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ジェンダー的な視点から「赤ずきん」や「眠れる森の美女」を廃棄することについて

<わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています>

数年前、スペインのある小学校で、ジェンダー的な視点から、
「赤ずきん」や「眠れる森の美女」を含む、
不適切な児童図書200点が廃棄されるというニュースがあった。

女性と男性の役割分担を間違って教えるような古い価値観の児童書は、
子どもたちに間違った性意識を植え付けるという理由から選別が行われたらしい。

子どもが本から受ける影響は多分にあるもので、
子どもに読ませる本を大人が選別する以上、
そこにはなんらかの価値観が入り込む。
完全に公平で公正な教育などはない。

廃棄を決めた図書館によると、性差別の観点から児童書を調査したところ、
全体の3割以上が「有害」、6割近くは「問題がある」本なのだという。

「男性のサポートをすることが女性の幸せ」という間違ったメッセージを送らないために、
不適切な図書を子どもの目に触れさせないということは、一理あるような気もする。

しかしながら、それが行き過ぎると、
「現在のジェンダーの価値観にそぐわない物語はすべて焚書せよ」
ということになりかねない。

「白雪姫」や「シンデレラ」のような、
地位のある男性に貰われることで幸せになる女性の物語はもちろんのこと、
グリム童話や日本の昔話の中には、現在では差別に当たるような描写がいくつもあるし、
伝説や神話は、DVにつながるような暴力や殺人で満ちている。

それらをすべて現代の価値観で断罪しては、
名作を含む過去のロングセラーは、ほとんど子どもに読ませられないことになる。
古典や昔話など長い間読みつがれている物語は、色々な読み方ができるから古典なのだ。

動物と人間の交流モノとして評価の高い、
ヒュー・ロフティングによる『ドリトル先生』シリーズにも、
現代の価値観に照らしあわせると、眉をひそめたくなるような描写が出てくる。

『ドリトル先生』シリーズは、日本でも長い間親しまれており、
著名な科学者たちも、子どもの頃に読んだ愛読書として紹介したりするのだが、
描かれたのが第一次大戦前のイギリスということで、
黒人に対する差別的な描写が色濃く反映されている。

例えば、『ドリトル先生アフリカゆき』では、
アフリカで出会った王族の王子が「肌が白くなりたい」とドリトル先生に懇願し、
ドリトル先生はその場しのぎで、王子の肌を脱色(?)して、その隙きに逃げる。

金も名誉も求めず、動物のために献身的に医療を施すドリトル先生が、
黒人にだけは、当然のように高圧的な対応をする。
今読むと、どうしてもそこに違和感を感じる。

本著を編集し、作家の井伏鱒二に日本語訳をお願いした石井桃子さんは、
あとがきで、そのことに触れ、
物語としての魅力と、差別を容認できない気持ちの狭間で揺れる思いを吐露している。

「くまのプーさん」を始め、多くの児童書を日本に紹介した石井桃子さんに、
差別を助長する気持ちがあるはずもなく、
「山椒魚」や「黒い雨」を描いた井伏鱒二に、
弱者に寄り添う視点がないことは確かなのだが、
石井桃子や井伏鱒二を知らない純粋な小さな読者たちにはそれが伝わらない。
だからといって、海外に輸出しているアニメのように、
不適切な表現をなにか別のものに差し替えれば、それはそれで興ざめである。
(アニメ『ワンピース』の海外版では、教育的観点から、キャラクターの「タバコ」が、「キャンディ」に差し替えられている)

現代のディズニーのヒロインが男性に依存しない力強い女性だったり、
女性向けアニメの「プリキュア」に男性キャラクターが登場したりと、
現代の女性ヒロイン像は、日々、変化している。

そうした現代の価値観を取り入れた新しい物語を見せることで、
以前の価値観に染まった昔の物語は相対化される。

ものを考えるということは、
「同じだと思っていたものの中に潜んでいる違い」に気づくことから始まる。

「強い女性が出てくる」現代のアニメを見て、「従順な女性が出てくる」過去の名作を読んで、
「あれ、王子様って待たなきゃいけないんだっけ?」とか
「あれ、肌の色が違うとなにが問題なんだっけ?」と考えるのが学習ということで、一つの価値観を押し付けるのは、その学習機会を奪っているともいえるだろう。

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