『くらげの空で浮かぶ』-1- アクアリウムで佇む海月 (1/6章)/小説
「クラゲはさ。いったい何を考えながら、水槽の中を浮かんでいるのかな」
相花 海月は暗い照明の中で、天井まで伸びる円柱状の水槽を見上げて言った。水槽にはミズクラゲが照明に照らされながら、薄紫色へと色味を変える。僕の隣で小さなベンチに腰かけながら、彼女は両足を伸ばしたまま足先を組む。紺色のブレザーから見える細く長い指はベンチに置かれて、彼女の華奢で小さな体を支えていた。
わずかに栗色を帯びた髪は短くふわりと浮かび、綺麗に首元で整えられている。
横顔から見える小さくも整えられた鼻筋と唇、丸く二重の大きな瞳は水槽の青を反射している。表情は照明の作る影とのコントラストで、触れたら崩れてしまいそうなほど儚く憂いた綺麗な顔立ちだった。
「クラゲには脳みそがないらしいから、何も考えていないんじゃないかな。身体中に神経が張り巡らされていて、刺激に対する反射で動いている・・・と説明文には書かれているね」
水槽の下で譜面台にも見える小さな細身の台の上に、説明文が白い文字で書かれている。この場所で海月と共にミズクラゲを眺める日々で、僕はクラゲの説明文をすっかり暗記してしまっていた。
僕が腕を組んで言うと、眉を寄せて口を尖らせた海月が僕を見る。
丸く幼い瞳の奥が暗い照明の中で、水槽の色を反射し青色に染まっていた。丸い瞳は幼さをまだ残しているのに、僕よりずっと深い景色を見ている。そう思わずにはいられないほど深い青色をしていた。
「そういう話じゃなくて。どうして君はいつもそうなのかな。きっと椎名 蒼葉くんには彼女がいつまで経ってもできないね。きっと孤独な人生を歩むんだ」
うるさい。と僕は腕を組み、口をへの字に曲げると海月はクスクスと笑みを含む。赤いチェックのスカートは足が組み直される度に揺れていた。病的にも見える細い足で、彼女が僕たちと同じ普通の日々から遠のいた場所にいると感じる。
僕の右足には足首から脛まで伸びる白いギプスが巻かれていて、隣には一つにまとめられた松葉杖は僕と海月の間に置かれていた。
海月はもう一度水槽に視線を移すと、下から上までゆっくりと視線と細い顎先を移動させる。横顔は同じ高校二年生には思えないほど完成されていて、他のクラスメートとは違う、諦観が浮かぶ。横顔が同じ学年の僕からしたら大人に見えた。
「いつかね。私は本物のクラゲを見に行くんだ。海でふよふよと浮かぶクラゲを眺めながら、本当は何を考えているかを知るのが私の夢なの」
「それなら見に行けばいいじゃないか。海に行くのに、そんなに時間はかからないだろう?」
「ここから海にはバスを乗り継いで乗って二時間もかかるよ。そんな途方もない時間は私にはないね。でもいつか絶対行こうと思うんだ」
なぜ? と僕が尋ねても海月は首を横に振って、理由は教えてくれなかった。
海月は僕に巻かれたギプスへと視線を落とす。同情的な瞳ではなく、茶目っ気を存分に発揮した頬と一緒に。
「ねぇ。怪我はまだ治らないの?」
小首をかしげる海月に、僕は腕を組んだまま背中を反らせる。すぐに治るのならば越したことはない。その点諦めているのは僕も同じだ。
「ギプス固定が外れるのに一か月。半分に切られたギプス、シーネ固定って言うらしんだけど、骨のくっつき方を見ながら外せる時期を探すらしいね。完全に外れるのは三か月以降らしい。今は十二月だから身軽になるのは、僕たちが高校三年生になってからだ」
「ならもうすぐじゃん。春になったらまた部活に戻るんでしょ?」
「いいや。日常生活にまず慣れて、競技復活はそれから半年弱を考えておくようにとのことだって。ほら。うちの学校は夏の大会が終わったら部活を引退しなきゃならないだろう? だからもう僕は部活には行こうとは思わない」
そっか。と海月は水槽に浮かぶクラゲを眺めた。あまり想像がつかないようで首を左右に揺らしている。僕も海月の隣に並んだままで水槽を見上げた。
ゆっくりと水槽の底から天井へ向かってミズクラゲは浮かび上がり、そしてまた水槽の底へと降りていく。クラゲの上下運動に何の意味があるのだろうか、理由はミズクラゲにもわかってはいないだろう。
なんて不毛な生き方だろうか。行動に意味があるのかはまったく僕には理解ができない。
それじゃぁ今日は・・・と海月は水槽に視線を落としたまま口を開く。
「今日は学校で行われる文化祭について教えてもらおうかな。具体的にどんなことをするの?」
またか。と僕は息を静かに吐く。こうやって海月は学校で行われる行事についてよく聴きたがった。聞かれる度に僕はありふれた行事について海月に説明をする。同じクラスメートのはずなのに、知っているはず当然のことを海月は知らなかった。不思議だった。
「特別なことはないよ。放課後にみんなで話し合って役割を決める。今度は喫茶店をするらしいから、店の看板を作ったり、メニューを考える。当日の役割をそれぞれ決めて、訪れる他校の生徒や保護者の相手をするくらいだよ」
「ほうほう。なら他のクラスも喫茶店をするの? 喫茶店ばかりだったらお腹がタプタプになってしまうね」
