ねこ娘が八頭身になる時代にも、妖怪には果たすべき役割がある
「おい、鬼太郎」
高校生たちが目玉の親父の声真似をしている。
その様子だと、「ゲゲゲの鬼太郎」はまだ、
ティーンネイジャーに受け入れられているらしい。
安堵。
この前、たとえ話で長嶋茂雄を挙げた時はキョトンとされたし、
ヒッピーの話をした時は、「それ、ゆるきゃらですか?」と言われ、
ヒッピーの画像を見せると、
「あぁ、Superflyのことですね」と返された。
高校生になにが伝わり何が伝わらないかは、
例え話をする時のためにも、把握しておく必要がある。
「ゲゲゲの鬼太郎」は日曜の朝にテレビ放送されている。
水木しげる先生が亡くなっても、アニメ放送は続いており、
水木先生が生み出したキャラクターは、テレビの中で動き続けている。
現在のアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」はデジタルで描かれているので、
以前のアナログアニメにあった、
妖怪の不穏さやおどろおどろしさが伝わにくい気がすると、
昭和世代の僕なんかは思ってしまうが、
デジタルのきれいな線で描かれた鬼太郎が、
妖怪たちに近寄ってくる可愛げな人間の女の子に対して、
「妖怪と人間は仲良くなれないんだ」と、
冷たく突き放しているところなどを見ると、
ゲゲゲの鬼太郎の本質は変わっていないと、思い返す。
妖怪の世界はそこにある。
しかし、妖怪と人間世界は、決して交わらない。
そうしたクールな鬼太郎の姿勢が、
妖怪を人間の友達のように扱ったり、人間が妖怪をペット化している
他の妖怪アニメと「ゲゲゲの鬼太郎」の明確な違いだ。
鬼太郎は決して、人間と馴れ合わない。
(でも、結局、優しくしちゃうんだけど)
現在の「ゲゲゲの鬼太郎」は6期目で、
キャラクターデザインも少しずつ、変わってきている。
きついつり目で三頭身くらいだった猫娘も、
今ではパッチリした目で、八頭身くらいあって、
なぜかハイヒールを履いている。
猫とは思えないスレンダーさ。
この間まで小学生みたいな服装をしていたのに、
なんで急に大人びたのだろう。
化け猫だから、どんなプロポーションにもなれるのだろうか。
「ゲゲゲの鬼太郎」がまだアニメになるはるか前、
「墓場の鬼太郎」として漫画が貸本屋で貸し出されていた頃に比べると、
アニメの中の妖怪が持つ、影や闇や不穏さは、ほとんどないに等しい。
そこに、昔からの読者は不満を感じるかもしれないが、
日曜朝9時のアニメで、あのおどろおどろしさを出したら、
テレビの前の子どもたちは、その恐ろしさに失神するだろう。
世間から物理的な闇が消え、
24時間営業のコンビニや自動販売機など、
深夜でも煌々と明かりが灯っている今の街に、
本物の「闇夜」というものはない。
闇夜がない街に、妖怪や幽霊はいない。
妖怪は、
人が自然や闇に対して畏怖する時に初めてその存在を感じられる物の怪で、
妖怪が住む暗闇を明るく照らしてしまえば、
人は、山を、夜を、闇を、雷を、畏怖しなくなる。
そんな世界で生きている現代の子どもたちが感じる妖怪は、
貸本屋で「墓場の鬼太郎」を読んでいた世代が感じる妖怪とは違うだろう。
しかし、その時代時代ごとに、物の怪もまた変化する。
江戸時代、都市に人が集まり、
人工的なまちに夜でも明かりが灯り始めた頃、
それまで山や森の中にいた妖怪たちは、ぞろぞろと街に降りてきた。
江戸時代の妖怪は、
より都市生活の場面場面や場所場所に応じた妖怪たちで、
それは、室町時代までの、自然の中の大きな闇夜に住む、
姿・性質のはっきりしない物の怪たちに比べると、
コミカルで親しみやすい存在になっていった。
時代によって物の怪の姿は変わり、
物理的な闇がなくなっていく時代にも、
子どもたちは妖怪の影を感じる。
しかし、皆が共に畏怖し、
共に恐怖するような物理的な闇がなくなると、
闇は、物理的な空間を離れ、
個々人の心の中に潜り込むようになる。
「心の中の闇」は、他人が覗き見たり触れたりすることができず、
一人で抱えるしかない。
一人で抱えるには、闇は、重く、深い。
近代科学がその明快なロジックでもって
自然科学のメカニズムを解明してくれたおかげで、
人間にとって物理的な闇は、恐るるに足らないものになった。
しかし、それを頭で理解する前の子どもたちは、
まだ闇夜を恐れ、自然の中にいる物の怪の影に怯える。
それは、心の中に巣食う闇ではなく、
外の世界に存在する、物理的でリアルな闇。
その闇に対する畏怖を子ども時代にしっかり感じていれば、
大人になっても、心や頭の中の世界だけに生きて、
心の闇に支配されることはなくなるはず。
妖怪アニメには、その重要性を伝える役目があり、
今後出てくる妖怪アニメがただのキャラクターアニメであっても、
ネコ娘の容姿が、男受けを狙ったものに変わっていっても、
水木先生の残した「ゲゲゲの鬼太郎」だけは、
その役目を忘れずに果たしていくものだと信じたい。