段よりずっと雅吉は明るく自慢話をしていた。再び僕は二三雄の姿を雅吉に重ねる自分に気がつく。
二三雄の退院にも目度が付いてきている。こうやって高齢者は次のステージへと進んでいく、本人が望んでいても望まなくても自分の気持ちと折り合いをつけながら、静かに僕の目の前から去っていく。いずれ冴子や元治もまた同じように僕の目の前から去っていくのだろう。
そしてケアハウスの終わりは海月と過ごせる日々との終わりでもある。
元治は車椅子をこいで、雅吉の隣に並ぶ。そして左手で肩を叩きニッと笑みで頬へとシワを作る。
「楽しめ・・・よ・・・」
たどたどしく紡がれた言葉にもちろんだと雅吉は元治の肩へと手を回す。
日々が終わっても今までの日々は変わらない。雅吉は元治の肩を強く抱いた。そういえばまだみんなに話していなかったと僕はみんなを見渡す。全員が揃っているから丁度いい。
「えぇと。再来週、僕の友人もここに手伝いに来てくれることになりました。同じ理学療法士で、まぁ本当にいまさらではあるんですけど、普段はできないこともできるのかなと思います。外をお散歩したりとかいろいろ・・・」
ほぅ。とそれぞれが口に出す。遠くの壁へと視線を移していた冴子もまた僕を見た。
「なんだい。あんたみたいに使える子なのかい? その子らは」
「えぇ。ずっと一緒に働いている友達ですから。まぁ大丈夫ですよ」
「へぇ。蒼葉には友達がいるんだ。ひとりの時しか知らないから変な感じがするね」
海月は口元に手を当てクスクスと笑みを含む。冴子たちは互いに目を合わせて、それぞれが口元を歪めて笑みを浮かべた。身勝手な申し出はやはり迷惑だっただろうかと不安に思う間もなく、冴子が立ち上がり腰へ手を当て胸を張る。仁王立ちの姿勢で僕と海月を交互に見た。
「いいじゃないかい。その子らも連れて来なよ。友美にも伝えておくからさ。ただし! あんたらは外行きの服を来てきな! おしゃれしてな!」
それはどういう・・・と僕が口を開く前に冴子はいいから! と僕を制する。元治と雅吉もうんうん。と互いにうなずきあっている。、年甲斐もなくいたずらっ子みたいな笑みを浮かべ、企みを隠すことのない三人を眺めた。
海月は僕を見上げ、ままいいかと言い、僕もまた企に乗ってやるかと腕を組む。ようやく僕もケアハウスの住人になれたと終わりを目の前に感じていた。
【心揺さぶるストーリー!理学療法士×作家のタナカンによる作品集!】
小説の中では様々な背景や状況、そして異なる世界で生きる人々の物語が織りなされます。その中には、困難に立ち向かいながらも成長し、希望を見出す姿があります。また、人々の絆や優しさに触れ、心温まるエピソードも満載です!