「もちろん違う。隣のクラスは小さなお化け屋敷をするらしいし、占いの真似事をするクラスもある。それぞれ多数決で決まった、みんなでやりたいことをやる。ただそれだけだよ。特別なことはない」
私にとっては特別だなぁ。と海月は独り言のようにつぶやき、言葉を切る。
海月は不思議な子だった。
同じクラスで半年以上一緒にいるはずなのに、僕は水族館に来るまで一度も海月と話したことはなかった。朝の掃除が終わってホームルームが始まると、息を切らせながら教室に海月が現れる。昼休みはずっと眠り、学校が終わるとすぐに教室を去った。
祝日や休日に行われる行事には一度も参加せず、海月はクラスの中で浮いている。嫌われているわけでもなくて、存在しないかのように扱われ、僕もまた海月のことなんて気にしたことはなかった。
アルバイトで忙しいだとか不良だとか、学校に興味がないとかいろんな噂があった。そして夏の終わりには、自然に誰も海月のことを口に出さなくなった。
授業の合間ですら誰とも話さない彼女のことを、僕は気にすらしなくなっていた。透明な照明のないクラゲのように。海月は存在していながら、いないと等しい存在である。
そんな海月と僕は閑散とした水族館で出会った。
幼い頃から続けていたバスケットボールの試合直前に怪我をして、途方に暮れていた時のことだった。呆気なくコートの上から去った僕は、目の前で横たわる途方もない時間の前で立ち尽くした。
足に巻かれたギプスとギプスと反対側に持った松葉杖の姿で立ち尽くしたのだ。
暇な時間は嫌いだった。世間から一足分高い場所で、漂っている気分になったから。
だからこそ僕は街の古ぼけた水族館へと足を運んだと思う。はっきりと自分でも理由が思い浮かばない。
母親には一度も連れてきてもらったことがなかったな。そう考えながら。
父は早くに亡くなっており、僕の知る父は墓前に飾られた写真の中だけである。母は女手一つで僕を育てながら、僕の祖父母を介護する生活に明け暮れていた。
祖父母は母の介護を受けながら認知症を患い徘徊し続ける祖父と、ベッドと自宅のトイレを行き来することしかできない祖母のふたりで過ごしていた。
病院で介護の仕事を続けながら、毎日様子を見に行き介護を続けている母は、ひとり家で留守番をする僕へいつだって申し訳なさそうに目尻を緩めていた。
「蒼葉は気にしなくて大丈夫だから。ちゃんと学校に行くんだよ」
深く疲労の刻まれた目元で母はいつも僕に言った。願いを託すかのような消え入りそうな小さな背中から僕は目を背けていた。そして本心とは違う決まりきったセリフで母を労う。
「手伝わなくても大丈夫?」
「大丈夫。試合も近いんでしょう? 結果を楽しみにしているからね。夢は叶えるためにあるんだから」
応援には行けないけどね。と母が寂しそうに笑い、僕はさらにバスケットボールへと打ち込んだ。
決して強いチームではなかったから、ずっと続けていられるとは考えていなかったけれど、母には言えなかった。
「誰にも頼らずに生きていける。強い大人になるんだよ」
まだ元気だった祖父母は幼い僕に言った。因果なことに祖父母は誰かの手を借りなければ生きてはいけない。
それ以来会うことはなかった。わざと母が遠ざけていることは知っていた。僕も母の願いに甘えて会うことを避けた。後悔することからも逃げていた。
母は僕の生き方を縛りたくなかったのだろう。学生らしく自由に、自分の代わりに将来へと希望を持ったまま生きてほしい。
母の想いは十分に伝わってきた。だから僕は多少でも結果を残そうと努力することができた。
しかし結果は、試合前の練習試合で足を強く捻り、僕の将来は呆気なく失われる。
母の落ち込み用はひどいもので、張り詰めていた糸が切れたのか、会話することもない。僕からも目を背けたったひとりで生きている。
僕には誰も助けられない。手を貸すことも、ただ松葉杖をつきながら歩く姿が、母をもう一歩深い場所へ追い詰めている気がした。
学校からも、家からも逃げ出した僕のたどり着いた先が、存在だけ知っている寂れた水族館である。
行き場を失った僕は、ミズクラゲが浮かぶ水槽の前で相花海月と出会ったのだ。
彼女はたったひとりで学校の制服のまま、水槽を見上げていた。水槽の前に置かれたベンチの上で、少し口を開いたままミズクラゲを眺めていたのだ。
「えぇと相花さん?」
最初に僕が声をかけた。僕の声に驚いた海月はびくりと体を浮かし、驚いた表情のまま僕を見た。そして首をかしげる。
「誰? でも私が通っている学校の制服だね」
「同じクラスの椎名蒼葉と申します」
どうもご丁寧に。と目を細めて海月は一度会釈をすると、ミズクラゲの水槽へと視線を戻す。なんとも気まずいと僕が松葉杖で体を支えていると、どうぞと。海月はベンチの端に寄り、僕を隣に招いた。ふたりの間に松葉杖を揃えて置き、なんだ。普通の子じゃん。と僕は海月の隣に座った。
同じクラスにいるはずなのに、彼女はどこか遠くの世界で生きていた。
理由はわからないけれど、僕はただ海月の隣に並んで水槽を眺める日々が始まったのだ。
その日から少しずつ会話をするようになる。
運動会やクラスでの催し物。クラスの委員会はどうやって決まるのだとか、部活はそんなに自由に決められるのか、運動に興味がない人はどうしたらよいのか。文化部って何をしている人たちなの?
