学校で「日常会話」は教えるべきなのか
<わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています>
私たちは日常会話を習ったことがない。
おしゃべりの仕方とか、雑談の仕方とか、世間話の仕方とか、ナンパの仕方とか。
以前は「コミュニケーション」という言葉も日本にはなかったので、それも当然だったのだろうが、今では、「コミュニケーション能力」は社会でやっていく際に重要な能力の一つになっている。
コミュニケーション能力が大事になったのは、サービス業が全体に占める割合が増え、人とコミュニケーションを取る仕事が社会の中で増えたという理由もあるだろうが、それよりも、人とコミュニケーションを取ること自体が、以前より難しくなったために、「コミュニケーション能力」が盛んに取り沙汰されているという理由が大きいだろう。
例えば、仕事でなく、カラオケという娯楽一つ取っても、以前は、どの世代も盛り上がるような曲というのがあったが、今では、それぞれがまったく違う種類の音楽を聞いているので、共通して盛り上がる曲を探すのことが難しい、というか、カラオケ自体が、異世代間のコミュニケーションツールとして成り立たなくなっている。
それほど、他人とコミュニケーションを取ることは難しくなった。
世代や個人によって多様なライフスタイルが可能になる中で、それぞれの「違い」は増え、「同じ」は減った。
そうして、他人とのコミュニケーションが以前より難しくなると、コミュニケーションを意識的に教えるということが必要になってくる。
今では、小学生に対して、「話し方を教える」という意識が、学校側にあるのだという。
どういう話し方をした方が、友だちと仲良くやれるかを、道徳的な話としてではなく、話のテクニックとして教えるのだ。
例えば友だちに、「その絵、あんまり上手くないけど、一生懸命書いてたね」と言うのと、「一生懸命書いてたけど、その絵、あんまり上手くないね」と言うのでは、前者のほうが印象がいい。
「”褒める言葉”は後ろに置くべし」である。
そんなことは、日常生活を送っていれば当たり前にわかりそうなことだが、それがわからない、もしくは、うまくできない子たちがいるために、それをわざわざ学校で教えるのだという。
そこには、発達障害という名でくくられる子ども達の増加もあるのだろう。
「〇〇、けど、〇〇」
このように文が逆説になる場合は、後ろの方に力点が置かれるものだが、それは、ほとんどの人が、意識せずに普段の会話の中で知っていることである。
しかし、そうした、なんとく誰もができていることをできない人もいる。
だからといって、それが出来ていないことを、毎度毎度、相手が面と向かって、指摘してくれるわけではない。
できない子は、ずっと、できないままなのである。
日常の中で、なんとなく学んでいることに学校が関与しなければいけないかどうかは、議論が分かれるところであろう。
そんな細かい日常会話のやり方まで学校が指導しなければいけないわけではないという意見もあるだろうが、国語の授業の延長として、皆が当たり前にやっていることを、今一度、整理して確認しておくのはよいことなのかもしれない。
ただ、日常会話には、膨大なパターンが存在する。
先程、「逆説」の場合は、後ろに力点が置かれると言ったが、例えば、恋人や奥さんが美容院に行って帰ってきた際に、「どう?」と聞かれた際には、この「逆説」の論理は当てはまらない。
「新しい髪型、似合ってないけど、今日の服とは合ってるよ」と言うのと、「新しい髪型、今日の服とは合ってるけど、似合ってないよ」と言うのは、どちらがいいかというと、どちらもダメなのである。
学校で「逆説の話し方」を習った子どもは、「なんで、”褒め”を後ろにもってきたのに、『新しい髪型、似合ってないけど、今日の服とは合ってるよ』もダメなの?」と思う可能性があるが、ダメなものはダメである。
人が髪型を変えた時は、「肯定」しかしてはいけない。
語順を変えたくらいのテクニックでは、誤魔化しがきかないのである。
ことほど左様に、会話にはバリエーションと多くの文脈があり、教科書的に会話を教えるのは難しい。
言い方や語順の細かいテクニックでどうにかなる場合もあるが、ほとんどは、慣習に左右されるものなので、日常の慣れの中で理解していくしかない。
「習うより慣れろ」である。
そうは言うものの、実際の友だち関係や男女関係、先輩や上司との関係の中で、慣習に慣れる前に、傷ついたり、嫌な思いをする人は多くいるだろう。
そういう意味で、授業中の、傷つかないシチュエーションの中で、コミュニケーショントレーニングを、ドリルのように、ただ黙々と解きながら理解していくのは、一部の子には助けになるのかもしれない。
日常会話を学校で教えなきゃいけないなんて、学校の先生にしてみたら大変でしかないが、誰のせいでもない、
悪いは、圧倒的に会話経験の少なさをもたらす、少子化なのだから。