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森鴎外と父とのやり取り 明治の親子関係

森鴎外の随筆に、幼い頃の森鴎外が、父にサフランについて尋ねる描写がある。
「お父っさん。サフラン、草の名としてありますが、どんな草ですか。」

なんとも健やかな話し方だと思う。
馴れ馴れしくもなく、厳しくもない。
「いいとこの子」だなと思わせる話しぶり。

父と子という関係だが、今でいうと、尊敬する先生(そんな人がいればだが)に対するくらいの距離が、そこにはある。
愛情がありつつも、精神の距離がある感じ。
ちょうど江戸が終わり、明治が始まった頃の、父と子の話。

父と子、それぞれの精神が屹立し、距離があった時代からすると、今の親子関係は、気を抜くとベタベタした関係になり、気を入れすぎると、操作的でぎこちない関係になる。
親子のあり方を考えても考えなくても、「健やかな関係」とはほど遠い。


息子である森鴎外からサフランについて、そう尋ねられた父は、薬箪笥のひきだしに乾燥させたサフランがあることを思い出し、
「花を取って干して物に色を附ける草だよ。見せて遣ろう。」と返した。

「見せて遣(や)ろう。」
この時代の人の「やろう」は、「遣ろう」である。

会話なので文字表記は「やろう」でも「遣ろう」でも、どちらでもいいのだが、「やろう」よりも「遣ろう」のほうが適切だと思わせる父の口ぶりが、文章の随所に見られる。

そうだ。
「健やかな関係」は「言葉」から始まるのである。
いや、なにも「健やかな関係」に限らず、すべての関係は「言葉」によって作られる。

馴れ馴れしい言葉を使えば、べたべたした関係が生まれるし、
操作的な言葉を用いれば、「意図」が見え隠れする関係ができる。

親子のあり方の「答え」が一つでない現代では、他人のあり方に、人は「やいのやいの」言ってくるが、その関係はそれぞれ独自のもので、それぞれが構築していくより他はない。

同じ作品の後半で、森鴎外は、「自分で決めることの大切さ」を指摘する。

「私が物に手を出せば(サフランに水をやれば)、人は「野次馬」と言い、手を引っ込めれば(やらなければ)、「独善」「残酷」「冷淡」と言う」と。
「それは、人の口である。
 人の口を顧みていると、一本の手の遣りどころもなくなる」

人の言うことをいちいち気にしていると、サフランに水をやる手すらも動かせなくなるのだ、と鴎外は言う。

いろんな人が「やいのやいの」言ってくるのは、明治も令和も変わらない。
他人は「やいのやいの」言うわりに、「私」の代わりに責任を取ったり面倒を見たり、寝てくれたり食べてくれたり、しょんべん一つさえしてくれることもないだから、自分のことは、自分の思うようにやるより他はない。

なにより私は、「健やかな関係」を重要な徳の一つとみなしている。
「健やかな関係」を築くための言葉をこそ、大切にしていかなければならない。

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