多くは海月が学校生活について質問し、僕は当たり前のことを説明する。ただそれだけの日々。
普通に学校生活を送っていれば自然と知ることも、海月はまったく知らなかった。
小さいころから不良だったのだろうか。
僕もまた自分のことを自然に海月へ話すようになっていた。多くはリハビリに通っているクリニックで、がっしりとした体型の理学療法士によるリハビリテーションの愚痴ではあったのだけど。それでも海月は僕の苦労話を楽しそうに聞いていた。
同じクラスの女子と変わらない笑顔のままにクスクスと、時にはお腹を抱えて笑った。今日もまた文化祭についてあれこれ僕に訪ねた後、海月は勢いをつけてひょいっとベンチから立ち上がりスカートの裾を直す。
「そろそろ行かなきゃ。それじゃ。またこの場所で会えたらリハビリの話を聞かせてね。蒼葉くんの苦労話はおもしろいから。クリニックの前で心が折れて逃げ出そうとしたら、すでにリハビリの先生が待ち伏せしてたのは傑作だった。また私を笑わせられる経験をしてね」
「それはどうも。これでも必死なんだけどな」
わかっているよ。と海月はすっとベンチから立ち上がると、じゃね。と後ろ姿のままで手を振って『こちらが出口です』と書かれた看板の向こう側へと消えていく。
まったく。と僕は頬杖を突いて、ため息を吐いた。
彼女は測られたようにきっかり一時間で水槽の前から消える。
もうちょっとゆっくりしたら? と声をかけたこともあったけど、彼女は寂しそうに首を振るばかりである。そしてわけも話さずにどこかに消えていった。
僕たちは学校の終わった一時間をミズクラゲが浮かぶ水槽の前で過ごした。
時には無言のままに時がすぎることもあったけど、別に沈黙は苦痛でもなく心地よい時間だったと覚えている。
高校三年を迎えて違うクラスになり、僕がようやく歩けるようになったころに水族館は潰れてしまった。平日には僕たちふたりしかいなかったのだから当然だろう。
そして海月は本当に消えてしまった。お互いクラスが別れてしまい、学校で見かけることがあっても声をかけることができなかった。
ミズクラゲの浮かぶ水槽の前だけが、僕たちの世界であったのだ。
僕は松葉杖なしでも日常生活を送れるようになると、日々はさらに現実感を失っていった。まるで夢を見ていたかのように思えた。
そんな中、祖父母が亡くなった。まずは祖父が夜中に抜け出した路上で倒れた。倒れる前にはどうしようもないくらいの脳溢血で、手遅れではあったらしい。そして同じ年に祖母も亡くなった。
肺炎を患い、あっという間に弱って亡くなった。
母は病院と家と往復に疲れて、家に閉じこもるようになってしまった。
そして僕はお世話になった理学療法士になりたい。というありふれた理由で理学療法学科のある大学進学を決め、今までおろそかにしていた勉学に頭を悩ませる日々を送っていた。
母はどこか複雑そうな表情でよかったね。とだけ言った。そして部屋に閉じこもり、祖父母の遺したわずかばかりの遺産と、もうちょっとだけ生きれたのなら、与えられる年金をあてにひとり生きている。
就職が決まり家を出る時、離別とも思える口調で、ありがとう。とだけ母は言った。
しかし今思えば僕にはもう別の何かに没頭する以外の道がなかったのだ。幼いころから母が祖父母の介護しているのを見ていたから、医療職はとっつきやすかったのもまた事実だ。
後悔もあったのだろう。僕は祖父母の介護から逃げていた。血のつながりがあるとは言え、自分のことだけを考えていたかったから。
母もわかっていたのだろう。だからこそ学校に行くように言った。
願いだったのだ。
働き出して母と同じような人が世の中にはたくさんいることを知った。
人の手を借りなければ生きていけない高齢者、自らの人生を縛って介護をする必要のある大人たち、そして僕のようにいつかは同じ人生をたどるのだろうと知ってしまった子供の姿。
行き場を失った人がたくさんいる。そして自分が理学療法士として手を差し伸べることで、助けられることもまた知った。
ずっと僕は過去の自分と母、祖父母を重ねながら臨床にいる。
ただ過去の後悔をいくら振り払おうとしても変えられない現実がある。神さまではないのだ。少なくとも僕は違う。
リハビリでちょっとだけマシになるだけだ。それでも僕は手を差し伸べ続けるしかない。もう、その生き方しか僕は知らないし、できないのだから。
理学療法士として働く日々の中で、今でもたまにミズクラゲの水槽を見上げる海月の横顔を思い出す。
お互いにあった一歩分の距離と、間に置かれた松葉杖と一緒に、暖かな温度が胸の奥に広がっていく。
海月は今どこで何をしているのだろうか。海月との日々を思い出す度にそう考えた。
たしかめようはなかった。なぜ連絡先を聞いていなかったのか。そんな後悔が胸の奥に存在していた。
海月はもう海で浮かぶクラゲを見たのだろうか。
もう会えることはないと知っていながら、寂しさだけが僕の中には存在していた。
