教育に「現場」があるかぎり、AIに取って代わられたりしない
「君は、将来は弁護士になるんじゃないかな」と中学生の時に言われたことがある。
そうはならなかったけど。
「君は、哲学の道に進んだらどう?」と、大学生の時に言われたこともある。
これも、その道に進むことにはならなかった。
「弁護士」と言った人も「哲学の道」と言った人も、軽い気持ちで言ったんだろうけど、軽い気持ちにしてはその2つには差があるなぁと感じる。
弁護士は、世の中にまぁまぁ必要な職種だけど、哲学者は世の中にそんなにはいらない職業だ。
弁護士や教師のような「現場」がある職業は、現場ごとに人が必要で、ある程度の数がいないと世間が回らないけど、哲学者には「現場」がないので、国内にある程度の数いれば、事足りる。
さらにいうと、哲学の仕事には、国内と海外という区分もあまりないので、世界にある程度の人数いれば、事足りる。
そう思うと、「弁護士になれば」と言った人より、「哲学の道に進めば」といった人の方がだいぶ無責任だな、これ。
最近は、教育においても「リモート」が進んでいる。
新型コロナによる加速もあったが、それ以前から、「良い先生」の講義や講話を録画して、各地の教室で視聴するスタイルは、予備校を中心に広まっていた。
サテライト方式である。
今後もその流れは加速して、一握りの「良い先生」と、その先生の講義を元に「現場」で生徒たちをサポートする多くの先生に分かれるだろうと言われている。
それは、弁護士業界でも同じで、これまでやっていた弁護士の仕事の多くを今後、AIが肩代わりしてくれるようになれば、弁護士がやるべき仕事の範囲は様変わりしていくと言われている。
しかし、そうだとしても、社会から、「現場」の仕事がなくなるわけではない。
知識は、それだけで人を動かすわけではないから、「良い先生」による最高の講義が見られるようになったからといって、子ども達がそれだけで勉強し始めるわけではない。
すでに世の中には、ハーバード大学やイェール大学の講義が無料で見られる環境があるにもかかわらず、誰もその質の高い講義を見ようとしないし、見たとしても、ほとんどの参加者がコースの途中で脱落している。
知識が用意されていても、やる気が続かないのだ。
オンライン教育の最大の問題は、モチベーションである。
知識が手元にあるだけで人が動くのなら、スマホを手にした我々はもっと賢くなっているはずだし、知っているだけで痩せれるのなら、街中からトレーニングジムの看板はとうに消えている。
ダイエットの仕方は、誰もがわかっているが、自分ではやらないから、お金を払ってでも、人に尻を叩いてもらうのだ。
人は根本的に怠惰である。
「現場」を持つ弁護士や教師は、今後、やり方は変わっていくにしても、消滅することはないだろう。
しかし、哲学者には最初から「現場」というものがない。
「真理とはなにか」「美しさとはなにか」などと考えている人には、個別のクライアントや生徒はいない。
「個別」ではない「普遍」を追っている人たちに、個々の「現場」はない。
「感覚」で捉えられる世間や社会ではなく、「理性」でしか捉えられない「形而上」を相手にしている哲学のための居場所は、この世(形而下)にはほとんど用意されていない。
また、「哲学者」に似たカテゴリーに「思想家」という人たちがいるが、思想家とは、ある種の「ものの考え方」を提示する人たちなので、言語ごと、文化ごと、地域ごとに、様々に存在してもよい。
しかし、哲学者は、「ものの考え方の考え方」を提示する人なので、やはり、数はそんなにはいらない。
「ものの考え方の考え方」は、言語や分野や地域でそれほど違うわけではない(し、違わないことが「ものの考え方の考え方」である)。
そう思うと、重ね重ね、「君は、哲学の道に進めば」と言った人は無責任だなと思うが、「哲学の道に進め」というのが「哲学で飯を食え」ということじゃなく、「哲学の道」を進むことで、「ちょっとは君の不満足が解消するかもしれないよ」ということだったとしたら、どうだろう。
そう考えると、あれは、「無責任」ではなく「含蓄のあるアドバイス」だったのかもしれない。
「君はサッカー選手になれるよ」という言葉は、子どもにとっては希望であり、それと同時に無責任な言葉でもあるが、「君はサッカーの道に進みなよ」と言う言葉には大きな「幅」がある。
たとえ、その子がサッカー選手になれなかったとしても、サッカーの道を進んでいれば、サッカー指導者になれるかもしれないし、審判になれるかもしれないし、戦術アナリストに、スポーツメディカルドクターに、サッカーチームの経営者になれるかもしれない。
そして、もし、そのどれにもなれなかったとしても、その子は、一生、サッカーを好きでいられるかもしれない。
人生において、自分の好きなものや打ち込めるものがあることは、それだけで喜びであり、慰めである。
なにかに「なる」必要は必ずしもない。
そう思えば、人へのアドバイスは「〇〇になれる」ではなく、「〇〇の道に進め」の方がよっぽど適切なのかもしれない。
人も、アドバイスも、「幅」があったほうがよい。