これが僕と相花海月との出会いと別れだった。
-◇-
僕が百床ほどの回復期病院である木下病院に勤め出して長い年月が経った。
決して大きな病院ではないが、それでも五十人ほどの療法士を抱え、療法士の数だけならそれなりに有名な病院だった。主任や副主任も複数おりそれぞれのチームを管理している。
回復期病院とは、いわゆる患者が急性期での治療を終えて在宅に帰るため、再び職場へと復帰するためなど、治療が済んでも日常生活に戻るためにはまだ少し時間が足りない。そういった患者を受け入れて積極的なリハビリを行う場所でもある。休日リハビリテーション提供体制加算という、簡単に言えば休日もリハビリを行えますよ。という体制の我が病院のリハビリに休日はない。
僕たちもまたシフト制の勤務体制にてリハビリを行う。
この病院で働き出してもう七年になる。あっという間だった。
休日は資格の取得や勉強、セミナーへの参加へと明け暮れほとんど仕事とプライベートとの境はない。だけど目の前でもとの生活を望む多くの高齢者たちがいる。再び自宅で生活を望んでいるのだけど、それはまだ難しい。
そんな高齢者たちを見ていると、僕は自分が休んでいるのに耐えられなかった。きっと僕がこの仕事に対して、ある種の使命感・・・いや後悔に起因した義務感を感じているからだと思う。
少なくとも目の前にいる患者の将来は、自分たち医療チームに左右される。生きるか死ぬかと言うよりも、生きていけるかどうかの帰路に立つ患者の導になる必要があった。
自分では真面目すぎるとは思うのだけど、休むことに耐えられなかった。
努力している限り、罪悪感からは逃れられる。僕は目の前の高齢者に行き場を与えるために働き続けるために生きていた。
リハビリテーションに力を入れている病院。というだけあって病院にあるリハビリ室は、学校の教室を二つ三つ繋げたくらいの広さがある。そこでは朝八時半、業務の開始と共にそれぞれのチームで朝礼が行われた。
僕たちのチームも同じで、リハビリ室の隅っこで僕たちは円形に並ぶ。平たく二畳位の広さがあるリハビリ用の広いベッドを、円陣を組むかのように青いスクラブを着た療法士が取り囲んだ。
僕の隣には主任と副主任がいて、目の前にはまだ臨床に出て二、三年目、の療法士がいる。いつの間にかこんなにも後輩ができてしまったと、自分が歳を取ってしまったような気がした。僕はバインダーに挟んだ用紙を目の目に掲げる。
「新患が来ています。担当は僕です。八十歳代男性で診断名は慢性閉塞性肺疾患の急性増悪、喫煙指数は一日四十本のタバコを六十年間吸っていたとのことです。インフルエンザの罹患に伴い増悪、体動困難となっていたところを救急搬送されました」
僕は紙面上の情報をできる限り噛み砕いて、若い療法士にも理解できるように伝える。朝に行われる朝礼の目的もあった。熱心に聞く後輩たちの表情を確認して僕は続ける。
リハビリテーションはまず患者の社会背景や医学的な情報、そして身体情報から患者の状況を評価する。どの程度の生活を動作で行っていたのかを。そして医師の判断も仰ぎながら妥当な目標を立てるのだ。
「著しく廃用を来しており、入院直前はほとんど家で動けていなかったとのことです。また認知症もやや進んでおり、服薬や吸入器具の使用は困難。独居で市営住宅であり自宅に手すりを付けるなどの改修は困難でしょう。それでも本症例は自宅へ帰ることを求めています。遠方に甥がおられるらしいので、早々のメディカルソーシャルワーカーと連携をとりつつ、退院支援も視野に入れて介入を行おうとかと考えています」
いいですか? と僕は隣の山伏主任を見る。でっぷりとした体型に黒光りする髪は長い。腕を組みつつ半分眠っていそうな瞳で、まぁいいだろう。と聞いているのか、いないのかわからない言葉でモゴモゴと答えた。そしていつも山伏主任の隣にいる柿原副主任は、神経質そうな細い体で直立したままメガネをかけ直す。髪はゆるやかなカーブを描いて耳元で揃えられていた。
ありがとうございます。と形だけの答えを返し、言葉の後に続く後輩たちの報告に耳をかたむけ、時折助言を添える。いつもどおり朝の風景だ。
正直なところ、僕はふたりが好きではない。病院で働く療法士の増加に伴い、彼らはリハビリ室の奥にある管理者たちが集まるデスクで一日中座り、何をしているかはわからない。勤務表を作る以外も必要な事務作業をしているとのことだったが、周りから見ているとふたりで雑談をしているようにしか見えなかった。
現場の後輩指導や入院する患者のマネージメントなど、現場で行われる業務は僕と、隣で眉を吊り上げ、管理者を睨みつける同期の柊野 桜菜に任せられていた。
何事もなければ興味がなさそうに返事をし、もし自分たちに責任がおよぶと烈火のごとく怒る。あえて全員を集めた上で僕へと責任を転嫁し叱りつけた。
僕たちが主任たちより求められることは、目の前にいる患者へどうかかわるか、どういったリハビリテーションを行うか、そのために何が必要か。ではなく「本日も何も特記はありませんでした」という言葉だけなのである。
きっと昔は違ったのだと思う。急激に療法士の数が増えていき、年長者と若手の乖離は進んでいる。現場から離れれば離れるほど、人を使うことに慣れ過ぎてしまうほど変わってしまうのだ。
吹けば飛んでしまうような自身の立場を守るために、知恵を巡らせなければならない。
「それでは今日もよろしくお願いします」
僕が挨拶で締めると、管理者はそそくさとデスクへと向かう。僕たちは反対方向にあるリハビリ室から病棟へとつながる扉へと足を向け、それぞれの病室へと向かった。
途中、桜菜が僕を呼び止めた。黒く整えられたうなじに小さな顔が続く。 小柄な彼女の背丈は僕の肩より低いが、昔は陸上選手として活躍していた彼女の肉体は引き締まっている。桜奈の肉体は彼女の生き方そのものであり、僕が彼女に敵わないひとつの理由だった。小さな瞳がまっすぐと僕へと向けられる。
「ねぇ。いい加減さ。椎名くんが主任やったらいいじゃん。あのふたりはいてもいなくても一緒でしょ?」
「それはありがたいけど。僕にはキャリアも実績も足りないから無理だろ。でもまぁとりあえずは前に進んでいるさ」
「前はリハビリテーション医学会での発表。そして昨年、三学会呼吸療法認定士、今度は循環の認定理学療法士だっけ? 次はいよいよ専門理学療法士さんだね」
ふむ。と両手を腰に当てまるで自分のことみたいに、桜菜は笑みを浮かべてうなずいた。桜奈の笑みに僕は笑みで返す。医療業界にも多くの資格がある。中でも参加する協会が定める資格、そして格式ある医学会が定める資格の取得には重要な意味を持つ。
資格自体は自分自身の価値ともなり、当然患者に対して行われるリハビリテーションの質自体の向上にもなる。何よりも資格を取れば、現状を変えられると思っていた。自分が率先して実績を残し、僕の行動に追従する療法士が増えていけば、経験年数の差なんて超えていける。
「ちゃんと実績を残しておけば、いつかなんとかなるはずだよ。まぁとりあえずは目の前にある学会参加だね」
私もだね。とへへ。と桜菜は笑いながら体を揺らす。さていきますか。と桜菜は僕の一歩先を歩き出し、僕は桜奈に続いた。前に進もうとしている限りは、現状はいつか変わるのだ。
誰よりも努力せねばならない。目の前にいる患者のために。願いを叶えるために。
ただそれだけが今の僕だった。ただ高齢患者のために努力を続けることが、いつしか心地よく感じていた。
僕たちが病棟のナースステーションへと足を踏み入れると、看護師たちは忙しなく朝のラウンドへと向かう。
紙のカルテと電子カルテが混在する近代と現代の過渡期にあるこの病院には、まだ分厚いカルテが数多く存在している。新患である斎藤 二三雄の欄を選んで開く。朝礼で申し送った患者の誕生日は二月三日であり、なるほどだから二三雄さんか。と僕は笑みを含む。
カルテには患者や患者を取り巻く家族の思いもまた含まれる。人の生き様がありありと刻まれているのだ。
斎藤二三雄はとある町工場の次男と生まれて、中学を卒業した後、地域の工場へと就職する。それからは仕事に明け暮れ結婚することもなく、趣味の酒やタバコ、そして賭け事に身を投じた。還暦を迎えるころには一度倒れ、病院へ搬送された。
急性心筋梗塞と慢性閉塞性肺疾患。荒れた生活習慣による弊害だろう。斎藤はしばらく入院生活を余儀なくされて、年金が支給されるころには仕事を辞めた。
それからしばらく情報は途絶えている。
その間、斎藤がどのような思いで生きていたかはわからない。次の転機は七十六歳の時、今度は脳梗塞を発症した。生活歴からすると発症することは当然だろう。血管自体がボロボロなのだ。
退院する時には今度は認知症の進行があり、自宅内でも転倒を繰り返し、衰弱した状態で病院へ運ばれてはなんとか退院する生活を最近まで繰り返している。
ケアマネージャーの記載には、本人が自宅へ帰ることを望んでいると書かれている。誰だって病院で終末を迎えるのは嫌だけれど、すべての望みを叶えられるわけではない。
状況から言えば自宅で、それもひとりで生活を営むことは困難である。いくら望んでも、体と環境が許してくれないのだ。
もちろん本人が望んでいるのなら望みを叶えたい。そうするべきだと思う。どんな手段を使ってでもだ。だからこそ僕たちがいる。
「まーた。難しい顔して悩んでるっすね。さらに老けますよ?」
声をかけられて振り向くと、腰に片手を当て、斜に構えたまま僕を見る河村 恭平がいた。 ほっそりと長いその身丈に赤に近い茶色の髪をしている。もともとバンドマンだった彼は社会人となった今でもバンド活動を続けているらしい。目は細く笑っていると、どこを見ているかはわからない。
軽薄な印象の話し方をしているものだから、彼が新人のころには上司からの評判はよくなかった。それでも優しい軽薄さは彼の個性であり、賑やかな性格だから今では上司のお気に入りとなっているから社会はわからないものだ。僕よりもずっと器用に社会を生きている。
目の前には斎藤の胸部レントゲンが映し出された。
「今日の新患だよ。ちょっと大変そうだからな。ほら。肺が樽状に大きく膨らんでいるだろう? これは肺の障害が広範囲に及んでいることであり、水滴のような形をした心臓はそれだけ肺が繊維化、硬くなっていることを示している。そして日常生活程度でも息切れが生じており、日常生活が著しく制限されている」
ふーむ。と恭平は身を屈めながら、顎先に手を当て画面を覗き込む。
「そして独居で認知症の高齢者。身寄りは遠い甥っ子のみ。おまけに高度の廃用で日常生活にはすべて介助を要する。これは・・・さすがに自宅生活は無理じゃないっすか?」
ふむ。と恭平の言葉に僕は腕を組む。自宅で生活を続けるのは、年齢を重ねれば重ねるほど難しい。そして認知症を患っていればより難しくなる。自身の状況が理解できなくなり、たとえば転倒を繰り返し足の骨を骨折する。もしくは逆にまったく動けなくなり、荒廃した部屋の中で死に至るほど弱ってしまう。斎藤の場合は後者だった。
だからと言ってまったく手段がないわけでもないけれど、誰かの助けが必ず必要になる。有力な介護者の存在は自宅で生活することを左右する。
「でもまだ甥っ子さんがいるね。関係は疎遠だけど、関係が破綻しているよりもまだ考えようはある。何より本人も自宅で生活することを望んでいる。ここからがリハビリテーション、療法士としての腕の見せどころだろう」
「へいへい。そういうと思いました。うちの管理者もそれくらい熱い男だったらねぇ。あっと・・・管理者が椎名さんを呼んでましたよ。リハビリをする前にちょっと来いって」
恭平は怪訝そうに眉をひそめる。僕は恭平にうなずいて答える。
「この前、学会参加するために有休申請したことだろうな。資格取得には必要だから・・・忙しいのに悪いな」
「まぁ。さっさと実績残して管理者を追い出してくださいよ。寝てるんだから起きてるんだかわからない顔で、朝礼に参加して患者のリハビリもしてないんだから。いてもいなくても一緒でしょ?」
「管理者は管理者なりに忙しいんだよ。おかげで僕たちが心置きなく患者とかかわれるんだから」
本当っすかー? と恭平は口元を歪めて、まぁまぁと僕は恭平をたしなめる。もちろん本心ではないけれど、チームを破綻させるわけにはいかない。
「また今度飲みに行きましょうよ! ちなみにたっくさん愚痴があるんすからね」
「おう。桜奈も誘って行くよ。僕とお前が説教されるかもな」
「あぁ。あの人あんなにしっかりして、お顔もそれなりに綺麗なのに。酔ったらもう・・・おっさんっすよ」
そういうところだと思うよ。と僕が声をかけると、恭平はどういうことっすか? と口をあんぐりと開く。少なくともこんなに気にかけてくれる同期と後輩がいる僕は幸せだろう。どんなに自分の上司が、僕を嫌っていたとしてもだ。
僕は再び病棟を出てリハビリ室へと戻り、奥にある管理者たちの並ぶデスクへと向かった。山伏主任と柿原副主任が並んで座っており、他の管理者は見えない。
山伏主任は目を伏せたままパソコンの画面を見つめている。気がついているはずなのに、彼は僕が声をかけるまで決して自分から口を開こうとはしない。いつものことだ。
「お疲れさまです。何かご用ですか?」
僕が声をかけるとおおぅ。とくぐもった音のする返事をして、山伏主任はゆっくりと僕を見上げつつ、口元を歪ませる。威厳を必死に保とうと芝居ががった仕草に目を背けたくなる。脂肪がまとわりついた顔は輪郭の境界線を曖昧にしていた。
「この前の有休申請だけどな。あれは許可するよ」
「ありがとうござます。では業務に戻ります」
「まぁ待て。それに有給を申請した日がちょうどよくてな。理事長の知り合いから仕事を頼まれている。ケアハウスへ介護予防支援のためにボランティアで行ってほしい」
振り返り病棟へと戻ろうとした僕は目を丸めて山伏主任を見る。
主任の口元は歪みを増して笑みには見えない悪意が覗く。
「申請理由にはしっかりと学会参加のためと書いたはずですが? 」
僕が答えると、はぁ。と山伏主任は演技かかった仕草で肩を落とす。
「お前はそういうところがダメなんだよ。資格を取って何の役に立つんだ? そんなに周りからよく見られたいのか? 学会なんか参加するより地域で困る高齢者の力になる方が有用だろう? そう思わないのか? あぁ?」
「しかし、協会主催の全国学会は年に一度しか・・・」
「だから。そういうところがダメなんだよ。現場を大切にしろ現場を。お前ひとりががんばって何になる? 俺みたいにな・・・もうちょっと俯瞰で社会全体を見渡せるようになれよ。仕事もしない資格マニアだってみんな言っているぞ?」
なぁ。と山伏主任は隣の柿原副主任へと同意を求め、えぇ。と柿原副主任はメガネをかけ直す。視線はデスクの書類へと落とされたままだ。
言葉なく手渡されたパンフレットには『ケアハウス 薫』と書かれている。どこかの小料理屋みたいだなと、洋風の広い建物の外観へと僕は視線を落とした。白い外壁に乗っかった赤茶色の屋根が北欧の小人が住む家のような印象を与える。
話は以上だと山伏主任は右手で宙空を払い、とくに詳しい業務説明もなかった。質問しようにも門戸が閉ざされている。
みんな同じことを言っている。つまりは管理者たちの総意というわけだ。僕の両手からまたひとつチャンスがこぼれ落ちて気が遠くなる。
ここは多くの療法士が働くリハビリテーション病院なのだ。総意をくつがえせない。
それほどの力が僕にはまだない。残念ながら。僕は言われるがままリハビリ室を出る。
そして斎藤のもとへと向かった。カルテの情報だけではなく患者を実際に見るまで情報収集は完成しない。もちろん僕の持論である。
病室へ訪れていると斎藤は横になっていた。鼻には細い管が繋がれていて微量の酸素が流れ続けている。ひどく苦しかっただろうなと、すやすやと寝息を立てるシワくちゃの老人を眺める。髪は伸びきっていて、しばらく切られたようすがない。
手足は枝木ほどの太さしかなく、垂れ下がる皮膚は張りを失い、重力に従い垂れ下がっている。
呼吸は落ち着いていたが肋骨の浮いた胸は動いておらず、代わりに腹部が小さく上下運動を行っていた。状態的には安定しているだろう。考え事をしながら表情を眺める僕に斎藤は気がついたのかうっすらと目を開ける。
「おや。ここは加藤さんの店かい? また酔っ払って寝ちまったのかな」
ここは病院ですよ。と僕がゆっくりと首を振って答えると、そうかい。と掠れた声で斎藤は天井を見上げる。
「家に帰らなかきゃなぁ。甥っ子はもう大学生なんだ。小遣いをやらないと」
斎藤は再び目を閉じる。斎藤の甥はもう六十歳を超えている。
斎藤は遠い過去をさまよっているのだろうか。ふわふわと過去へと浮かぶ思考の先に、幸福があるのだろうか。
それでも前に進まなければいけない。立ち止まっていてはどこにも行けないのは、僕も斎藤もまた同じなのだから。
まだ時間はあるのだ。療法士を続ける限りチャンスはいくらでもある。俯瞰で物事を見られなくてもせめて今は、目の前にいる患者に対してはしっかりと目を向けよう。
僕は自分に言い聞かせた。ケアハウス薫か。本当にケアハウスなのだろうかな。と僕は病室を出ながら両手を見た。
喪失が指の隙間から流れ出して、空になった両手を握りしめることはできなかった。
-◇-
どこまでも平地の続く土地には、冬になると冷たい風が街を包んでいく。
雪は降らずとも大気から温度は奪われて、街が色味を落としていく。僕は路面電車を乗り継ぎ、市内を横目に目的のケアハウスへと向かった。
理学療法士に取って地域の介護予防もまた重要な仕事となる。配偶者との死別や孤独、社会環境の変化から孤独となった高齢者は多い。高齢者がいつまででも生まれ育った町で、今まで通りの生活ができるように援助する必要がある。
だからこそ休日であっても病院からの指示や都道府県からの要請があり、運動や生活指導といった形で地域へ働きかけることも多い。
多くは公民館や時には公園などでの体操や講義、生活相談になるのだけど、ケアハウスへの出向は僕にとっては初めてだった。と僕は路面電車を降りて市内から少し離れた街へと向かう。
ケアハウスとは文字通り、ひとりでは生活が困難となった高齢者がケアやサービスのもとで生活を続ける場所である。多くは医療法人が病院や介護施設と併設して経営している施設が多い。近年では民間企業も多く参入し、それは街にひとりで生活することの難しくなった高齢者が、数多くいることでもある。
買い物や洗濯、食事の準備といった日常生活に関連した動作は、単純に部屋の中を移動したり、洗面や更衣といった身の回りの動作に比べて難易度が高い。それだけ危険も増える。
だからこそひとりでは難しい部分を補いつつ生活する場もまたケアハウスである。自宅で過ごすことのできない高齢者は、居場所を変えながら誰かの手を借りつつも生きていく。
その人らしく最期まで生きる。それはとても難しい。
「ここかな・・・」
渡されたパンフレットにある地図の場所へたどり着く。一見して普通の住宅にも見える二階建ての建物である。
外壁は白く少し汚れており、緑色の蔦が壁を這っている。屋根は平たい赤茶色で母屋が広く広がっていた。下屋には細く縦長の玄関ドアが黒く塗られている。扉には三つの段差が続く。横には広くとられたベランダで白いシーツが揺れていた。奥行きはとてもありそうだったが、よく見るケアハウスの構造と比べるとこぢんまりとしている。
たった十部屋しかないとパンフレットには書かれていたため、ある程度予想はしていたけれど、本当にケアハウスなのかは疑問だ。
ま ず気になったのは玄関の幅と段差であった。高齢者が住む住宅として作られているため、ケアハウスは基本的に段差が解消されている。車椅子での移動も考えられた広い玄関口があり、高い段差があると車椅子の利用者は、ケアハウスに入ることができない。
僕は眉をひそめてドアの前に立つ。隣には縦長に縁取られ、ケアハウス薫と書かれていることをもう一度確認した。
インターホンを押すとドアの向こうでチャイムの音が響き、しばらく間を置いて、はい。と枯れた声が響く。ケアハウスで働く職員なのだろうか。枯れた声に合わせてこもった音が響く。その音は喉が慢性的に炎症を起こしているということだ。人より多く分泌される痰が十分に出せていない証拠でもあり、声の主が話す前、息を吸う瞬間に笛の鳴る音がした。
「木下病院から来ました椎名蒼葉と申します。本日ここで介護の指導をとのことでしたが・・・」
「鍵は開いてるから中に入っておくれ」
ぶっきらぼうに言われて僕はムッとする。声の主がそれだけ言い終わるとブツっとインターホンの途切れる音が響いた。
僕は言われた通りに玄関のドアを開け中へ入る。玄関先には上がり框があり、いくつか靴が並べられていた。僕は持参したスポーツシューズに履き替え顔を上げると、ガラスが八つに区切られた黒塗りのドアがある。
怪しい場所だ。恐る恐る幅が両手を伸ばしたくらいの短い廊下をまっすぐ進む。壁に手すりがない。しかし手すりを付けてしまえば、きっと車椅子が通れるほどの幅がなくなる。足元灯もなくこれでは夜間の移動時に転倒するリスクも高い。僕は本当に利用者がいるのか不安になった。
それでも人が生活している匂いはした。雰囲気といってもいい、温度が建物の中に流れている。
扉を開けると、まず部屋の奥に広がるステージが目に入った。奥には赤黒いカーテンが広げられており、天井には色を変える照明が目に入る。
ドラムセットはステージの隅で古びた車椅子と一緒に並べられていた。黒く箱状のアンプはそのままで鎮座しており、上面には薄らと埃が被っている。部屋は黒塗りであり照明もまた薄暗い。
ステージ前に並ぶ三つのテーブルは、普段の病院や介護施設でよく見る形状をしていた。角は丸く、車椅子でも利用できる高さのアイボリー色のテーブルが、目の前に広がる光景で逆に浮いて見えた。
ケアハウスというよりも地下にあるライブハウスを思わせる光景に、僕は息を呑む。
「なんだい。ベテランをよこせって言ったのに。まだガキじゃないかい」
急に横から声をかけられて、ヒッと僕は息を飲んで驚く。恐る恐る視線を向けるとカウンターが見えた。
黒く塗られた木の板でL字型に伸びるカウンターと、奥にガラス戸にグラスが並んでいる。高い真っ赤な革張りのカウンターチェアーが並び、足を組んだ細めの女性が、あきれたようすで僕を見ている。
線は細く華奢というより虚弱に見えた。真っ赤なセーターの下には膝が擦り切れたジーパン、シワの浮かぶ細い指先は組まれた足に乗せられていた。顎は細く頬がこけている。目は窪んでおり疲れ切っていた。
白く流れる髪は肩まで伸びていて、毛先になればなるほど鮮やかな赤色をしている。首筋は細く筋張っていた。
格好は若々しく見えるが、病的な高齢者という印象も受けた。首筋に張った筋肉の隆起が呼吸器疾患を患っている証拠でもある。
「なんだいぼーっとして。本当にあんたが理学療法士の先生? まだ学生じゃないのか?」
「若く見てもらって光栄ですが、今回派遣された木下病院の理学療法士です。えぇと・・・何をしたらいいのでしょうか?」
「そんなことも聞いていないのか? まぁいいよ。本当にあの爺さんはもうろくしたねぇ」
はぁ。とため息をゆっくりと吐いた女性は、組んだ足に肘先を置いて頬を支えて僕を見る。今回は理事長からの依頼だと僕は聞いた。ならば女性の言う爺さんとは理事長を指すのだろう。
いくら非難されようとも業務に関しては何も言われていないのだから、聞くしかない。すみません。と頭を下げる僕に、まぁいいと高齢の女性は肩をすくめる。
「あたしらは、あんたたちに頼む立場だからね。贅沢は言えないさね。私だってもうひとりで風呂さえ入ることができないんだ。息苦しくてね。ここはそんなあたらしらの終の住処ってわけ。それくらいはわかるだろう? ケアハウスって名乗ってんだから。あたしは高野 冴子。尊敬の念を込めて冴子さんって呼びなよ」
はい。と僕がうなずくとカウンターに置かれている、銀色の半円形をした呼び鈴を押す。リン・・・と弾かれた鈴の音がした。
はーい。と奥から声がして観客席にも見えるテーブルが並んだ広間の横に、ひっそりと設置された開き戸が開く。扉から小柄な女性が姿を現した。
白いカーディガンの上にクマの柄がプリントされたエプロンは、膝の下まで伸びている。
栗色の髪はふわりと整えられており、丸くどんぐりのような瞳がぱちくりと何度も閉じたり開いたりしていた。
見覚えがある。記憶の中で彼女は円柱状のミズクラゲが浮かぶ水槽の前で僕と並んでいた。遠い昔の記憶がありありと蘇り景色が青紫色に染まる。
「蒼葉・・・くん?」
口元に手を当てる相花 海月が、記憶と寸分違わぬ姿のままで目の前にいた。
「相花さん?」
僕も呆然と立ち尽くし、隣で冴子がほぅ。と口元を歪めて微笑んだ。